第16話:三メートルの世界
監査室へ続く廊下は、潮の匂いがしなかった。
港の朝は油と魚と汗で鼻の奥まで満たされるのに、ここは石と紙と乾いた金属の匂いだけがある。足音が壁に跳ね返って戻ってくる。戻ってくる音が、自分の心臓の速さを数えているみたいで、ミナト・アヤメは歩幅を揃えようとして失敗した。
手帳を抱え直す。紙の角が掌に食い込み、痛みが現実を連れ戻す。
痛いなら大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。痛い間は、まだ動ける。
視界の端に、いつもの枠。
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
読むだけの制限。
それでも今は、読むことが唯一の武器だ。武器があるなら戦える。武器があるから、狙われる。
扉の前に立つと金属の擦れる音がして、低い声がした。
「入れ」
扉が開く。中は明るいのに、温度が低い。光が均一すぎる。影がない場所は逃げ道がない。
机と椅子、棚、黒い箱。机の向こうに仮面がいた。青い光。近づくほど冷たい。机の脇にはエド。紙束を抱え、目だけでアヤメを迎えた。
「座って」
エドの声は、港の怒鳴り声と違って紙の上を滑るように静かだった。
アヤメは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばす。背筋を伸ばすと怖さが少しだけ薄くなる気がした。気のせいでも、今はそれが必要だった。
仮面が先に口を開いた。
「聴取ではない。状況確認と、暫定措置の説明を行う」
暫定措置。
言い方が柔らかいほど、きついものが来る。
仮面の光が微かに脈打つ。視界に短い表示が浮かぶ。
【Subject: MINATO-AYAME】
【Flag: signature anomaly】
【Status: under audit】
肺が空気を入れるだけで胸がきしむ。きしむのに、声は出さなければならない。
「……私は、何もしてないです。実行も書き込みも、できない」
言い切ってから、自分の言葉が弱いことに気づく。
“できない”は言い訳に聞こえる。聞こえるけれど、事実だ。
エドが机の上に紙を一枚置いた。書式が整っている。文字の角が揃っている。
こういう紙は、誰かを守るためではなく、誰かを縛るために作られることが多い。
「確認する。君は今、観測ロールだ。権限はREADのみ。EXECとWRITEは拒否されている」
事務的に読み上げられるたび、首の後ろが冷たくなる。
アヤメは頷くしかない。
仮面が続ける。
「にもかかわらず、君の署名異常が検知された。維持者系統に類似する残滓が付着している。説明せよ」
説明しても、信じてもらえるかは別だ。
信じるかは規定が決める。規定は心を見ない。規定は形を見る。
アヤメは手帳を机の上に置いた。革の表紙が机の硬さに当たって鈍い音を立てる。
「現場で、紙切れが投げられて……その直後に、署名異常の表示が出ました。私は受け取っただけで、何も――」
「手帳の記録は、改竄可能だ」
仮面の声が落ちる。断罪ではなく、事実としての拒否。
改竄可能。胸の奥に小さな棘が刺さる。必死に書いた文字が、紙一枚で無力にされる。
「……でも、これしか……」
言いかけたところで、エドが視線を上げた。
目が言う。言葉を選べ、と。
アヤメは喉を鳴らし、言い直す。
「これしか、私が持てない。だから、別の形の証拠が必要です」
エドが小さく頷いた。
「そうだ。別の形。改竄できない形」
アヤメは続ける。
「監査側のログ。検知の記録。保管庫の閲覧履歴。いつ、誰が、どこに触れたか。そこなら、紙より信用される」
自分の口から出たとは思えない言葉。
いつもなら「いや、仕様って……」で逃げる。逃げないのは、ここで逃げたら終わるからだ。
仮面の光が微かに揺れた。
「要求を受理するかは、手順による」
「手順なら組む。申請書式も、理由も、範囲も。――エド」
エドが紙束を捲る。紙が擦れる音が、監査室の唯一の“波”になる。
