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第19話:診療所ノードの匂い

診療所セクタは、港の匂いが薄かった。

潮の代わりに、薬草を煮出した甘苦い匂い。油の代わりに、汗と消毒の刺激。石畳は同じ硬さのはずなのに、足裏へ返ってくる音が柔らかく聞こえるのは、ここでは誰もが声を抑えているからだ。


……抑えているのに、崩れそうだった。


入口前の広場に、人が溜まっている。立っている人より、座り込んでいる人が多い。膝を抱える、壁にもたれる、誰かの肩を借りる。呻き声が薄布の天幕の内側から漏れ、子どもの泣き声がそれに重なる。怒鳴り声が無い代わりに、焦りが泡みたいにぷつぷつ弾けていた。


ミナト・アヤメは、その泡が破裂する前の空気を嗅ぎ取って立ち止まった。

足元の円が、ここでも勝手に境界を引く。


【Zone restriction: 3m】

【Observer role: active】

【Permission: READ (restricted)】

【EXEC: denied】

【WRITE: denied】

【Log streaming: enabled】


三メートル。

守られているようで、縛られている。

けれどこの縛りがあるからこそ、「近づけるもの」と「近づけないもの」を切り分けられる。切り分けは、現場を守る最初の手順だ。


円の外側でレイが立つ。目線が広場全体を滑り、肩の角度ひとつで人の流れを変えている。

円の内側にエドが入ってきた。紙束を抱えたまま、もう状況を数えている顔だ。


「詰まってる」


エドが言うより先に、アヤメの視界の端で表示が走った。


【Medical sector: congestion high】

【Heal cooldown: active】

【Throughput: low】

【Risk: panic / conflict】


回復クールタイム。

ここでは怒鳴り声より先に、手順が詰まる。詰まると痛みが増える。痛みが増えると我慢が尽きる。尽きた我慢は、声になる。


入口の天幕から治療師が顔を出した。額に汗。目の下が深い。声だけが必死に明るい。


「次、重症の方! 順番に! 順番にお願い——」


「順番じゃねぇんだよ!」


男の叫びが割り込んだ。抱えられている若者が、ぐったりしている。腕から血が滲み、包帯が赤い。叫んだ男の手は震えていた。


「回復魔法を! すぐに!」

「クールタイムです! 今、使えません!」

「ふざけるな! 治す魔法だろ!」

「……仕様が……!」


治療師が言いかけて、口を噤んだ。

“仕様”という言葉は、ここでは刃だ。傷口へ塩を塗る言葉だ。


アヤメは一歩踏み出しそうになり、足元の円を見て止まった。

距離が足りない。手が届かない。声は届く。


「エド、提案する」


言うと、エドは頷いた。許可の代わりの頷き。


「順番じゃない。工程を分ける。……回復を“魔法ひとつ”にしない」


アヤメは声を張る。怒鳴らない。刺す声ではなく、通る声。


「治療師さん! 今、回復が打てないなら、止血と固定を先に回して! 回復は“クールタイムが明けた瞬間に打てる列”を別に作る! 順番じゃなく工程で分けて!」


治療師の目が見開かれる。隣の助手がためらいながら言った。


「でも……列を分けたら、怒られます」

「怒られない言い方にする。『優先』じゃなくて『工程』。今できることを先にやるだけ」


言葉は現場の油だ。歯車の間に差し込めば、回る。


エドがすぐ治療師へ紙を差し出した。真っ白じゃない。簡単な工程表がもう書かれている。

いつの間に――と一瞬思って、すぐ理解する。エドはこういう時のために、空白を持っている。


「工程分割。

 A:止血・固定(即時)

 B:痛み止め・薬(在庫確認)

 C:回復魔法(クール明け待ち)

 D:経過観察(別天幕)

