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第20話:潮が引く頃

潮が引く頃の港は、匂いが変わる。

昼の油と魚の濃さが薄まり、代わりに湿った木と塩の冷たさが前に出る。影が長く伸び、石畳の隙間に溜まった水が夕陽を細く切って光る。人の声も少しだけ低くなる。疲れが混ざるからだ。疲れは怒りを鈍らせる。鈍ると――甘い言葉が通る。


ミナト・アヤメは港門の少し外れで立ち止まった。足元の見えない円が、今日の世界の輪郭を決めている。


【Zone restriction: 3m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


三メートル。

腕を伸ばせば届く距離の中で、遠くの混乱を止める。

無茶だと笑う人間もいるだろう。けれどここでは“無茶”が毎日の手順だ。無茶を繰り返して、現場は今日まで回ってきた。


「夕方の窓が来る」


円の内側に入ってきたエドが、紙束を抱えたまま言った。声はいつもと同じ温度なのに、言葉だけが少し速い。速いのは焦りの証拠だ。


「窓?」

「潮が引く。列が動く。検査が詰まる。——その瞬間に、黒い連中が動く」


黒い連中。黒市。売り子。使い走り。

そして、笑わない声の主。


アヤメは喉の奥の乾きを確かめた。乾きは恐怖だ。恐怖は嫌いじゃない。恐怖は注意になる。注意は手順になる。


「捕まえる?」

「捕まえない。捕まえると騒ぎになる。騒ぎは燃料だ」


エドは紙束の角を揃え、続ける。


「今日は“証拠を作る”。売り手が手順を崩した瞬間の形を残す。形が残れば、規定が動く」

「規定が動けば、黒市の手が止まる?」

「止まるとは言わない。鈍る。鈍れば、現場が息をする」


息をする。

診療所セクタで使った言い方が、頭を掠めた。息は回復の時間。港にも息が要る。息がない港は、誰かが倒れる。


アヤメは視界の端の点滅を、わざと見ないことにした。管理者級の点滅は今は開かない。開封の儀式は別の場所。今は現場だ。現場は焦りを嫌う。


円の外側で、レイが立ち直る。夕陽の角度に合わせて影が長く伸びた。影が伸びると目が多くなる。目が多いと噂が走る。噂は黒市の速度だ。


「ガンゾを呼ぶ」


エドが言うと、レイが軽く顎を引いた。

レイは歩き出し、円から離れたまま人の流れを割っていく。割るというより、避けさせる。刃を抜かなくても刃の気配で道ができる。


しばらくして、怒鳴り声が近づいた。

荷役頭のガンゾが部下を引き連れて現れる。顔はいつもより赤い。怒りの赤じゃない。仕事に追われる赤だ。


「エド! また紙か! 港は紙で回ってねぇ!」

「回ってないから詰まってる。紙で“損”を回す」


エドは淡々と返し、アヤメへ視線を寄せた。


「君の言葉がいる」


アヤメは頷いた。

自分の言葉は武器だ。武器なら使う。使えば狙われる。狙われるなら、狙われる前提で手順を組む。


「ガンゾ。掲示を増やしたい。入口、検査待ちの列、路地の手前。三か所」

「また“損する”か?」

「そう。“損する”を刺す。怖いより効く」

「港の連中は損に弱い。……分かった。貼れ!」


ガンゾが腕を振り、部下へ怒鳴る。


「おい! 紙を持て! 縄と札もだ! 路地の手前に立て! 声も出せ!」


部下たちが走る。縄が広がり、木札が立ち、空気が“分けられて”いく。

分けられた空気は落ち着く。どこに立てばいいか分かるからだ。


アヤメは手帳を開き、短い文を作った。短く、刺さる。現場の喉に引っかかるように。


――未登録トークンは当たり外れ。

――外れは「痺れ」「光が跳ねる」「検査で止まる」。

――止まると日が暮れる。日が暮れると損する。

――買わない方が早い。


鉛筆が紙を走る音が、自分の呼吸と重なる。

書き終えたらエドへ渡す。エドは清書し、掲示用に整える。整った文字は怒りの中でも読まれる。読まれれば、動きが変わる。


「読み上げも作る」


