第15話:疑惑は貼り付けられる
港の朝は、うるさい。
うるさいのに、笑い声がない。怒鳴り声だけが増えている。
門前の列は用途で分けられ、縄も札も増えた。けれど“厳格モード”の重さそのものは変わらない。荷が詰まる。詰まると焦る。焦ると近道が欲しくなる。近道の匂いは、いつだって路地から漂ってくる。
ミナト・アヤメは、門から少し離れた位置で人の流れを見ていた。
視界の端に貼りつく枠は相変わらず消えない。
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
読むだけの制限。
……でも、読めるなら守れるものがある。守れないものも、ある。
隣で書記のエドが紙束を抱えたまま、短く言った。
「今日の仕事は二つだ」
「二つ?」
「一つ目、偽装を減らす。二つ目、供給網の動きを鈍らせる」
減らす。鈍らせる。
壊す、とは言わない。壊せば反動が来る。港は反動に弱い。腐る荷と怒りが、先に爆ぜる。
「どうやって鈍らせるの」
「現場が買わなくなれば鈍る。買わない理由は二つ。怖いか、損するか」
「損するは効く」
アヤメが言うと、エドは頷いた。
「だから今日は“損する手順”を配る。君の言葉で」
「……現場の言葉で、ね」
アヤメは手帳を開いた。門前で配れるのは短い文だけだ。長い説明は読まれない。怒りは長文を嫌う。だから短く、刺す。
「偽装トークンの見分け方――って言うと、みんな欲しがる」
「欲しがらせない言い方にする。『見分ける』じゃない。『事故る前兆』だ」
“事故る前兆”。現場が一番嫌う言葉。
嫌うから効く。
アヤメは鉛筆を走らせた。
――未登録トークンは当たり外れ。
――外れは光が“跳ねる”。
――冷たいのに急に熱くなる。
――指先が痺れる。
――検査で止まる。止まると逆に損。
――使わない方が早い。
書きながら胸が痛んだ。
本当は、もっと正確に言える。署名が不一致だとか、残滓が維持者署名に似ているとか。――でもそれを言えば、相手は合わせてくる。合わせてくる相手が、もういる。淡々とした“先生”。
「できたか」
太い声。荷役頭のガンゾが来ていた。朝から怒鳴っていた喉なのに、まだ声が太い。
「ガンゾ、入口に貼って。説明係にも読ませて」
「紙切れ一枚で変わるかよ」
「変えるのは紙じゃない。紙に書いた“損”です」
ガンゾが鼻で笑い、紙を受け取った。
「損、ねぇ……港の連中は損に弱い。いい。貼れ! 読み上げろ! “損する”を太くしろ!」
部下が走り、札の横に新しい紙が貼られていく。説明係が声を張った。
「未登録トークンは当たり外れ! 外れは事故ります! 検査で止まって逆に損します!」
“損する”が繰り返されるたび、列の空気が少しずつ変わる。
怒りは消えない。けれど向きが変わる。港門や衛兵に向けられていた怒りが、路地の甘い囁きへ向き始める。
視界の端に淡い変化。
【Bypass attempts: decreasing】
【Counterfeit usage: warning accepted (partial)】
効いている。
効けば効くほど、相手は手を変える。
手を変える時、狙われるのは“効かせた側”だ。
アヤメは背中に視線を感じた。怒りでも恐怖でもない、計算の目。
売り子の目。
視線を動かすと、路地の入口で男が一瞬だけ身を引いた。布をかぶせた箱。軽い肩。トークン屋。
目が合う前に消えた。
「……見られてる」
アヤメが呟くと、背後からレイが短く返した。
「見られてる。だから、近づかない」
「近づかないで守れる?」
「守れる距離で守る」
レイの“立ち方”だけで人が避ける。荒い男も半歩だけ距離を取る。
武器は刃だけじゃない。体の置き方も武器だ。
エドが視線を寄せた。
「君の紙は、もう黒市に届いた。届いたら次は?」
「偽装の形が変わる」
「そう。見分け方を教えると、見分けられない形を作る」
アヤメは息を吸った。
「でも、教えないと事故る」
「だから、教える範囲を絞る。“前兆”だけ。署名の話は出すな」
「分かってる」
分かっている。
それでも嫌な予感は膨らむ。署名は見えない。見えない攻撃は現場を混乱させる。混乱が増えれば、規定は締める。締めれば黒市が儲かる。
その時、列の隙間から小さな影が滑り込んできた。
ユウトだ。顔はまだ汚れている。目だけがやけに必死だった。
「アヤメ!」
呼び捨て。焦り。
ユウトは周りを見回し、声を落とす。
「先生が……怒ってる」
