第13話:取引 "十分の証拠"
監査室の廊下は、朝なのに夜みたいに静かだった。
外の街は目覚めているはずなのに、ここだけ時間が遅い。乾いた石の床に靴音が響き、均一な白い壁が影の逃げ場を奪う。
ミナト・アヤメは胸の前で、手帳と受領札を重ねて持った。
紙の重さは軽いのに、肩が重い。軽い紙ほど、なくしたときに取り返せない。
視界の端に、観測の枠が貼りついている。
【Observer role: active】
【Permission: READ (restricted)】
【Log streaming: enabled】
読むだけ。
惨めになるから頭の中で繰り返したくないのに、枠は消えない。消えない以上、向き合うしかなかった。
扉の前で、金属を擦る声がした。
「入れ」
開いた扉の向こうに、机と椅子、棚、黒い箱。
そして仮面。光の色が少し青い個体。
人間の書記エドもいた。紙束を整えながら、目だけでアヤメを迎える。
「座って。今日は“取引の話”になる」
取引。
その単語だけで心臓が嫌な跳ね方をした。規定の世界で取引はいつだって歪む。歪むのに、突破口になるのも取引だ。
アヤメが椅子に座ると、仮面が先に口を開いた。
「聴取ではない。手続きの説明と、条件提示を行う」
机の上に黒い袋が置かれた。薄い膜でできた、口の閉じた袋。封印は解けていない。触れただけで“他人の手にある”と分かる冷たさ。
視界に短い表示。
【Evidence bag: sealed】
【Token fragment: in custody】
【Access: restricted】
あの欠片は、道具袋の奥で熱を持っていた。
今はこの袋の中で、何も言わない。
エドが紙束から一枚抜き、机に置いた。
「受領札はある。封印状態も一致。ここまでは規定通り。問題は次だ。君が求めているのは“返還”だろ」
アヤメは息を吸う。
「返してほしい。……でも返すのが危険なのは分かる。狙われるから」
「分かってるなら早い。全面返還は無理だ」
罪悪感のない声。事務の声。
だからアヤメも、事務で殴り返すしかない。
「じゃあ代わりをください。読む権利。閲覧の証跡。いつ、何を、誰が読んだか。あとで争える形で」
「争う気か」
「現場を守るために。……それと、自分を守るために」
言い切った瞬間、仮面の光が一段だけ強くなった。
「要求を受理する。条件を提示する」
棚に指が向き、黒い箱が滑るように机へ出てくる。
蓋が開き、薄い札が二枚。受領札より少し厚い。表面に細い刻印。触ると冷たい。
視界に表示。
【Read token issued (temporary)】
【Scope: evidence log / incident log (partial)】
【Duration: 00:10:00】
【Copy: prohibited】
【Share: prohibited】
【Violation -> restriction】
十分。
読むには足りる。足りないからこそ罠にもなる。
コピー禁止。共有禁止。――知った瞬間、口にしたくなる自分には一番きつい足かせだ。
エドが淡々と続ける。
「読む権利は出す。ただし返還ではない。袋は開けない。中身そのものは渡さない。見せるのは“ログ”だ」
「ログでいい」
即答した。
ログは証拠になる。証拠は戦える。
そして何より、ログは“手順”を作れる。
仮面が重ねる。
「第二条件。次の障害対応に同行し、監査側の目として手順遵守を補助せよ」
「補助って、何を」
「現場の混乱を減らす。規定を現場言語へ変換する。違反の芽を摘む」
「現場の盾にもなる?」
「遵守があれば制限は減る」
守る、とは言わない。
けれど減ると言った。減れば命が救える。
アヤメは視線を上げた。
「第三条件は?」
「第三条件。単独行動禁止。君の試行は禁止。許可なく現場へ介入しない」
「……分かった」
胸の奥がきしむ。
介入できない。手が出せない。
でも今の自分は“動ける手”を持っていない。持っていないなら、言葉で手順を作るしかない。
エドが紙に何かを書き、顔を上げる。
「もう一つ。君が求める“別件”は、ここに入れるか」
「……入れてください」
声が小さくなる。
別件。言葉にした瞬間、規定が動く。エドが言った通りだ。
それでも、ここで引けば一生辿り着けない。
「水路整備者の事故ログ。未解決の件。……あれを見たい」
仮面が一拍置いて言う。
「調査対象外」
「でも未解決のまま“flag”が付いてる」
「flagは記録。調査とは別」
正しい屁理屈。
アヤメは歯を噛み、机の上の受領札を指で押さえた。
「じゃあ調査じゃなく閲覧。断片でいい。欠落でもいい。……答えが欲しいんじゃない。手順が欲しい。現場の事故が二度と起きない手順が」
エドが小さく息を吐き、仮面へ視線を送る。橋の目。
「規定内に落とす。“教育目的の閲覧”。ただし黒塗りが入る。欠落も残る」
仮面が答えた。
「許可する。範囲は限定。閲覧時間は十分快の内に含む」
「……十分で、足りる」
足りない。けれどゼロよりはましだ。
仮面がRead tokenの一枚をアヤメへ差し出す。もう一枚はエドの前へ。立ち会い。監査の目。
「閲覧を開始する。記録する」
指が札に触れた瞬間、視界の端が白くなる。
情報が流れ込むときの、脳の奥が冷える感覚。なのに胸だけが熱い。
【Access granted: evidence log (partial)】
【Access granted: incident log (partial)】
まず、エビデンスバッグのログ。
封印時刻。抽出担当。封印確認。保管庫番号。開封履歴ゼロ。
整った箇条書き。血が一滴も混ざらない。
アヤメは意識をずらす。
“incident log”。
空気が変わった。
【Unresolved incident: waterline maintainer ID …】
【Location: waterline junction / clinic sector】
【Status: flagged】
【Missing: 00:03:00】
【Note: “accident” overridden by admin-tier】
欠落、三分。
上書き、管理者級。
胸の奥がぎゅっと縮む。
泣いたら文字が読めなくなる。読まなきゃいけない。だから泣かない。
アヤメは鉛筆を握りしめ、手帳を開いた。
コピー禁止。共有禁止。なら、紙に写す。紙は自分の頭の外付けだ。
“未解決事故:水路整備者ID(伏せ)”
“場所:診療所セクタ”
“欠落:3:00”
“admin-tier override”
書いている間にもログは流れる。
次の行が刺さった。
【Pre-incident: maintenance request queued】
【Requester: unknown】
【Instruction: “Maintain. Do not escalate.”】
Maintain. Do not escalate.