アヤメは追加で、口に出しやすい文も作った。説明係が噛まないように。噛むと笑いが起きる。笑いは油だが、今は炎になる。


「未登録は当たり外れ! 外れは痺れて検査で止まる! 止まると逆に損! 買わない方が早い!」


エドが頷く。


「いい。“損”を最後に置くと締まる。港は最後の言葉で動く」


掲示が貼られ、説明係が声を張り始めると、列の空気がじわりと変わった。

怒りの矛先が港門から路地へ移る。路地の影へ移る。影は嫌う。影は光を嫌う。光が当たると手順が崩れる。


【Bypass attempts: decreasing】

【Counterfeit usage: warning accepted (partial)】

【Crowd mood: anger -> suspicion】


視界の端の表示は嘘をつかない。

嘘をつくのは人間の言葉だ。

だからアヤメは、表示を信じすぎないようにした。表示は形だが、港は形だけで動かない。心が動く。心は噂で動く。噂は黒市の武器だ。


夕陽が港門の上に傾いた頃、路地の入口がざわついた。

囁き声が走る。


「買えなくなった」

「紙のせいだ」

「誰が貼らせた」

「監査の女だ」


監査の女。自分。

胸の奥で冷たいものが沈む。噂は速い。噂は証拠より速い。追いつくには、噂より先に“形”を出すしかない。


レイが円の外側で路地の入口を睨んだ。睨むだけで数人が目を逸らす。逸らすのは後ろめたさの形だ。


「来た」


レイの声は短い。短いほど当たる。


路地の影から、軽い箱を担いだ男が出てきた。昼にも見たような軽い歩き方。肩の角度が“ぶつかる準備”をしている。

男は列の外側を滑り、誰かへ寄る。寄って、肩を擦る。


アヤメの視界が赤に寄った。


【Suspected runner: approach pattern detected】

【Risk: residue transfer】

【Note: rubbing angle】


声が喉で止まった。

止めると逃げる。逃げると証拠が消える。

消す前に、形を残す。


エドが小さく言った。


「追わない。今日は追わない。追わせない」

「追わせない?」

「追うのは俺たちじゃない。彼ら自身に手順を崩させる」


焦った手は勝手に乱れる。乱れた手は証拠を落とす。


ガンゾが部下へ怒鳴る。


「路地の前、縄を張れ! 人を減らせ! 通るなら正規列へ戻せ!」


縄が張られ、路地の入口が狭くなる。

狭くなると売り手は“いつもの滑り込み”ができなくなる。滑り込めないなら、別の手順へ切り替えるしかない。


その瞬間、港門の検査側が詰まった。

検査台の前で荷が止まる。止まると後ろの列が波打つ。波打つと肩がぶつかり合う。

ぶつかり合えば、擦り付けが増える。増えれば事故が起きる。


「……来る」


アヤメが呟くと、視界の端が点滅した。


【Window: evening / tide low】

【Crowd density: rising】

【Risk: panic / counterfeit activation】


窓が開く。潮が引く。影が伸びる。

このタイミングで、売り手は“派手な手”を使う。派手な手は短期的には効く。効くから危険だ。


路地の奥で、小さな光が見えた。

チカ、と跳ねる光。

嫌な跳ね方。


「下がって!」


アヤメが声を張った瞬間、カメンが動いた。

青い光が路地の入口へ滑り込む。空気が硬くなる。見えない板が降りる。


【Restriction field: deployed】

【Target: unstable token activation】

【Action: freeze / damp】


光が止まった。

止まった瞬間の静けさは、逆に怖い。静けさの直後に必ず声が爆発するからだ。


「何だ今の!」

「また偽装か!」

「だから言ったろ!」


怒りが膨れ、波になる。

波を港門へ向かわせない。路地へ向かわせる。路地へ向けば黒市が困る。困れば乱れる。乱れれば証拠が落ちる。