これで回す。説明係をつける。説明係の言葉は——」


エドがアヤメを見る。

アヤメは頷き、現場の言葉へ落とす。


「『今できる手当てを先にやる。回復は魔法が戻った人から、まとまってやる。待つのは“痛み”じゃなく“魔法の時間”』って言って」


治療師が唇を噛み、次に強く頷いた。


「……やります! やるしかない!」


その瞬間、入口の天幕の布が大きく揺れた。治療師と助手たちが走り、木札を持ってくる。手当ての場所を示す札。列を分ける縄。待機場所へ誘導する矢印。


人は、形が見えると落ち着く。

見えない不安が、見える待ちに変わるからだ。


レイが動く。円の外側で、叫んだ男の前に立ち、視線を一度だけ合わせた。刃を抜かないのに、刃を見せたみたいに男の肩が落ちる。


「……今できることをやる。止血が先だ」


レイの声は短い。短いから届く。

男は唇を噛み、若者を抱え直して止血の列へ向かった。


アヤメの視界の端で表示が変わる。


【Throughput: low -> improving】

【Crowd density: high -> medium】

【Risk: conflict -> reduced】


改善。少しだけ。

けれど、少しで十分だ。少しがあれば次を打てる。


アヤメは息を整えながら、周囲の“匂い”を探った。

薬草の匂いに混じって、別の匂いがある。冷たい匂い。紙でも金属でもない。説明できないが、肌が覚えている。


残滓レジデュー


視界の端に薄い矢印が点いた。いや、矢印というより視線の誘導。嫌な親切。


【Residue accumulation: detected】

【Node proximity: moderate】

【Reference: medical-node baseline】


基準。

ここに“基準”がある。

基準があれば照合できる。照合できれば、付着の証拠が作れる。


だが問題は——近づけないことだ。

三メートルの円は広場の端に置かれたままだ。ノードがどこか分からない以上、円ごと移動するしかない。移動はできる。だが移動のたび、人波が触れる危険がある。


「レイ」


小さく呼ぶと、レイは頷いた。

人の流れを切り、円の進路を作る。肩をぶつけない角度。擦り付けられない距離。守る距離。


「エド、ノードの位置、当たりある?」

「診療所の奥。水路が通る場所。煮出し釜、洗い場、排水——溜まるのはそこだ」


エドが指した方向へ視線を送る。天幕の奥、さらに奥。白い布の向こうで桶を運ぶ人の影が行き来している。水音。桶が木床を叩く音。排水の匂い。


アヤメは円の内側で一歩ずつ進んだ。

進むほど匂いが濃くなる。薬草の甘さの下に、鉄の冷たさ。

表示が段階的に変わっていく。


【Node proximity: moderate -> high】

【Residue baseline: detectable】

【Warning: unauthorized access may trigger restriction】


制限がさらに増える予感。

だが止まれば現場が止まる。現場が止まれば黒市が動く。黒市が動けば残滓は増える。


天幕の奥に入ると、空気が急に湿った。

煮出し釜の蒸気。濡れた布。汗。人の体温がぶつかり合っている。


助手が桶を運びながら、アヤメを見る。目つきに余裕がない。


「すみません、ここは関係者だけ——」

「関係者です」


エドが即答し、紙を見せる。監査立会いの札がついた書式。字の角が揃っている。紙が“権限”になる瞬間だ。


助手は口を噤み、道を空けた。空けると同時に背中が小さく震えた。怖いのはアヤメじゃない。紙の向こうの規定だ。


洗い場の奥、排水の溝が集まる場所に、小さな石造りの囲いがあった。

囲いというより蓋だ。丸い蓋。湿った苔。触れたくない冷たさ。


そこに立っただけで、アヤメの視界が勝手に震える。


【Medical node: baseline point】

【Residue density: high】

【Signature fragments: multiple】

【Note: maintainer-like partials present】


ここだ。

残滓が溜まるノード。維持者っぽい断片が複数。

これが基準。これが“源”の匂い。


アヤメは喉を鳴らし、手帳を開いた。

書く。書いて、形にする。形にして、争えるようにする。


だが、次の行で手が止まった。


【Access: baseline read allowed】

【Isolated logs: access denied】

【Reason: insufficient role】


隔離ログ。

気配がある。確かにある。

けれど読めない。読めないものは、現場では存在しないのと同じだ。


「……読めない」


声が漏れた。蒸気の中で薄く消える。消えるのに、背中が冷たくなる。


エドがすぐ言う。


「基準だけでいい。今日は照合の“入口”を作る」

「でも、隔離ログの気配が——」

「気配は証拠にならない。証拠にする手順を組む」


分かっている。

でもここまで来て“読めない”は痛い。読めることが自分の武器だったのに、その武器がここでは刃こぼれしている。


レイが天幕の入口側へ視線を向けた。