「監査ログ閲覧は、教育目的か、事故再発防止目的に限定される。君の申請は後者に落とせる」
「落としてください。現場が燃えるのは困る」
言った瞬間、言葉の冷たさに自分で驚く。
燃える。比喩でも、ここでは比喩では済まない。人が倒れる。荷が腐る。怒りが暴れる。
仮面が淡々と告げた。
「現場の混乱は抑止対象である。だが、君が危険を増やしている可能性もある」
「……私が?」
震えが声に混ざる。震えは弱さだ。弱さは利用される。
エドが間に入った。
「可能性の話だ。だからこそ証拠を固める必要がある。君の手帳ログだけでは弱い。監査ログと一致させれば、強くなる」
強くなる。
縋りたいのに怖い。強くなれば狙われる。狙われるから制限が増える。
仮面が机の上に小さな札を置いた。薄い。冷たい。触れなくても、触れたくない。
【Temporary notice】
【Restriction update: pending】
「暫定措置として、君の行動範囲を制限する」
アヤメは目を見開いた。
既に制限されているのに、さらに。
「待って、今でも――」
「現行の制限は緩い。署名異常がある以上、接触は危険と判断する」
接触。
触れることが危険。触れられることも危険。誰かにぶつかられるだけで終わる世界。
アヤメが言葉を探している間に、仮面は先へ進む。
「ただし、君の情報価値は認める。現場言語への翻訳能力は有効である」
「……有効、って」
自分が道具みたいに言われる感覚。腹が立つのに否定できない。
今の自分の価値は、そこにしかない。
エドが視線を落とし、静かに言った。
「君が現場を落ち着かせたのは事実だ。だから完全隔離にはしない。だが自由に動ける状態でもない」
「……つまり、狭くする」
「狭くする。狭くした上で観測を続ける。矛盾を潰す」
矛盾。
矛盾は誰かの嘘だ。嘘は手順の穴だ。穴があれば刺される。
アヤメは手帳を開き、さっきの紙切れの文言を自分の字で書き写した。書くことでしか、怒りを整えられない。
――見分け方を教えると、作り方も教えたことになる。
“先生”の刃。正しさの形をした刃。
仮面が、少しだけ間を変えた。温度ではなく、圧が変わる。
「もう一つ確認する。署名異常が検知された時、君の周囲に接触者はいたか」
「……大勢いました。港門は――」
「大勢、ではなく。近距離の接触だ」
近距離。
背筋がひやりとする。さっき“接触”を強調した。今は“近距離”。
言葉の選び方に情報が混ざっている。
「……近距離」
アヤメは脳内で瞬間を巻き戻す。紙切れが足元に転がった。拾う前に、誰かが肩に触れた気がした。触れたというより、すれた。人波の中で埋もれる感触。埋もれるから最悪だ。
「……すれた。誰かに。ぶつかった、みたいに」
言った瞬間、エドの鉛筆が止まった。
仮面の光が一拍だけ強くなる。
視界に短い行が出る。
【Note: signature transfer often occurs at close range】
断定じゃない。だが傾向。傾向は手順になる。手順は罠にも盾にもなる。
エドがすぐに繋いだ。
「近距離で付着するなら、接触者ログが鍵になる。誰が近づいたか、時間と場所を固めればいい」
「でも、私は動けない。動くと、また――」
また貼られる。言葉にしなくても結論は同じだ。
仮面が淡々と告げる。
「だから制限する。接触を減らす。接触が減れば、付着も減る」
「減らして、証拠を集める」
「そうだ」
冷たいほど整った理屈。
でも整った理屈は現場の怒りを止めない。現場は理屈の前に腐る。腐る前に動かねばならないのに、動けない。
アヤメは口の中で癖の言葉を噛み殺した。
「それ、今やる?」
言ったら負ける。今はやるしかない。
エドが申請書の雛形を机に滑らせた。
「君はここに目的と範囲を書く。事故再発防止。現場混乱抑止。閲覧対象は検知ログと接触関連ログ。時間は短く。立ち会いは――」
エドが仮面を見る。
「監査側が指定する」
「指定する」
仮面が即答する。
アヤメは頷き、鉛筆を握った。鉛筆の木の匂いが少しだけ港に近い。