アヤメは短い言葉を投げる。刺す場所は“損”。


「今のは外れ! 検査で止まって損します! 買わない方が早い!」


説明係も続く。


「外れは痺れて止まる! 止まると日が暮れる! 日が暮れると損!」


“損”が飛び交うと、港の怒りは少しだけ理性を残す。

理性が残れば殴り合いにならない。殴り合いにならなければ事故が減る。


カメンの光が路地の奥へ向き、淡々と告げた。


「対象を確保する」


確保。

その言葉は甘い。甘いほど危ない。勝利に見えると、人は油断する。油断した瞬間に罠が刺さる。


路地の奥から、若い男が引きずり出された。軽い箱を担いでいた男だ。顔は青い。目が泳ぐ。

逃げたいのに逃げられない。逃げられないとき、人は口を開く。


「ち、違う! 俺じゃない! 俺は運んだだけだ!」

「誰から」

「知らない! ……黒い手袋の——」


黒い手袋。

その単語が出た瞬間、周囲の空気が一段冷えた。噂の耳は良い。


【Hearing: crowd reaction spike】

【Risk: scapegoat selection】


生贄が選ばれる。

港は怖い時に生贄を欲しがる。生贄がいれば安心した気になれるからだ。


アヤメは息を吸い、声を整えた。生贄を“ここ”で増やさないための手順を、今つくる。


「違うなら、証拠を出せる? 出せないなら、今は黙って監査に従って! 暴れるともっと損する!」


損で縛る。

縛りは嫌われるが、今は必要だ。縛らないと港は燃える。


男は唇を噛み、黙った。

黙った瞬間、別の囁きが走る。


「……あの監査の女、やっぱり元だろ」


背中が冷える。噂は方向を変える。

路地が詰まると、噂は別の穴を探す。穴が“人”なら簡単だ。人は刺せる。


視界の端で、嫌な行が増えた。


【Signature fragment: detected (maintainer-like partial)】

【Source: vicinity】

【Correlation: MINATO-AYAME anomaly pattern】

【Status: under audit】


心臓が一度だけ跳ねた。関連。パターン。

“ミナト・アヤメ”の異常パターンと一致。

一致させられた。罠だ。


「……エド」


声が薄くなった。薄くなると危ない。声が薄いと噂が太る。


エドはすぐ理解した顔で低く言った。


「やられたな。現場に“君の匂い”を置いた」

「どうやって」

「君の紙だ。掲示だ。読み上げだ。——“君の言葉”が広がれば、残滓も混ぜやすい」


紙にも擦り付けはできる。紙は吸う。紙は残す。

残すから証拠にもなる。

残すから罠にもなる。


カメンがこちらを向いた。青い光が少し白に寄る。評価が走る色。

現場で向けられる評価は刃だ。


「観測対象に関連する署名断片を検知。説明せよ」

「私がやったわけじゃない。私は——」


言葉が詰まる。

“私はEXECもWRITEもできない”は、ここでは弱い。弱い言葉は噂に負ける。


エドが前へ出た。橋をかける声。


「観測ロールは実行不可。付着の可能性が高い。——今の事件で、紙や掲示への擦り付けが想定される。現場の接触ログを取れ。接触者と導線を照合すれば、付着の経路が出る」

「推定は不要。証拠を提示せよ」

「提示するためにログが要る。ログを取る許可を」


整った声は規定に通る。

しかし規定が通るまでに噂が燃える。噂の火は速い。


ガンゾがこちらを見た。眉が寄っている。疑いの眉じゃない。困りの眉だ。

港の頭は正義より混乱を嫌う。混乱が長引けば港が死ぬからだ。


「おい、監査! 女は関係ねぇだろ! あいつは紙を書いただけだ!」

「紙は媒体になり得る」

「媒体ってなんだよ! 港の言葉で言え!」


ガンゾの怒鳴りは、混乱を抑えるための怒鳴りだ。

港を回す怒鳴り声。


アヤメはその怒鳴り声に救われる形で息を吸った。


