第18話:擦り付けの手順
港の朝は、音が先に着く。
荷車の車輪が石畳を叩き、縄が軋み、海鳥が甲高く鳴く。その全部の上に、人の声が重なる。怒鳴り声、呼び声、値切り声。潮と油の匂いが喉の奥まで押し込んでくる。
ミナト・アヤメは、門前の少し外側――人の流れがぶつかって渦を作る場所から、ほんの少しだけ離れた位置に立っていた。
離れた、というより「離れるしかない」。足元の見えない円が、勝手に世界の広さを決めている。
【Zone restriction: 3m】
【Leave zone -> immediate restriction】
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【Log streaming: enabled】
三メートル。
腕を伸ばせば届く距離が、今日の自分のすべてだ。
現場は遠い。遠いのに、近い。怒りも焦りも、匂いも音も、ここまで届くからだ。
「……集める」
アヤメは小さく呟き、手帳を開いた。
集めるのは、証言。前兆。パターン。
“残滓”なんて言葉は港の人間に通じない。通じないから、通じる言葉に落とす。痺れる、冷たい、跳ねる、止まる、損する。
円の内側に入ってきたエドが、紙束を抱えたまま周囲を見回した。視線が滑るように速い。人混みの中で必要な速さだ。
「聞き取りは君が主導する。ただし、近づく相手は限定しろ」
「分かってる。——レイ」
呼ぶと、円の外側に立っていたレイが半歩だけ位置を変えた。人の流れの“角度”を変える立ち方。近づきたい人が無意識に避ける立ち方。
「来る」
レイが短く言った。
列の端で、魚籠を背負った男が手のひらを擦っている。さっきから何度も手を振り、眉をしかめていた。
男は説明係の声に押されるように、こちらへ寄ってくる。寄ってくると言っても、流れに押されて近づいただけだ。
「ねえ、あんた……監査のとこにいる女か」
荒い声なのに、焦りが混ざって柔らかい。焦りは人を素直にする。素直なうちに、必要な骨を抜く。
「そう。手、どうしたの」
「痺れる。さっき、妙な薄片を渡された。早く通れるって」
「今、それ持ってる?」
「捨てた。怖くてよ」
捨てた。
正しい。正しいけれど、証拠が消える。消える前に、形だけ残す。
アヤメは男の手の動きを見た。擦り方、指先の震え、顔色、汗。魚の匂いに混じる鉄っぽい汗。
視界の端で、淡い文字が走る。
【Symptom report: tingling】
【Possible cause: residue contact】
【Risk: panic if escalated】
アヤメは頷き、手帳に書いた。
“痺れ:指先→手のひら”
“発生:薄片受領後すぐ”
“反応:怖くて廃棄”
「冷たかった? 熱くなった?」
「最初、冷たい。……そのあと、急に熱いみたいな。痛いほどじゃないけど、嫌な感じ」
「光は?」
「光? ……跳ねた。チカチカって」
跳ねた。
その言葉が胸の奥を冷やす。跳ねるのは不一致の前兆。港門で何度も見た、あの嫌な跳ね方。
エドが男へ一歩近づこうとして止まった。三メートルの境界を意識した動きだ。
「どこで渡された」
「列の外れ。倉庫へ入る路地の手前。『損しない』って言われた」
「相手の特徴は」
「フード。顔は見えねえ。手袋が黒い……いや、渡したのは別の奴だった。軽い箱を担いでた」
軽い箱。売り子。
フードと黒手袋。センセイ。
アヤメは息を吸い、男に言った。
「今からしばらく、手を洗って。水で。石鹸があれば。痺れが強くなるなら診療所へ。……それと、もう買わない。損するから」
「損する、は分かる。……あんた、変だな。怒鳴らない」
「怒鳴ると、余計に混む」
男は一瞬だけ笑いかけ、すぐ真顔になって流れへ戻った。
港の人間は笑いが下手だ。笑うと、痛いものが出るから。
男が離れると、アヤメは手帳のページを指で押さえた。風でめくれる。風でめくれる紙は、港に似ている。港も風ひとつで空気が変わる。
エドが声を落とす。
「これで一件目だ。次は、症例を増やす。数が必要だ」
「数は、同じ形を見せる。……形が揃えば、規定が動く」
「そうだ。規定は感情では動かない。形で動く」
形。
形なら、読める。読めるから、揃えられる。揃えられるから、証拠になる。
説明係の声が、いつもの言葉を繰り返していた。
「未登録トークンは当たり外れ! 外れは事故! 検査で止まって逆に損します!」
