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第21話:箱の静けさ "封印逆転"

港の夕暮れは、勝ったようで負けている匂いがする。

潮の冷たさが戻ってくるのに、喉の奥には紙の乾きが残る。掲示の紙がはためく音が遠くでまだ続いていて――それが妙に、耳に刺さった。


ミナト・アヤメは石畳の端に立ったまま動けなかった。

正確に言えば、“動ける世界”が彼女の体の周り一メートルしかなかった。


【Zone restriction: 1m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


一メートル。

影の中だけが世界になる。

世界が狭いと息が詰まる。息が詰まると焦る。焦ると、相手の手順が通る。


だからアヤメは息を数えた。

吸って、吐いて、手帳を抱き直す。紙の角が掌に当たって痛い。痛いなら、まだ自分はここにいる。


「動くな」


低い声。レイだ。円の外側に立ち、港の人波を切るように視線を動かしている。刃を抜かないまま、刃の気配だけで人を遠ざける立ち方。


「動きたくても動けないよ」

「動きたくなる場所が危ない」


レイの言葉は短い。短い言葉は無駄がないから怖い。怖いけれど、今はそれがありがたい。


円の内側に、紙の匂いが滑り込んできた。

エドが来た。抱えた紙束の角が揃っている。角が揃っていると、世界のほころびが余計に目立つ。


「ここから先は、“内容”じゃなく“扱い”で勝つ」


エドが息も置かずに言った。

アヤメは眉を寄せる。


「扱い?」

「証拠は中身だけじゃ弱い。誰が触ったか、いつ触ったか、どこに置いたか。触った順番。封印。受領。閲覧。——それが揃って初めて、規定が動く」


規定。感情では動かないもの。形でしか動かないもの。

アヤメの胸の奥が、少しだけ落ち着く。形なら読める。読めるなら揃えられる。揃えられるなら折れる。


「……折れる?」

「噂を折る。疑いを折る。制限を折る」


エドは言葉を区切り、視線をカメンの待機所へ向けた。

白い幕屋の陰に青い光。冷たい存在感が、港の湿った空気をわずかに硬くしている。


「保管庫へ行く。監査の“箱”だ。そこに入ったら、紙の言い訳は効かなくなる。効かなくなる代わりに、相手も嘘をつきにくくなる」

「相手?」

「黒市だけじゃない。穴があるなら、穴を塞ぐ」


穴。

誰の穴か言わない。言えない。言った瞬間、刃がこっちへ向く。


「行く」


エドが短く言った。

一メートルの円は移動できる。けれど移動のたびに、誰かの肩が当たる危険がある。擦られる危険がある。

レイが円の進路を作る。人が無意識に避ける角度で、道を開ける。


港門の喧噪を背に監査区画へ入ると、匂いが変わった。

潮が薄れ、紙と金属が前に出る。床は同じ石なのに、冷たさだけが増している。


保管庫は白い幕屋のさらに奥――木枠で組まれた小屋の中にあった。

扉の前に立つと空気が一段硬くなる。壁の向こうに“整理された静けさ”。静けさは好きだ。静けさは怖い。


カメンが扉の横に立っていた。青い光が均一で、影ができない。


「入室手順を提示せよ」


エドがすぐに紙を出す。

紙の上には短い箇条書きと署名欄。署名欄があるのが皮肉だ、と思ってしまい、アヤメは苦い息を飲んだ。


「入室目的:証拠保全、閲覧履歴確認、封印確認。

 立会:カメン、エド。観測対象:ミナト・アヤメ(READ限定)。

 接触制限:観測対象は物品に触れない。

 記録:受領番号、封印番号、時刻、担当ロール。

 逸脱時:制限強化」


カメンは紙を受け取り、角を揃えた。


「許可する。——観測対象、入室」


扉が開く。中は暗くない。けれど明るさが均一で、昼の光とは違う。

棚が並び、黒い箱が整然と積まれている。金属の匂い。湿り気のない匂い。紙が吸った匂い。


中央に大きな台があり、台の上に“封印札”が揃えられていた。札は薄く、冷たい。


アヤメの視界の端で、文字が走る。


【Evidence vault: active】

【Chain-of-custody: enforced】

【Unauthorized touch -> violation】


ここでは、触るだけで罪になる。