「何で分かるの」
「来たんだよ。裏の路地。耳元で言った。『口を塞ぐ』って。……あんたのこと指さしてた」
指さしてた。
この港で指をさされるのは、槍を向けられるのと同じだ。噂が芽を持つ。
レイが一歩前へ出て、ユウトの肩を掴み、周囲から少し離した。
「どこで。誰が」
「酒場の裏! 黒い手袋! 細い指! 声、淡々! ……笑わない!」
震えは嘘の震えじゃない。
それを聞くだけで、アヤメの喉が乾く。
エドが仮面へ短く言った。
「供給源が動く。窓が近い」
仮面は冷たく答える。
「観測を継続。現場の混乱を抑止」
つまり、ここで騒ぐな。
分かっている。分かっていても、予感は抑止では消えない。
アヤメはユウトへ視線を落とした。
「ユウト。ここにいると危ない。説明係の後ろ、見える? あそこに入って。誰かに近づかれたら声を出して」
「……分かった」
ユウトが走り出す。
その背中を見送りながら、アヤメは手帳を胸に押し当てた。紙は盾。――でも紙の盾には穴がある。穴を狙われたら、刺さる。
列の中で小さなざわめきが起きた。
魚籠を抱えた男が、急に顔をしかめて手を振っている。
「痛っ……何だこれ、痺れ――」
次の瞬間、男の手のひらで薄片が光った。
光が跳ねる。嫌な跳ね方。
観測窓が赤に寄る。
【Token activation: unstable】
【Risk: burst / panic】
【Cause: signature mismatch】
署名の不一致。
やっぱり署名だ。
――“前兆”を配ったから、相手は“跳ねない形”を作るのではなく、“跳ねさせたい場所”を選ぶ。混乱を起こすために。
「下がって!」
アヤメが叫ぶより早く、レイが動いた。
男の手首を掴み、薄片から距離を取らせる。痛めつけないのに逃げられない角度。
「落とせ! 手を開け!」
男は怯え、反射で手を開く。
薄片が石畳に落ち、光がさらに跳ねた。
悲鳴が上がりかけた、その瞬間。
仮面の大型個体が前へ出た。掌を薄片へ向ける。
空気が硬くなる。見えない枠が降りる感覚。
光が――止まった。
規定の“制限”の匂い。
列の人々が息を呑み、次の瞬間一斉に騒ぎ出す。
「何だ今の!」
「だから言ったろ、偽装だって!」
「誰が売った!」
怒りが黒市へ向き始める。良い。良いはずだ。
でも怒りは矛先を間違える。間違えた瞬間、誰かが刺される。
アヤメは声を整えた。怒鳴らない。損で刺す。
「今のは外れ! 使うと検査で止まります! 損します! 次は買わないで!」
説明係がそれを繰り返す。列がぎこちなく落ち着き、少しずつ元に戻っていく。
――その時。
アヤメの足元に、小さな紙切れが転がってきた。
落ちたんじゃない。投げられた。狙って。
紙切れには短い文字。乱れのない筆跡。淡々とした筆。
――「見分け方を教えると、作り方も教えたことになる」
喉が鳴った。
正しい。腹が立つほど正しい。
そして、その正しさは相手の刃だ。
レイが紙切れを拾い、目を細める。
「……挑発」
「挑発じゃない。宣告」
宣告は、次の手を告げる。
次は“事故”じゃない。事故は偶然に見える。相手は偶然を装うのが上手い。
だから次は、“責任”を狙う。責任を背負わせれば、制限が強まる。
その瞬間だった。
観測窓が、ちいさく揺れた。風でも光でもない。枠が“書き換えられる”感覚。
【Signature: attached】
【Type: maintainer-like (partial)】
【Source: unknown】
【Status: under audit】
息が止まった。
付与。貼り付け。――自分に。
「……うそ」
声が漏れる。レイがすぐ気づいた。
「何が起きた」
「私に……署名が付いた。維持者っぽい。……監査に回る」
エドの顔色が変わった。初めて見る崩れ方だった。
「貼られたか。……最悪だ」
「最悪って?」
「君が“偽装の供給源”に見える。規定は見た目で動く。意図は関係ない」
意図は関係ない。
規定の残酷さ。
そして黒市は、その残酷さを利用する。
仮面がこちらへ向き直った。青い光が少し白に寄る。評価の色。
「観測対象の署名異常を検知。説明せよ」
「説明も何も、私は何もしてない! 実行権限がない! 書き込みもできない!」
叫びたくなるのを堪え、言葉を速くする。
焦ると早口になる。早口は隙になる。隙を狙われる。
エドが即座に前へ出て、橋をかける言葉を投げた。