“損する”が混ざると、港は少しだけ静かになる。
人は正義より損失が怖い。損失は誰でも持っている。
そこへ、若い女の声が割り込んだ。荷を抱え、肩で息をしている。
「すみません! さっき、手が冷たくなって……」
女がこちらへ寄ってくる。レイが視線を動かし、女の背後の人波を牽制する。近づきすぎる人が一歩引く。
アヤメは頷いた。
「どんな風に」
「薄い札みたいなの、握らされて。握ったら冷たくて……そのあと、熱いような、胸がざわざわして。怖くて捨てました」
「光は跳ねた?」
「跳ねました。チカチカって」
同じ骨。
同じ順番。
アヤメは同じ形で手帳に書く。
二件、三件。
港門は大きい。症例は探せばいくらでも見つかる。見つかるのが怖い。
手帳の中に“跳ねた”が増えるたび、胸の奥の棘も増える。
痛い。でも痛い棘は、まだ自分を動かす。麻痺するよりいい。
四件目を取り終えた頃、視界の端に薄い線が走った。
【Pattern: consistent】
【Residue signature: maintainer-like (partial)】
【Transfer method: contact likely】
【Warning: escalation if crowd panics】
維持者っぽい。似ている。
似ているから騙される。似ているから怒りが回る。
「エド。揃った」
エドは短く頷き、紙束から一枚抜いて手帳の記録へ目を走らせる。
「揃ったな。……同じ言葉が繰り返されてる。冷たい→熱い、跳ねる、痺れる。渡された場所も近い」
「近い、って——」
言いかけたところで、レイが低く告げた。
「来る。ぶつかるやつ」
若い男が、人波を縫って歩いている。旅客でも荷役でもない。荷がない。歩き方が軽い。軽いのに、視線が忙しい。
肩に小さな箱を担いでいる。布がかかっている。中身は重くない。重くないものを重いふりして運ぶ者の歩き方。
男は列の外側をゆっくり流れ、誰かの肩へ“ぶつかりそう”になる瞬間を探していた。
ぶつかるのは偶然に見える。偶然に見せるのが上手い。
「……あれ」
喉が鳴った。視界の端が反応する。
【Suspected runner: approach pattern detected】
【Risk: residue transfer】
【Note: contact angle suggests rubbing, not impact】
ぶつかりじゃない。擦り付け。
ぶつかりは衝撃。擦り付けは転写。転写は、残る。
アヤメはレイへ視線を送る。
レイは頷いた。言葉はいらない。立ち方で合図が済む。
レイが円の外側で、男の進路を“自然に”変える位置へ動く。
男はレイを避けようとして少し進路を変えた。その先に、荷を抱えた老人がいた。
男が老人へ寄る。寄るというより、老人の肩へ滑り込む。
「……っ」
肩が触れた。触れた瞬間は、ぶつかったように見える。
だが男の手が肩口を一度だけ“撫でる”ように滑った。撫でるというより、擦る。擦って、何かを置く。
老人は気づかない。気づかないから、最悪だ。
アヤメの視界が赤に寄る。
【Residue transfer: possible】
【Signature fragment: detected】
【Source: unknown】
【Warning: subject cannot execute】
手が出せない。見るだけ。
見るだけで心臓が速くなる。速くなる心臓が焦りを呼ぶ。焦りは手順を崩す。崩れた瞬間、相手の手順が通る。
「レイ、止めない」
アヤメが小さく言うと、レイが短く返す。
「止めると逃げる」
「追う」
エドがすぐ言葉を繋ぐ。
「追跡は必要だ。だが近づきすぎるな。君は三メートルから出られない。追う役を分ける」
「……分ける」
分ける。工程を分ける。役割を分ける。
混乱を減らす方法は、いつも同じだ。
男は老人の肩を擦ったまま、人波に紛れて路地へ流れる。流れるのに、目だけは時々こちらを確認する。反応を見ている。
反応を見て、手順を調整する。――相手も手順で動く。
レイが追う。走らない。走ると目立つ。目立つと相手が消える。
レイは歩幅を変えず、距離を保って付いていく。港の影の一部みたいに。
エドがアヤメに言った。
「君はここで、老人の症状を拾う。今すぐだ。転写が起きたなら、前兆が出る」