触れない自分にとっては、少しだけ安心だった。触れないなら、余計な付着も増えない。


エドが台の上へ、布に包まれた小袋を置いた。

路地で止められた薄片の欠片。回収された紙の切れ端。掲示の角。誰かがわざと擦った跡がある、とエドは言った。


「受領番号を発行する」


カメンが札に触れる。触れた瞬間、札の表面に淡い光が走った。


【Receipt ID: EV-2037】

【Seal ID: S-11A4】

【Handler role: vault-keeper】

【Witness: MASK / ED】

【Subject contact: prohibited】


アヤメは息を吸った。

“禁止”が、ここでは守りになる。


エドが鉛筆で紙に書く。時刻、場所、回収者、目撃者。

書きながら、エドがアヤメへ視線を寄せた。


「見るんだ。君は“形”を見られる。ここで見える形は、言い訳より強い」


アヤメは頷き、目を凝らした。

視界の端にログが流れる。港の波より正確な波。正確だから怖い。正確だから頼れる。


【EV-2037 intake log: 18:42:09】

【Seal S-11A4 applied: 18:42:11】

【Storage slot: B-07】

【Access: none】


入った。封印された。

ここまでは綺麗だ。綺麗すぎるほど綺麗。


次に、“軽い箱”が運び込まれた。布をかけた木箱。角に擦れた跡。薄い粉みたいなもの。見るだけで指が痺れそうな、嫌な感じ。


【Receipt ID: EV-2038】

【Seal ID: S-11A5】

【Handler role: vault-keeper】

【Witness: MASK / ED】

【Note: residue suspected】


アヤメの喉が鳴った。

診療所ノードの冷たい匂いと、どこか似ている。


「ここで終わりじゃない」


エドが低く言う。


「次が本番。閲覧履歴だ。——“誰が触ったか”を見に行く」


台の奥に細い机があった。机の上に黒い板。薄い光が走り、文字が浮かぶ。

カメンがその前に立つ。


「閲覧は制限される。観測対象はREADのみ。許可範囲内のログだけを見せる」

「許可範囲内でいい。ズレを見る」


アヤメが言うと、カメンの光がわずかに揺れた。

エドが補足する。


「ズレは規定違反の入口だ。内容を争うな。時刻と手順を争う」


“争う”は馴染まない。けれど守るには、争う形を取らなければならない。


板の上に一覧が出た。受領番号、封印番号、担当ロール、閲覧履歴。

アヤメの視界の端で別の枠が重なる。原因の匂いの枠。


【Audit log stream: enabled】

【Filter: evidence vault】

【Note: anomalies highlighted】


エドが紙に線を引きながら言う。


「事件が起きた時刻と、ここに入った時刻を合わせる。辻褄が合わない箇所があれば、それが穴だ」


アヤメは胸の奥で記憶の“形”を並べた。

路地で光が跳ねた瞬間。制限で止まった瞬間。掲示の紙がはためいた瞬間。自分の視界で“関連”が出た瞬間。


そして、ログの時刻を追う。


【Unstable activation detected: 18:31:22】

【Restriction field deployed: 18:31:24】

【Item recovered: 18:34:10】

【EV-2037 intake log: 18:42:09】


九分。

空白自体は不自然じゃない。運搬がある。混乱がある。

問題は空白の中身だ。誰が触ったか。


アヤメはさらに目を走らせた。

封印番号の発行時刻。受領番号の予約。閲覧履歴。


そこで、目が止まった。

指は止められない。触れない。だから、目で止まる。


【Seal S-11A4 reserved: 18:40:52】

【Receipt EV-2037 issued: 18:42:09】


予約。

封印番号が受領より先に“予約”されている。混雑時ならあり得る。札を先に切る。

だが、次の行が妙だった。


【Seal S-11A4 applied: 18:41:03】


……え?