「観測ロールはEXECもWRITEも denied。署名の付与は外部からの貼り付けと推定。現場で同様の不一致が発生した。――さっきの薄片が跳ねたパターンと一致する」
「推定は不要。証拠を提示せよ」
仮面は冷たい。冷たいほど正しい。
証拠がなければ、制限は強まる。
アヤメは手帳を開き、鉛筆を握った。
証拠は、今この瞬間に作るしかない。ログを取る。現場ログを残す。
“貼り付け表示の時刻”
“紙切れ投げ込み”
“偽装薄片の跳ね”
“制限で停止”
“周囲の視線の動き”
書く手が震える。震えると字が汚くなる。汚いと信用が落ちる。
それでも書く。書かないと終わる。
レイがアヤメの背後へ立ち、周囲を睨んだ。
人の流れの中で視線が泳ぐ男が一人いる。荷でも旅でもない。
レイが一歩寄ると、男は視線を逸らし、列に溶けた。
「いる。見てる」
レイの低い声。
アヤメは頷いた。貼った本人がどこかで見ている。
エドが手帳の端を押さえ、小さく言う。
「落ち着け。君が焦ると、向こうの手順が通る」
「……落ち着けって、今それ言う?」
「今言う。今言わないと、君は声で自分を壊す」
アヤメは一度だけ深呼吸した。
潮。油。石畳の冷たさ。現場へ意識を戻す。現場へ戻れば、手順は作れる。
仮面が淡々と告げる。
「署名異常は監査対象。暫定措置を適用する」
「暫定措置って……」
「観測対象の行動範囲を制限。現場から隔離」
隔離。
制限が、さらにきつくなる。
視界に円。半径。境界線。
【Zone restriction: 10m】
【Leave zone -> immediate restriction】
たった十メートル。
列の全体が見渡せない。説明係にも近づけない。現場の声が届かなくなる。
それが一番怖い。
レイが即座に立ち位置を変え、アヤメの前に立った。
「守る。十メートルの中で守る」
「……ごめん」
「謝るな。謝る暇があるなら、ログを取れ」
短い言葉が刺さる。刺さるから動ける。
アヤメは書き続けた。
“署名異常:付与/維持者っぽい/発生時刻”
“紙切れ:宣告文/投げ込み”
“偽装薄片:跳ね/制限で停止”
“周囲:視線の男/溶ける”
書いていると、観測窓にさらに小さな行が増えた。
【Audit queue: subject flagged】
【Hearing scheduled: soon】
すぐ。
規定が動き始めた。向こうの手順が通った。
アヤメは歯を噛む。
現場を守るために言葉を配ったのに、その言葉が刃になって戻ってくる。
でも、戻ってくるなら受け止めるしかない。
受け止めて、証拠で折るしかない。
エドが小さく言った。
「……やられたな。君を“供給源”に見せる手口だ」
「でも私は動けない」
「だから効く。動けない君なら、反証が遅れる」
遅れる。
その遅れで現場が焼ける。
アヤメは十メートルの円の中から、説明係へ向けて声を飛ばした。
「紙の内容、続けて! 偽装は損! 跳ねるのは危険! 買わない!」
声は届いた。届いてくれ。
届いている間だけでも、事故が減る。
列のどこかで囁きが走る。
「……あの女、偽装の元だってよ」
噂が回る。
噂は規定より速い。噂は文書より速い。
黒市は噂で動かし、監査は文書で動く。現場はその間で潰れる。
レイが噂の方向へ睨みを利かせる。噂の主はすぐに消える。
消えるから噂は増える。
アヤメは手帳を閉じ、受領札と閲覧証跡を指で確かめた。
盾はある。盾を出す場所が、もうすぐ来る。
口癖が勝手に漏れた。
「いや、仕様って……」
笑えない。
でも笑ってごまかす癖が、今も自分を立たせている。
視界の端で、まだ開いていない点滅が強くなる。
管理者級。開くなと言われたやつ。
【Message pending: admin-tier】
【Priority: high】
高い。高いほど罠の匂いがする。
でも、このままなら規定に押し潰され、黒市に利用され、現場が燃える。
アヤメは十メートルの制限の中で、鉛筆を握り直した。
――まずログ。
――次に証拠。
――それでも足りなければ、上の手順。
港の怒鳴り声が遠くで続く。
その中で、淡々とした声が影から聞こえた気がした。
「……よくできました。次は、もっと簡単に壊れますよ」
誰もいない。
でも確かに、刺さった。
アヤメは背筋を伸ばし、胸の中で短く言った。
「……ログ取ろ。今すぐ」
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