第14話:港は怒って、路地は囁く
港は、朝から腹を立てていた。
潮の匂いに油と汗と苛立ちが混じり、荷車の車輪が乱暴に石畳を叩く。縄の軋みは短く尖り、怒鳴り声が飛ぶ。笑い声はない。
理由は一つだ。
通れない。
港門の前、用途で分けたはずの列が、また絡まり始めていた。
生鮮、乾物、旅客、修理職――縄と札で分けても、人は守れない。腐る荷が目の前にある。待つほど損をする。
結界は見えない。
けれど空気の“粘り”で分かる。検査が重い。厳格モードのまま絞り込んでいる。
ミナト・アヤメは門前から少し離れた場所で喉の乾きを確かめ、視界の端の枠を見た。
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【EXEC: denied】
【WRITE: denied】
【Log streaming: enabled】
読むだけ。動かせない。
動かせないのに、現場は動く。動かなければ壊れる。
隣にエドがいる。紙束を抱え、目だけで周囲を走査している。
少し後ろに仮面。青い光。近づくほど冷たい。
「……列が戻ってる」
アヤメが呟くと、エドが短く頷いた。
「厳格モードが長引くと、現場は“手順”を守れなくなる。守れないと、近道が生まれる」
「近道って……」
「裏口だ。規定の外に出口を作る」
港の裏口。黒市。
門前の喧噪の中、荷役頭のガンゾが腕まくりして怒鳴っていた。
太い首。日に焼けた頬。古傷のある手。
「生鮮は左だ! 乾物は右! 札を見ろ! 見ねぇ奴は並び直せ!」
部下が縄を張り直し、札を掲げる。
それでも守られない。
「魚だぞ! 待たせたら終わりだ!」
「検査だ! 結界が危ねぇ!」
「危ないなら早く直せ!」
直せ、が刺さる。
直せない。アヤメは直せない。読めるだけで手が届かない。
視界の端に薄い表示が浮く。
【Port gate inspection: strict mode】
【Throughput: low】
【Crowd density: rising】
【Risk: conflict / bypass attempts】
バイパスの試行。
近道が、もう生まれている。
アヤメはすぐ仮面へ向き直り、“鍵”の言葉を差し出した。
「提案していいですか」
「許可する。簡潔に」
許可。胸が少し軽くなる。
「列をもう一段、工程で分けてください。生鮮は“別工程”。腐る荷は暴発の火種です」
「優先は規定に反する」
「優先じゃない。“別手順”です。生鮮は検査項目が少ない。列ではなく工程を分ける」
エドが補足する。
「分類検査。規定内。工程を分ければ通過が増え、衝突が減る」
仮面の光がわずかに揺れた。計算が走る。
「許可する。現場へ通達せよ」
「……はい」
アヤメはガンゾへ駆け寄り、声を張った。
「ガンゾ! 生鮮は別工程! 検査項目が少ない分、通過を増やして密度を下げる!」
「誰の許可だ!」
「監査の許可!」
“責任の所在”が見えると、現場は動く。
ガンゾが唸って部下へ叫んだ。
「聞いたな! 魚と肉はこっち! 乾物はそのまま! 旅客は奥へ回せ!」
縄が張り直され、札が増え、列が動き始める。
動けば、怒りは少し落ちる。
【Throughput: low -> improving】
【Crowd density: high -> medium】
改善。読める。
読めるのに、自分の手で直したわけじゃない。言葉で動かした。
言葉は武器になる。武器は狙われる。
――その時だった。
喧噪の中で、ひときわ小さな声が耳に刺さった。
「……トークン、いるか」
囁き。怒鳴り声に混ぜて、すっと入り込む声。
獲物を探す声。
視線を滑らせる。列の外れ、倉庫へ続く細い路地の入口。
荷を担いだ男が立っていた。いや、荷ではない。布をかぶせた箱。肩の力が妙に軽い。重い荷を運ぶ者の歩き方じゃない。