「分かった」
アヤメは老人へ声をかけた。怖がらせない声。怖がらせると怒りが燃える。怒りは黒市の餌になる。
「すみません。肩、ぶつかりました?」
「……え? ああ、若いのが。大丈夫だよ」
「手、冷たくないですか」
「冷たく……」
老人は手のひらを見た。
その瞬間、眉が僅かに動く。違和感。違和感は前兆だ。
「……なんだこれ。ちょっと、痺れる?」
「手を擦らないで。水、ありますか。洗えるなら洗って。……すぐ治まることもあるから」
「え、なに、病気か」
「病気じゃない。……今は、触らないのが一番」
言いながら、自分の言葉の不確かさが腹に刺さる。
本当は言いたい。残滓が付いた。署名が貼られた。偽装が混ざった。
でも言葉にした瞬間、港の空気は変わる。変わった空気は戻らない。
視界の端に淡い表示。
【Symptom onset: tingling】
【Time: immediate】
【Likely method: rubbing transfer】
やっぱり。
ぶつかりではなく、擦り付け。
“触る”ではなく“擦る”。この差が、証拠になる。
アヤメは手帳へ書いた。
“接触:肩口、撫でるように擦り”
“発症:即時、痺れ”
“方法:転写(擦り付け)”
書き終えた瞬間、胸の奥の霧が少しだけ晴れた。
霧が晴れると次の一歩が見える。次の一歩が見えると、恐怖の形が変わる。
漠然とした恐怖が、対処できる恐怖になる。
エドが路地の方角を見ながら言った。
「追跡先はどこになる」
「……港の裏?」
「違う」
アヤメは言い切った。あのメッセージの骨が、頭の中に刺さっている。
「診療所セクタ。残滓が溜まるノード。そこに“基準”がある」
「地図として使う、ってやつか」
「うん。命令として使ったら縄になる。地図なら……縄の先を見れる」
エドの口角が一瞬だけ上がった。笑うというより、認める形。
「いい。——ただし、先回りされる」
「センセイが同じ地図を持ってるから」
「そうだ」
アヤメは手帳を閉じ、胸に押し当てた。
港の騒音が、さっきより遠く感じる。遠いのに、変わらず刺さる。
刺さる音の中で、今はやることがはっきりしている。証拠を固め、方法を言語化し、次の場所へ行く。
その時、路地の方からレイが戻ってきた。息は乱れていない。乱れていないのに、目が硬い。
「消えた」
「どこで」
「路地の奥で、通路が分かれる。……向こうは慣れてる。走らないのに速い」
アヤメが息を吐きかけたところで、レイが付け足す。
「でも、見えた。行き先の癖。港じゃない。人が“治す”方へ流れる」
治す方。
診療所セクタ。
残滓が溜まるノード。
アヤメの視界の端に、薄い矢印みたいなものが一瞬だけ点いた。導かれるような、嫌な親切。
親切は罠の匂いがする。けれど、罠でも行かないわけにはいかない。行かなければ港は燃える。
エドが紙束を抱え直し、仮面の待機所へ視線を投げた。
「申請を出す。診療所セクタへ。立会いを取る。君は現場が荒れない短い言葉を用意しろ」
「短い言葉……」
アヤメは口の中で繰り返す。
“触るな”じゃない。“擦るな”でもない。
“損する”“事故る”“止まる”。現場が一番嫌う形に落とす。
「未登録は当たり外れ。外れは痺れる。痺れは事故の前兆。だから買うな。……これで行ける」
「いい。恐怖より損失で止める」
レイが短く言った。
「行くなら、早い方がいい」
「早い方が危ない」
「危なくても、遅いと死ぬ」
短い言葉は、時々刃になる。
でも今は、背中を押す刃だ。
港の上を風が吹き抜け、潮の匂いが一瞬だけ薄くなった。
代わりに、薬草みたいな匂いがどこからか混ざった気がした。錯覚かもしれない。けれど匂いは場所を連れてくる。
アヤメは足元の三メートルを見下ろし、拳を握った。
「……ログ取ろ。擦り付け。転写。方法が分かった。次は、基準を見に行く」
口にした瞬間、遠くの人波の中で、誰かが静かに笑った気配がした。笑い声じゃない。音にならない笑い。
センセイの気配。
「……正しいですね」
聞こえたような気がする。
振り返っても、誰もいない。
けれどアヤメは確信した。
地図は共有されている。
なら、先に着く。先に証拠を作る。
アヤメは手帳を抱き直し、三メートルの世界の中で、次の場所へ向かって歩き出した。
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