維持しろ。拡大させるな。
命令であり、祈りであり、呪いだ。
現場が何度も飲み込まれてきた言葉。事故の直前に誰かが投げつけた。
手が震え、字が歪む。
それでも書く。歪んでも証拠になる。
「……これ」
声が漏れた。
エドが咳払いで制す。声に出すな。規定が動く。
アヤメは口を閉じ、鉛筆だけを動かした。
黒塗りが増える。
IDは伏せられ、名前は伏せられ、時刻の一部が欠ける。
そして決定的な行が、黒に飲まれる直前で見えた。
【Admin-tier override: applied】
【Reason: safety restriction】
【Operator: ———】
安全制限。
安全のための上書き。
その言葉だけで、人が死ぬことがある。
アヤメは唇を噛み、殴り書きする。
“安全制限=上書き理由”
“操作主=伏せ”
時間表示が点滅した。
【Duration remaining: 00:02:41】
あと二分。
ここから先は速度だ。泣く暇も考える暇もない。読む、写す、読む、写す。
【Post-incident: maintainer key revoked】
【Action: record sealed】
【Public note: “accident: operator error”】
鍵剥奪。記録封印。
公表は「作業者のミス」。
胸の中で何かが切れそうになる。
でも切れたら今は終わる。終わらせない。
“鍵剥奪”
“記録封印”
“公表:作業者ミス”
残り時間がさらに減る。
【Duration remaining: 00:00:33】
最後にもう一つ。
アヤメは意識をエビデンスログへ戻し、欠片の保管庫番号と閲覧履歴を拾う。争うなら、ここが足場だ。
“保管庫:番号”
“閲覧履歴:監査のみ”
“聴取:次回”
そして、時間がゼロになる。
【Access revoked】
【Read token expired】
【Reminder: share prohibited】
視界の白さが引き、均一な光の部屋に戻った。
心臓が速い。息が浅い。けれど指先には確かに“掴んだ”感触が残っている。
エドが机の上の紙を整えながら言った。
「見たな」
「……見ました」
嘘はつかない。嘘は制限に繋がる。
でも全部は言わない。言わなくても、紙にある。
仮面が告げる。
「条件を確定する。君は監査同行者として登録。次の障害対応で現場へ出る。遵守を補助し、違反を抑止せよ」
「遵守を補助して、現場を守る。……分かりました」
「違反時は即時制限」
「分かってます」
分かりたくないほど分かっている。
だから、守る手順を先に作る。
アヤメは受領札を押さえ、エドを見る。
「この閲覧の証跡、ください。いつ、何を、誰が許可したか」
「当然。出す。証跡がないと規定も動けない」
エドは刻印の入った薄い札を追加で差し出した。
閲覧許可の記録。範囲。時間。立ち会い。
冷たい札。でも盾だ。
アヤメは札を受け取り、手帳の裏表紙に挟む。二重に、三重に。なくさないために。奪われないために。
扉の外へ出ると、朝の光が目に刺さった。
街は忙しくなっている。港は動いている。列は分かれて流れている。
何も知らない人の顔が、当たり前の朝をしている。
けれどアヤメの中では、朝が変わってしまった。
事故は“事故”ではなく、上書きだった。
鍵は剥奪された。記録は封印された。公表はミスにされた。
胸の奥が熱い。怒りなのか悲しみなのか分からない。
分からないままでも手順は作れる。手順を作れば次は守れる。
監査室の階段を降りたところで、レイが待っていた。
腕を組んだ顔は強張っている。怒りというより、耐えている顔。
「どうだった」
「……見た。短いけど」
「短い方が怖いね」
「うん。……短いほど、隠してる」
レイが一歩近づき、声を落とす。
「上からのメッセージ、開いた?」
「開いてない。公共の場で開くなって出てた」
「じゃあ、今は?」
「今も……開かない」
開きたい。開けば進む。
でも開いた瞬間、制限が強まる気がする。
それに今日はもう手一杯だ。得た情報を手順に落とすのが先。
その時、視界の端で空の方角がちらりと明るくなった。
雲の裏の光じゃない。文字の光だ。
街の人も何人か、空を見上げた。
薄い白い行が浮かぶ。
【Patch note preview: strict mode update scheduled】
【Medical queue / gate inspection / lighting load】
【Effective: tonight】
今夜。
また変わる。
また揺れる。
アヤメは息を吸って、手帳を抱え直した。
監査の制限は冷たい。でも雨よりはまし。
なら、冷たい傘で現場の濡れ方を減らす。
レイが小さく言った。
「行こう。今日中に手順を作らないと」
「……うん。ログ取ろ」
アヤメは空を見上げたまま、心の中で短く答えた。
――今度は、奪われたままでも守れる手順を。
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