男が魚籠を抱えた商人に近づく。
「厳格モードだろ。待つと腐る。通してやる。安い」
「通す? どうやって」
「トークンだ。通行証代わりになる。検査の手間が減る」
“検査の手間が減る”――妙に正しい言い方。だから危ない。
正しさに似せた嘘は、一番刺さる。
男が布の下から薄片を見せた。光った。
その瞬間、観測窓が勝手に反応する。
【Token-like object: detected】
【Signature: masked / inconsistent】
【Risk: unstable】
【Note: residue resembles maintainer signature (partial)】
胃の底が冷える。
維持者署名に似ている。――またその形だ。
エドの肩がわずかに動く。
「……出たな」
「トークン屋」
アヤメが言うと、エドが低く返した。
「規定側は“未登録断片の流通者”。現場はもっと単純だ。『通してくれる奴』」
仮面が一歩前に出る気配。
だが踏み込めば路地の奥へ逃げる。逃げれば供給源は掴めない。
アヤメは仮面へ“鍵”を差し出す。
「提案していいですか」
「許可する。簡潔に」
「今は捕まえないで。泳がせてください。供給源へ繋げたい。……“先生”に」
仮面の光が揺れた。計算。規定。危険。
エドが橋をかけるように言葉を補う。
「潜入調査。規定内。逮捕ではなく追跡。混乱を増やさず供給源の位置を確定する」
仮面が短く答える。
「許可する。だが単独行動は禁止」
「……分かってます」
縛り。
けれど今は盾でもある。ひとりで突っ込めば狙われる。複数なら、狙う側の手順も崩れる。
トークン屋は商人の耳元へさらに近づき、囁く。
「今なら半額。夕方には値が上がる。潮が引く頃、もっと欲しがる」
「……いくらだ」
「銀貨三枚。腐らせるより安い」
腐らせるより安い。
その言葉が現場の腹を掴む。現場は理屈ではなく損失で動く。
商人の手が震えながら財布へ伸びる。
アヤメの口の中が苦くなる。
止めたい。
止めれば裏は逃げる。
泳がせなければ先生が掴めない。掴めなければ、今夜の更新で黒市は増える。
アヤメはエドを見る。
エドは小さく首を横に振る。今は我慢だ、と目が言う。
商人は銀貨を渡した。
トークン屋は薄片を渡した。
そして何事もなかったように列へ戻る。列の中に溶ける。人の顔をして、規定の外を売る。
観測窓に短い警告。
【Bypass attempt: likely】
【Risk: inspection mismatch】
【Potential escalation if detected】
一致しない。
一致しないと衝突する。衝突すると結界が軋む。
アヤメは喉を鳴らし、もう一度“鍵”を差し出した。
「提案していいですか」
「許可する」
「入口で“簡易照合”を入れてください。偽装は不安定です。通せば事故が起きる。見つけたら拘束より“使わせない”を優先して」
仮面が冷たく返す。
「無効化は実行権限を要する」
「だから“現場の無効化”です。入口で説明して、渡させて、捨てさせる。恥をかかせない言い方で」
エドが頷く。
「羞恥を刺激すると暴発する。規定より群衆心理の話だ」
仮面が命じた。
「衛兵へ通達。入口に説明係を配置。未登録トークンの使用は危険であると告知せよ」
アヤメは衛兵へ短い手順を渡す。
「“違法”って言い方はしないで。“危険”って言って。『偽装が混ざってる』『事故が起きる』『損する』。損するは効く」
「……分かった。損する、な」
その間にも、トークン屋は次の獲物へ近づいていた。
今度は旅客の女。子どもを抱いている。列に並ぶのが辛そうだ。
「子どもが可哀想だろ。早く通れる」
「……でも、怖い」