「ガンゾ、媒体っていうのは——“擦り付ける布”みたいなもの。触れたら移る。紙も移る。だから、紙を触った人の流れを追えば、誰が混ぜたかが出る」


「……誰が混ぜたか、分かるのか」

「分かる形にする。ログを取る」


“ログ”が少しずつ港の口に馴染んでいく。

馴染めば協力が増える。協力が増えれば証拠が増える。証拠が増えれば噂が鈍る。


カメンが短く言った。


「許可する。だが、暫定措置を強化する」


強化。

胸が冷える。


視界の端で、円がさらに縮む予告が走った。


【Restriction update: pending】

【Reason: correlation detected】

【Action: tighten zone】


嫌だ。

嫌だが止められない。止めたいなら、証拠で折るしかない。


路地の奥で、拘束された男が叫んだ。


「俺じゃない! 俺はただ、紙を渡されて——」

「誰に」

「知らねえ! ……黒い手袋の、先生みたいな——」


先生。

その言葉で、耳の奥が冷たくなった。曖昧なのに匂いがする。確かさの匂い。


その時、風が吹いた。潮の匂いが一瞬だけ薄れ、紙の匂いが強くなる。掲示の紙がはためき、角が擦れる音がする。

その音に混じって、笑わない声が聞こえた気がした。


「……よくできました」


誰もいない。

でも、いる。

そう思わせるだけで相手は勝つ。


視界の端が淡く点滅した。


【Signature: attached (partial)】

【Type: maintainer-like】

【Status: flagged】

【Audit: escalate】


また貼られた。

また“匂い”を付けられた。

言葉で獲ったはずの流れが、喉元へ返ってくる。


エドがアヤメの手帳へ低く言った。


「焦るな。焦った瞬間に向こうの手順が通る」

「……分かってる」

「分かってるなら書け。今ここで起きた形を全部残せ。紙は罠にもなるが、盾にもなる」


盾。穴のある盾。

穴を塞ぐには、ログを積むしかない。


アヤメは鉛筆を握り直し、震える手で書いた。


“夕方窓:潮引きで列が波打つ”

“路地:不安定起動→カメン制限で停止”

“売り子:軽い箱、擦り付け”

“掲示:紙が媒体になり得る”

“署名断片:アヤメ関連として検知(罠)”


書いている間にも港は動く。列が少しずつ回復し、怒りが路地へ向き、黒市の影が薄くなる。

勝った部分は確かにある。黒市は今日、派手に動けなかった。

だが勝った手触りの裏で、別の負けが刺さっている。


カメンが最後に告げた。


「観測対象の制限を更新する。現場から離れろ」


離れろ。

現場から離れたら言葉が届かない。言葉が届かなければ現場は燃える。燃えれば黒市が笑う。


アヤメは唇を噛み、ガンゾの方へ視線を投げた。

ガンゾが眉を寄せたまま、短く言う。


「紙は俺が守る。説明係も守る。……お前は、死ぬな」


港の言葉だ。

優しい言葉じゃない。命令に近い。

でも命令の形をした優しさが、今はありがたい。


アヤメは頷いた。

頷いた瞬間、視界の円が縮む。


【Zone restriction: 3m -> 1m】

【Duration: until audit clears】

【Leave zone -> immediate restriction】


一メートル。

自分の影の中だけが世界になる。


夕陽が沈みかけ、港の影がさらに長くなる。

その影のどこかで、笑わない声が確かに言った気がした。


「……次は、もっと簡単に壊れますよ」


アヤメは返事をしなかった。返事をしたら負ける気がしたからだ。

代わりに、手帳の端を強く押さえ、喉の奥で呟いた。


「……ログ取ろ。次は、証拠で折る」

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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