第1話:世界仕様アップデート
市場の石畳は、朝の匂いで満ちていた。潮の湿り気。焼きたてのパンの甘さ。干した薬草の苦味。港町の一日は、いつもここから始まる。
――のはずだった。
空が、文字を吐いた。
青のど真ん中に白い枠が生え、視線を逸らしても消えない。雲にも鳥にも邪魔されず、文章だけが世界に固定されている。
【世界仕様アップデート】
市場のざわめきが、一拍遅れて止まった。
「なんだ……あれ」
「神の……?」
「いや、文字だ。読める……」
ミナト・アヤメは籠を抱えたまま、口の中で乾いた息を転がした。
落ちこぼれの魔術学舎生。昼は市場で働いて家計を回し、夜に学舎へ行く。――今日も、その“いつも通り”で終わるはずだったのに。
次の行が、淡々と流れる。
【魔法体系:MP制 → 権限制】
権限。……なに、それ。
MP制なら知っている。魔力を溜めて詠唱して、消費して、回復する。学舎で最初に叩き込まれる、この世界の当たり前。
その当たり前が、上書きされた。
【互換性:旧式詠唱の一部は非対応】
【回復系:クールタイム導入】
【インフラ:順次移行(停止を伴う場合があります)】
停止――?
誰かがそう呟いた直後、町の音が一段落ちた。
魔法灯が、同時に消える。噴水の水音が途切れ、屋台の火がふっと息を引き取る。遠くの魔導水路の水車が、ゆっくり止まっていくのが見えた。
生活が“回っている”という状態そのものが、切られた。
「火が点かねぇ!」
「水が……水が出ないぞ!」
「冗談だろ!」
押し合いが起き、怒鳴り声が跳ねる。焦った誰かが詠唱した。指先に小さな火を灯す、初歩の火種。
――けれど、火は生まれなかった。
代わりに空中に赤い文字が弾けた。
【Permission denied】
赤。
人が一斉に息を呑む。呪いだ、悪魔だ、と叫ぶ声まで上がる。
でもアヤメは、違うものを感じた。
恐怖より先に、理由が刺さってくる。
鍵が違う。
今のやり方は通らない。
繋がっていない。
「……は?」
こぼれた声は、騒ぎに掻き消された。なのに胸の内側に、説明書の目次だけが置き去りになったみたいな感覚が残る。
赤文字が、怖いのではなく――“原因と入口”に見えてしまう。
そのとき、薬屋の旦那の声が飛んだ。
「アヤメ! 治癒術師が倒れた!」
人垣の向こうで誰かが崩れている。唇が白い。呼吸が浅い。周囲の助手と見習いが、必死に詠唱を重ねていた。
「回復! 回復を――!」
詠唱のたび、赤が増える。
【Cooldown】
【Too many requests】
【Rejected】
――だめ。
喉まで出た言葉が、引っかかった。
自分は落ちこぼれだ。詠唱は遅い。出力は弱い。制御はぶれる。前に出れば、笑われる。
……でも。
赤が示しているのは、恐怖じゃない。
いまこの場で命が落ちる理由だ。
アヤメは、笑ってごまかす癖を喉の奥で噛み砕いた。
「待って!」
声を張ると、空気が一瞬止まった。衛兵が振り返り、術師が顔を上げる。
倒れた治癒術師の胸元で、赤がまた瞬く。
【Cooldown:—】
アヤメは膝をついた。呼吸を数える。短い。浅い。いま落ちたら、戻れない。
赤は淡々と教える。
押すな。
順番。
間隔。
「回復、今は通らない……押し続けると、余計に詰まる!」
「間に合わないぞ!」
「そんな余裕があるか!」
正論が飛ぶ。歯を食いしばる。
「魔法だけじゃない! 布! 水! 首元冷やして! 体は少し横に――吐いたら危ない!」
市場で覚えた応急処置。派手じゃない。けど、現場はそれで持つ。
誰かが布を持ってきて、誰かが水を渡し、衛兵が槍で人垣を押し広げる。詠唱しようとする見習いを下がらせる。
赤の表示が、わずかに薄くなった。
秒針はない。だから自分で作る。
呼吸を数える。
――今。
「……今、ひとり!」
最初の術師が詠唱する。光は小さい。けれど確かに、治癒術師の胸の上下が少しだけ増えた。
「次。……待って、今」
二人目。三人目。
間隔を空けるたび、赤は出ない。赤が出ないことが“成功”の印になった。
治癒術師のまぶたが震え、浅い息が深くなる。
「……助かった……のか」
助手が震える声で言った。市場の空気が、ほんの少し戻る。
アヤメは、肩から力が抜けるのを感じた。
助かった。
――でも、背筋が冷えた。
いまのは偶然じゃない。自分だけが赤の意味を掴んでいた。
努力して積んだ魔法技能とは無関係に。突然、降ってきたみたいに。
空の掲示がまた進む。
【進捗:12%】
まだ、始まったばかり。