「怖くない。検査の手間が減るだけだ」
怖くないと言い切るものほど怖い。
アヤメは一歩踏み出しそうになって、止めた。
単独で動けない。いま踏み出せば逃げられる。女は守れても、先生が消える。
エドが低く言った。
「……追う。準備」
「どうやって」
「俺が書類を作る。仮面が動く理由を作る。君は、見えたものを言語化しろ。現場の言葉で」
言語化。翻訳。
それが自分の役割。
アヤメは列の先頭で聞こえる声で言った。
「未登録トークンは“当たり外れ”があります! 当たりでも一致が崩れて結局止まります! 外れは事故ります! 荷が腐れます! 時間も金も損します!」
視線が集まる。怒鳴るより効く。損するは静かに刺さる。
母親がトークン屋の手を押し返し、列の外へ出た。
「……やめとく。怖いし、損するなら――」
「ちっ」
トークン屋が舌打ちする。
苛立ちは、次の行動を生む。
踵を返し、路地の奥へ引っ込んだ。
「動く」
エドが呟く。
仮面が一歩、二歩、静かに動く。大型個体が左右に展開し、逃げ道を塞ぐ角度を取る。
観測窓に薄い線。
【Target movement: alley route】
【Likely rendezvous: inner dock / tavern back】
【Time pattern: tide low】
潮が引く頃。
先生へ向かっている。
路地へ入ると光が減った。潮と酒と腐った木の匂い。
トークン屋の背中が先に見える。布をかぶせた箱を担いだまま迷いなく進む。
背後から小さな声。
「止めないの?」
レイだ。遅れて合流したらしい。息が少し上がっている。
「止めない。……今は追う」
「追って大丈夫?」
「大丈夫な手順で追う」
レイは口を結び、距離を保って付いてくる。守る役の立ち方。
路地の奥、酒場の裏手。木の扉が一つ。油染みた布が吊られ、外から中が見えない。
トークン屋は扉を二回叩き、一拍置いて一回叩いた。
合図。手順。
黒市にも手順がある。手順があるから広がる。
扉が少し開く。隙間から細い指が伸び、箱を受け取る。
淡々とした声がした。男か女か分からない声。
「……遅い」
「列が動かなくてよ。売れ筋は出した。次は夕方、潮が引く頃」
「数」
「銀貨で二十枚分。……ただ、邪魔がいる」
邪魔。背筋が冷える。
邪魔とは、アヤメだ。
「門前で“損する”って騒ぐ女がいる。読むだけの癖に現場を動かす。……見えてるらしい」
「……面倒だ」
怒鳴らない怖さ。ユウトの言っていた“先生”の匂い。
そのとき、扉の内側からもう一つ、笑みを含んだ声がした。
「邪魔でも価値はある。……読めるなら、使えばいい」
使う。
規定側の言葉と同じ形で刺さる。方向が違うだけで、形が似ている。
仮面が一歩前に出ようとした、その瞬間――
扉の内側で何かが動く音。箱が引きずられる音。逃げ道を探る足音。
エドが低く言った。
「……今なら規定に落とせる。『現行犯の取引』だ」
仮面の光が強くなる。
「開け。監査だ」
扉の隙間が一瞬で閉じた。
内側で走る足音。布が擦れる音。
レイが壁際へ身を寄せ、逃げ道を読む。
そのとき、観測窓に赤が走った。
【Unauthorized token activation: imminent】
【Risk: burst / crowd panic】
【Location: tavern back node】
起動。ここで偽装を起動したら“破裂”する。
破裂すれば監査は締める。締めれば黒市は儲かる。最悪の循環。
叫びそうになって、飲み込む。許可が要る。
だから鍵を差し出す。
「提案していいですか!」
「許可する!」
緊急時は、規定も早い。
「今、起動が来ます! 中で起動したら破裂します! 扉を壊してでも止めて!」
仮面が大型個体へ指示。