書きながら胸の奥がざわつく。
今夜。港門の厳格モード更新。検査項目の増加。列が詰まり、黒市が甘い声を出し、現場がまた近道に手を伸ばす。
「……今夜の更新、止められないんですか」
思わず漏れた。
エドが答える前に、仮面が淡々と言った。
「止められない。上位手順で決定されている」
「上位……」
上位。管理者級。
開かずにいた点滅が、会話に合わせて呼吸しているみたいにちらつく。
【Message pending: admin-tier】
【Priority: high】
【Open prohibited without procedure】
禁止。
でも手順を組めば開ける。合法になる。合法になれば制限が増えるかもしれない。
合法は安全じゃない。合法は“許される危険”だ。
エドが声を落とした。
「開封は後だ。今は署名異常を“現場の付着”に落とす必要がある。落とせれば制限は緩む」
「落とせなかったら」
「きつくなる」
柔らかい言い方ほど、きついものが来る。
アヤメは申請書を書き終え、差し出した。文字が少し歪んでいる。歪みが怖さを隠していない。でも、歪んでも出す。出さなければ始まらない。
仮面が紙を受け取り、机の角に揃えた。揃え方が正確すぎて、逆に不気味だ。
「受理。暫定措置を適用する」
その言葉と同時に、視界に円が描かれた。
さっきより小さい。小さすぎる。
【Zone restriction: 3m】
【Leave zone -> immediate restriction】
【Duration: until audit clears】
三メートル。
腕を伸ばせば届く距離。届く距離だけが世界になる。
現場の中心に立てない。流れの外側へ押し出される。押し出されれば声は届きにくい。声が届かなければ、現場が燃える。
アヤメは唇を噛んだ。噛んで血の味がしないことに安心する。
まだ壊れていない。
エドが小さく言った。
「……これで接触が減る。君に擦り付けるのは難しくなる。難しくなれば、相手は別の手順に切り替える」
「別の手順って」
「噂。責任。空気。――君を“供給源”に見せる」
もう噂は回っている。
“あの女が元だ”。
言葉は速い。規定より速い。手順より速い。
仮面が立ち上がった。椅子の脚が床に触れる音がやけに大きい。
「現場へ戻れ。制限内で観測と翻訳を継続せよ」
「……はい」
返事をした瞬間、胸の奥に小さな反発が生まれた。
戻るのに動けない。動けないのに落ち着かせろ。無理だと言いたい。言えば終わる。
アヤメは立ち上がり、手帳を抱えた。
出口へ向かう途中、エドが横に並び、声を落とす。
「今夜、港門はさらに詰まる。黒市は必ず動く。――君の言葉が必要だ」
「必要って言う割に、三メートル」
「三メートルで届く言葉を作れ。短く、刺さるやつを」
短く、刺さる。
得意だ。得意だから狙われる。狙われるから制限が増える。
廊下へ出ると、監査室の匂いが背中に残った。
遠くから港の怒鳴り声が微かに聞こえる。潮の匂いが、やっと戻ってくる。戻ってきた匂いが、逆に怖い。ここからが戦場だ。
視界の端で、点滅がまた一段強くなる。
【Message pending: admin-tier】
【Priority: high】
【Procedure required】
開け、と言っている。
開くな、とも言っている。
アヤメは足を止め、手帳の表紙を指でなぞった。
紙は盾になる。盾には穴がある。穴は手順で塞ぐ。
「……ログ取ろ」
声に出すと、少しだけ息が整った。
三メートルの世界でも、できることはある。今夜までに、できることを全部やる。
港の方から風が吹いた。潮が運ぶ匂いが、もう一度胸を叩く。
そしてその風に混じって、聞こえた気がした。淡々とした、笑わない声。
「……手順は守ってくださいね」
誰もいない。
でも確かに、そこに“いる”。
アヤメは背筋を伸ばし、点滅する表示から目を逸らさないまま、歩き出した。
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