「来る」


濡れた床を急ぐ足音。助手が走ってきて息を切らしながら叫ぶ。


「回復魔法、まだですか! もう限界です! 外で倒れた人が——」


治療師が歯を食いしばり、手を振った。


「クールタイムだ! まだだ! 分かってるだろ!」


戻らない時間が、人を壊す。


アヤメは桶の水音を聞きながら、頭の中で言葉を組み替えた。

“クールタイム”は現場の言葉じゃない。現場の言葉は——。


「治療師さん」


蒸気を切って届く声で言う。


「『魔法の息切れ』って言って。『今は息を整えてる時間。息が戻ったらまとめて治す』って。息が戻るまでにやれる手当てを先に回す。工程で分ける」


治療師がこちらを見た。

一瞬だけ、目が赤い。眠っていない目。怒鳴りたい目。泣きたい目。

その目が、ゆっくり頷く。


「……分かった。言い方を変える。説明係! 聞け!」


説明係が走り、外へ向かう。外の空気が少し変わる気配がした。怒りが言葉に引っかかる気配。引っかかれば、爆発しない。


アヤメはノードの蓋を見下ろした。触れたい。開けたい。中を見たい。

でも触れば制限が噛む。制限が噛めば現場から引き剥がされる。引き剥がされれば、もっと燃える。


その瞬間、蒸気の向こうから音にならない声がした。


「……正しい」


耳の奥を撫でるみたいな声。笑わない声。淡々とした声。

センセイの匂いが蒸気に混ざった気がする。


アヤメは背筋を凍らせながらも、顔を上げない。視線がぶれれば手順が崩れる。


声は続く。誰かが隣で囁いたのではない。空気の中に混じる。


「工程分割。導線整理。説明係。……正しい。だから邪魔だ」


邪魔。

喉に刺さる。邪魔なら排除される。排除は制限強化の形で来る。


レイが一歩、入口側へ出る。刃を抜かないまま、刃を構える顔。


「誰だ」


返事はない。蒸気が揺れるだけ。桶の水音が続くだけ。

けれど、アヤメの視界の端が一瞬だけ点滅した。


【External presence: suspected】

【Source: unknown】

【Note: admin-tier trace faint】


管理者級の痕跡。

センセイはここに触れている。触れられる場所にいる。

そして、こちらの動きを見ている。


アヤメは拳を握り、手帳へ書いた。


“ノード:基準点”

“残滓密度:高”

“維持者っぽい断片:複数”

“隔離ログ:読取不可”

“外部痕跡:管理者級の薄い反応”


書くたび、怖さが形になる。形になれば次が考えられる。


エドが低く言った。


「今日はここまで。入口を作った。基準点を確認した。あとは——」

「照合の手順」

「そう。監査立会いで残滓の照合をやる。やる前に現場を崩すな。崩れれば“溜まり”が増える」


溜まり。

人の焦りが溜まる場所。溜まりが増えれば残滓も増える。残滓が増えれば偽装も増える。


アヤメは頷いた。

天幕の向こうの広場。待っている痛み。泣き声。

その中に混じる甘い囁き。早く通れる、損しない。

ここが詰まれば詰まるほど、囁きが効く。


「……夕方に動く」


アヤメが呟くと、エドが視線だけで答えた。

夕方。潮が引く頃。窓が開く。黒市が動く。

診療所セクタが詰まれば、ここにも売り子が来る。


レイが短く言う。


「戻る。外が危ない」

「戻る。でも——」


アヤメはノードの蓋をもう一度見た。

蓋の縁に水滴が一つ落ちる。落ちて、消える。

消える水滴みたいに、隔離ログも消えていく気がした。消える前に掴みたい。掴むには権限が要る。権限は契約の匂いがする。契約は別の縛りだ。


「……読めないなら、読める形にする」


自分に言い聞かせ、手帳を閉じた。


天幕を出ると、外の空気が少し冷たかった。

工程分割の札が増え、待つ人の位置が変わっている。泣き声はまだあるが、怒鳴り声は増えていない。少しだけ、持ちこたえている。


説明係が声を張っていた。


「回復は息切れ中! 今できる手当てを先に! 魔法が戻ったらまとめて治します!」


“息切れ”という言葉は意外に効く。

魔法を神様扱いしていた人も、「息切れ」と言われれば納得する。納得は怒りを薄める。


アヤメは三メートルの円の中で足を止め、港の方角を見た。

潮の匂いが遠くにある。そこから黒市の匂いもする。


視界の端に、短い予告みたいな表示が流れた。


【Window: evening / tide low】

【Risk: counterfeit spread】

【Action: prepare procedure】


準備。

準備は勝つための唯一の方法だ。

センセイが先回りするなら、先回りされる前提で、さらに一段上の手順を作る。


アヤメは鉛筆を握り直し、呟いた。


「……ログ取ろ。溜まりを散らす。基準は掴んだ。次は証拠だ」


その呟きに重なるように、またあの声が蒸気の残り香に混ざって耳の奥を撫でた気がした。


「……えらい。けど、遅い」


振り返っても、誰もいない。

ただ、診療所セクタの空気だけが、じわりと冷えていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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