「おい、嬢ちゃん」
衛兵が近づいてくる。槍の穂先は下げているが、目は鋭い。疑っている。正しい反応だ。
「名は」
「アヤメです。ミナト・アヤメ」
「……どうして分かった」
重い問い。アヤメは、説明できる言葉を探して――
その瞬間、別の赤が弾けた。近くの魔法灯の支柱。誰かが復旧の詠唱をしたのだろう。
【Bandwidth low】
【Too many requests】
胸の奥で、繋がった。
回復が詰まったのも、灯りが落ちたのも、同じ理由。
魔力が足りないんじゃない。
要求が重なりすぎて、流れるはずのものが流れない。
「……帯域が死んでる」
「たい……いき?」
「回線、って言った方が分かりますか。魔法が流れる道が混んでる。今は、みんなが同じ場所で同じことをやりすぎです」
口に出した自分がいちばん驚いた。学舎じゃ習わない。なのに言葉が出る。赤がそう言っている。
「じゃあどうする」
「分けます。場所も、人も。順番も。担当を決める」
誰かが全体を見る必要がある。
――誰かが。
怖い。前に出たら、また失敗するかもしれない。笑われるかもしれない。
でも、ここで引いたら次は死ぬ。
「……衛兵さん。お願いがあるんです」
「なんだ」
「人を散らすの、手伝ってください。言い方、ちょっときつめに」
衛兵が一瞬だけ目を丸くし、それから頷いた。
「よし! 聞け! 医療の周りには術師以外近づくな! 照明は担当を決めろ! 勝手に詠唱するな!」
怒鳴り声が市場に響く。反発も起きる。だが槍の示す方向に、人が動いた。
動けば、空気が軽くなる。目に見えない“混雑”が、少しずつ解けていく。
薬屋の旦那が水袋と布を抱えてきた。
「布と水、ここ置く! 医療用だ! 勝手に取るなよ!」
「旦那、仕切るのうま……」
「お前のせいで覚えたんだよ!」
その一瞬、忙しさの中に人の温度が戻る。
――だが、空がまた更新された。
【互換性警告:旧式呪文の暴発に注意】
【対象:火種/灯火/加熱】
「……暴発?」
誰かが「火を!」と叫んだ直後、屋台の鉄板が突然赤熱し、じゅうっと煙を上げた。
火が点いたのではない。加熱が“暴走”したのだ。驚いて手を引く人、転ぶ人、押し合い。火傷が出る。
【Unsupported call】
【Fallback executed】
【Temperature spike】
危ない。旧式の詠唱が、変な形で置き換えられている。意図しない挙動が起きる。
「火種は禁止! 加熱系も! 今は触らないで!」
衛兵が槍で人を押し戻し、薬屋の旦那が水をぶちまける。煙が消える。鉄板が冷める。
ぎりぎり。
アヤメは息を吸い、吐き、手帳を開いた。
書く。
書けば整理できる。
形になれば、対処できる。
“回復:クールタイム/連打禁止”
“照明:帯域(混雑)/担当制”
“旧式詠唱:暴発あり(加熱注意)”
紙の上の文字が、現実の輪郭を作っていく。
空の掲示がまた進む。
【進捗:15%】
「まだ……」
誰かの呻きが落ちる。十五パーセント。残り八十五で何が起きる。
考えたくない。
でも考えないと、生き残れない。
アヤメは手帳を閉じ、胸に押し当てた。鼓動が紙越しに伝わる。
そのとき――視界の端が、ほんの小さく点滅した。
周りの誰も反応しない。衛兵も薬屋も、治癒術師も。
見えているのは、自分だけ。
透明な枠が視界の隅に生えた。空の掲示とは違う。もっと個人的で、もっと近い。目の裏側に貼り付いてくる。
【ログ読取者を検出】
【権限:未登録】
【監査:待機中】
指先が冷たくなる。
世界が――自分を見つけた。
助けたことが記録されたのか。
読んだことが見られたのか。
分からない。けれど一つだけ分かる。
この先は“見られる”。
アヤメは唇を噛み、手帳を強く抱きしめた。
「……ログ、取る」
声は震えた。
でも、震えの奥に決意が混じった。
空はまだ青い。市場は匂いを取り戻しつつある。
それでももう、世界は“ただの世界”ではない。
そしてアヤメは、その世界の赤文字を――読めてしまう。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
魔法が「権限」になった瞬間、いちばん困るのは戦いより“生活”だと思うんです。アヤメは派手な魔法じゃなく、赤文字を翻訳して現場を回していきます。
次話では「帯域が死んでる」の正体と、最初の“鍵”の気配が出てきます。
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