大型個体が扉へ掌を当て――躊躇なく押し潰した。木が裂け、蝶番が悲鳴を上げ、扉が内側へ倒れ込む。
暗い室内。箱と薄片と二人の影。
一人はトークン屋。
もう一人はフード。黒い手袋。細い指。
その手のひらで薄片が光り始めていた。
起動の瞬間。
薄片の光が不自然に跳ね、波みたいに空気を歪める。
【Risk: unstable burst】
【Observer: cannot execute】
手が出せない。読めるのに。
だから叫ぶ。
「下がって!」
レイが反射でアヤメの肩を引く。
大型個体が壁のように立つ。
光が――破裂しかけて、止まった。
止まったのは仮面が何かをしたからだ。見えない。見えないが、空気が硬くなる感覚だけが分かる。規定の“制限”の匂い。
フードの影が舌打ちし、薄片を床へ投げ捨てた。
「……チッ。監査かよ」
「拘束」
仮面の声が落ちる。大型個体がトークン屋の肩を掴み、男が呻いて崩れ落ちる。
だが“先生”は違った。
投げ捨てた薄片の上に一瞬だけ足を置き、床板を蹴って跳ぶ。酒樽の影、壁際の小さな抜け穴。裏の通路へ滑り込む。
「逃げる!」
レイが走り出そうとする。
アヤメは袖を掴んだ。
「今、追うと罠だ」
その一瞬の逡巡で、“先生”は消えた。
残ったのは床に転がる偽装薄片と、拘束されたトークン屋と、湿った暗がりの匂い。
観測窓に冷たい行。
【Supply source: partial contact】
【Teacher: unidentified】
【Next window: tide low (evening)】
夕方。潮が引く頃。次の窓。
逃げたのではなく、“次”を指定されたような感覚がする。こちらの動きまで読まれているみたいに。
エドが低く呟く。
「……掴み損ねた。でも形は見えた」
「形?」
「売り子がいて、先生がいる。手順で回ってる。潰すなら、手順ごと潰す」
手順ごと。
それはアヤメの戦い方と同じだ。だから厄介だ。
拘束されたトークン屋が、喉の奥で笑った。
「……お前、読めるんだろ」
アヤメは黙って見返す。
男は続けた。
「読めるなら稼げる。門前で言ったろ。“損する”って。あれ、効いた。……先生はお前を欲しがる」
欲しがる。使う。狙われる。
背中が冷える。
でも同時に、怒りが湧く。
――自分は道具じゃない。現場を守るために読む。読むために生き残る。
仮面が淡々と命じた。
「拘束対象を移送。偽装薄片を回収」
「回収、って……」
「証拠として保管。閲覧は制限される」
制限。
またその言葉。けれど証拠は残る。残れば争える。争う手順が作れる。
外へ出ると、港の空気が急に眩しく感じた。
工程分けで流れは改善しているのに、怒りは消えない。怒りは黒市の餌になる。
レイが隣で言う。
「逃げたね」
「逃げた。……でも次の窓を残した」
「夕方?」
「うん。潮が引く頃」
アヤメは手帳を開き、震える手で書いた。
“トークン屋:拘束”
“先生:逃走/細い指/黒手袋/淡々”
“窓:夕方/潮引き”
“偽装薄片:維持者署名に似る”
書き終えた瞬間、視界の端の点滅が強くなった。
管理者級のメッセージ。開くなと出ていたはずのやつが、まるで「今なら開ける」と誘ってくる。
【Message pending: admin-tier】
【Open?】
喉が鳴る。
開けば進むかもしれない。
開けば縛りが増えるかもしれない。
アヤメは手帳を閉じ、受領札と閲覧証跡を指で確かめた。
盾はある。だが盾だけでは勝てない。相手も手順で来る。
だから、もう一段上の手順が要る。
アヤメは小さく息を吸い、口癖を呟いた。
「……ログ取ろ」
そして胸の中だけで付け足した。
――夕方までに、もう一段上の手順を。
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