アヤメは息を止めた。


封印が、受領より先に“適用”されている。

あり得ない。受領してないのに封印できるはずがない。封印は物に貼る。物がここにないなら貼れない。


「エド」


声が薄くなった。薄い声は怖い。けれど、ここなら届く。距離が短いからだ。


「見て。封印の適用が、受領より早い」

「……どれだ」


エドが覗き込み、眉を寄せた。エドの眉が寄るのは珍しい。寄るということは、本当におかしい。


カメンが淡々と問う。


「矛盾を指摘するのか」

「矛盾だ。封印が先に貼られてる。……紙の手順ではあり得ない」

「推定は不要。ログの整合は内部処理で説明できる」

「内部処理でも、時刻は時刻だ」


エドが冷たく返した。

アヤメは喉の奥で唾を飲み込む。乾きが痛い。


「内部処理って、何」

「インデックス更新。遅延反映。——だが、適用は適用だ」


エドが紙に線を引く。

線が引かれると矛盾が“形”になる。形になると争える。


アヤメの視界の端で、赤に寄りかけた表示が出た。


【Anomaly: custody time inversion】

【Risk: integrity compromised】

【Possible cause: privileged handler access】


特権。

特権ロールが触った可能性。危ない匂い。危ないほど核心。


「特権ロールって誰」


アヤメが言うと、エドはすぐに答えない。答えないのが答えだ。

カメンが代わりに言う。


「保管担当。監査立会。上位監査。——それ以上は開示できない」

「開示しなくていい。数が少ないなら、穴の位置が絞れる」


アヤメは、自分の声が思ったより硬いことに気づいた。硬い声は怒りの形だ。

怒りは燃料だ。燃料は手順に落とさないと爆発する。


エドが紙を揃えながら静かに言う。


「“誰が”を言うな。“どのロールが”を言う。ロールなら争える。名前を出した瞬間、こっちが潰される」

「……分かった」


分かった、と言いながら胸が冷えた。

敵が近い可能性を否定できない。近い敵は一番怖い。

怖いからこそ、形で殴るしかない。


アヤメはさらにログを追った。

EV-2037だけじゃない。他も同じズレがあるか。

ズレがあるなら手順の癖。癖は意図の匂い。


【EV-2036: normal】

【EV-2037: time inversion detected】

【EV-2038: pending seal】

【EV-2039: normal】


一点だけ。

一点だけズレるのは偶然じゃない。狙った一点。

一点がアヤメに絡む証拠。

つまり、“アヤメに絡む形”を作った可能性。


「……私のだけ、ズレてる」


言った瞬間、背中が冷たくなった。

冷たさは視線の気配でもある。ここには自分たちとカメンしかいない。棚の影に誰かがいる気配はない。

なのに、冷たい。


その冷たさに合わせるように、板の光が一瞬だけ揺れた。


【System note: reindex running】

【Access may be delayed】

【—】


揺れ。

診療所ノードの揺れに似ている。

違うのは、ここが“箱”だということ。箱は揺れない。揺らすのは誰かだ。


扉の外で、レイが低く言った。


「足音」


規則的な足音が近づく。港の歩き方じゃない。監査の歩き方。迷いのない歩き方。


カメンが扉の方へ向き、淡々と告げた。


「入室者あり。照会する」


扉が少し開く。冷たい空気がさらに入る。

そこに立っていたのは――カメンだった。


……いや。

カメン“の形”だった。


青い光。均一な光。影のない顔。

けれど、今ここにいるカメンと、扉の向こうのカメンが、同時に存在している。


アヤメの喉が、音を立てずに鳴った。

頭が追いつかない。追いつかないのに、視界だけは追いつく。


【Unit: MASK】

【ID: M-02】

【Role: audit-support】

【Access: vault (limited)】


そして、今ここにいるカメンは。


【Unit: MASK】

【ID: M-01】

【Role: audit-field】

【Access: vault (limited)】


同型。

同じ顔。違うID。

同じ光。違う役割。


エドが息を吸う音がした。その吸う音が、紙の匂いを揺らす。


「……同型、か」


誰に向けてもない、確かめるための声。


扉の向こうのカメン――M-02が淡々と告げる。


「閲覧要求。対象:EV-2037」

「理由を提示せよ」


M-01が返す。

同じ声。違う間。

違う間が怖い。間は意図の匂いだからだ。


「整合確認。封印時刻の逆転を検知。再封印の必要性あり」


背中が冷える。

逆転を検知? 誰が?

ここでアヤメが見つけた矛盾を、向こうも把握している。把握しているなら――ログを先に見ている。先に触れている。


エドが一歩前に出た。紙を持った手が揺れない。揺れないのは、怒りを手順に落としている証拠だ。


「再封印は手順にない。封印のやり直しは“証拠の破壊”に等しい。立会いが要る。——ここに立会いがある」

「立会いは十分。M-01がいる」

「観測対象のログ照合も進行中だ。中断は許可しない」


M-01が淡々と答える。


「進行中の照合は優先される。閲覧は待て」

「待機は不可。矛盾がある証拠は危険。隔離が必要」


隔離。

その単語が胸を刺す。隔離は消える。隔離は“読めない場所”へ行く。

読めない場所へ行けば、形が消える。形が消えれば、噂が勝つ。


アヤメは思わず声を出した。


「隔離しないで」


自分でも驚くほど、声が硬かった。

一メートルの世界の中で、声だけが伸びる。箱の中で反響して、余計に冷たく聞こえる。


M-02がこちらを向いた。

影のない顔が、影のないまま言う。


「観測対象の発言は記録される。理由を述べよ」

「理由は……」


アヤメは息を吸い、言葉を組み替えた。

感情で言えば負ける。手順で言う。


「隔離は閲覧不能を生む。閲覧不能は整合の証明を遅らせる。遅れは現場の噂を増やす。噂が増えれば混乱が増える。混乱は監査の負担になる」

「推論だ」

「現場は推論で燃える。燃える前に形が必要」


自分の言葉が自分の喉を驚かせる。

でも、言えた。言えたなら、まだ戦える。


エドがその言葉を拾い、紙の言葉へ変換する。


「隔離の前に、現行封印の整合確認を行うべきだ。手順として。——ログの逆転は“封印の適用記録”と“受領記録”の差異だ。差異の原因が内部処理なら、その証明をログで提示せよ」


M-02が一拍置いた。

その一拍が、嫌な匂いを運ぶ。計算の匂い。


その時、板の光がもう一度揺れた。

揺れは短く、しかし鋭い。


【Admin-tier trace: faint】

【Source: unknown】

【Note: privileges detected】


管理者級の痕跡。

ここに、センセイの匂いが混ざった気がした。

笑わない声が、耳の奥を掠める。


「……きれいに整理されてますね」


誰も口を動かしていないのに、そう聞こえた気がした。

アヤメは拳を握った。爪が掌に食い込む。痛みがある。痛みがあるなら、まだ折れていない。


M-01が淡々と告げる。


「M-02、待機。整合確認を先行する」

「了解。——ただし、危険が増えた場合、即時隔離する」


M-02は扉の外へ下がった。

扉が閉まり、箱の中の静けさが戻る。戻る静けさは落ち着きではなく、薄い恐怖だった。


エドがアヤメへ視線を寄せる。声は出さない。目で言う。“見たか”。


アヤメは小さく頷いた。見た。

同型。封印の逆転。管理者級の痕跡。

そして――自分の証拠だけが狙い撃ちされている形。


「穴は……黒市だけじゃない」


呟くと、エドは紙を揃えながら答えた。


「だから“扱い”で殴る。誰の手かは言わない。どの手順が破れているかを言う」

「……手順で殴る」

「そう。君の得意分野だ」


得意分野。得意だから狙われる。

狙われても、やるしかない。


アヤメは板のログをもう一度見た。

封印の適用時刻が逆転している。

その逆転が“内部処理”で説明されるなら、説明がログに残るはずだ。残らないなら、それは誰かの指だ。


視界の端に、新しい行が増えた。


【EV-2037: access attempt queued】

【Requester: M-02】

【Status: pending】

【If approved -> isolation recommended】


キュー。待ち行列。

待ち行列は診療所の行列と同じだ。詰まれば揉める。揉めれば燃える。燃える前に、手順で流す。


アヤメは手帳を開き、震えない字で書いた。


“封印逆転:時刻矛盾”

“対象:EV-2037のみ”

“特権ロール:限定”

“同型:M-01/M-02”

“管理者級痕跡:微弱”


書き終えて息を吐く。

紙は盾だ。穴のある盾だ。穴は塞ぐ。手順で。ログで。形で。


扉の外で、レイが小さく言った。


「……誰か、もう一人いる。近い」


近い。

また近い。近いほど危ない。近いほど擦り付けられる。

けれどここは箱の中。擦り付けられない代わりに、消される危険がある。


アヤメは視界の端の揺れを睨んだ。睨んでも意味はない。意味はないが、睨まないと折れそうだった。


そして最後に、板の上へ、見たことのない小さな表示が一瞬だけ浮かんだ。


【Patch note: hidden】

【Applied by: —】

【Time: 18:40:59】


隠された更新。

時刻は、封印逆転のすぐそば。

名前がない。ロールもない。


アヤメは喉の奥で、いつもの言葉を噛みしめた。


「……ログ取ろ」


箱の中の静けさが、少しだけ形を変えた。

それは落ち着きじゃない。

次の一手が、もう動いている音だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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