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第11話:夜明けの聴取(監査室)

港の波音が、遠ざかっていく。

潮の匂いも、槍の金具の冷たさも、耳に残る怒鳴り声も、全部が背中側に押しやられていく。


ミナト・アヤメは、石畳を踏むたびに自分の呼吸が白くなるのを見た。夜明け前の空はまだ暗いのに、街の輪郭だけが少しずつ薄くほどけ始めている。雲の端が淡く染まり、遠くの屋根が灰色から青へ変わる。


隣を歩くのは、仮面の監査官——ではない。

仮面は少し後ろ。一定の距離を保ち、一定の速度で付いてくる。前を歩くのは、制服の衛兵だ。槍を持つ手が緊張で硬い。


そして、アヤメの手の中には薄い札がある。

受領札。番号。時刻。封印状態。保管先。

紙みたいに頼りないのに、今の世界ではこれが「盾」だ。


「……手帳、没収されないよね」


口から出た声は、思ったより掠れていた。

一晩で喉が削れた。叫んだ分だけ現場は守れたけれど、代わりに自分の中の余裕が削れている。


衛兵が振り返り、困った顔をした。


「それは……規定は知らん。監査のものだ」

「規定で守れるなら守ってください。手帳は“現場のログ”です。奪うと、現場がまた崩れます」


言い切ってから、胸が痛んだ。

言い方が強い。強い言い方をしないと押し返せない相手に、強い言い方が癖になりそうで怖い。


背後から、金属を擦るような声。


「ログは証拠。没収ではなく、複製を行う」

「複製……?」

「監査室で実施」


複製。

その単語だけで、少しだけ息がしやすくなる。

奪われるのではなく、写される。証跡が残る。——少なくとも、そういう手順がある。


東雲レイが二歩後ろから付いてきていた。

彼女は眠っていない目をしている。怒りも恐怖も押し込めて、理屈だけを前に出している目。


「同席は?」


レイが仮面へ問うと、仮面が一拍置いて答えた。


「監査室への同席は原則不可。必要時のみ許可」

「必要です。彼女は現場の翻訳者。言葉が噛み合わなければ、余計な制限が走る」


レイの声はよく通った。

衛兵が横目で彼女を見る。言葉の通し方が上手い。剣を抜かずに斬るような声だ。


仮面は「規定」を返すかと思ったが、意外にも短く言った。


「状況により判断する」


完全な拒否ではない。

その曖昧さが怖いのに、希望でもある。


監査室は港から少し離れた高台にあった。

市庁舎の裏手、石造りの建物。扉の前に文字の刻まれた板があるが、読めない者にはただの模様にしか見えない。

扉の前に立った瞬間、空気が“厚く”なった。血や潮ではない匂い。乾いた紙と鉄と石の匂い。規定の匂い。


扉がひとりでに開く。

鍵の音がない。蝶番の軋みもない。滑るように動く。


中は明るかった。

魔法灯ではない白さ。影が少ない。光が均一で、逃げ場がない。


「入れ」


衛兵に背を押されるでもなく、アヤメは自分の足で入った。

足を踏み入れた瞬間、視界の端で透明な枠が点滅した。


【Hearing initiated】

【Subject: token-related incident】

【Remain calm / answer accurately】


“落ち着け”。

この世界の「落ち着け」は、いつだって遅い。


部屋は広くない。机が一つ、椅子が二つ。壁際に棚。棚には紙束と、黒い箱がいくつも並んでいる。

正面には仮面が立っていた。診療所で見た個体とは違う。光の色が少し青い。低い圧がある。


その横に、人間がいた。

痩せた男。年齢は三十代後半くらい。髪は整えているのに、目の下に薄い影。手には羽ペン——いや、羽ではない細い金属の筆が握られている。


男が先に名乗った。


「監査室書記、エド。君の言葉を“手続きの言葉”にする係だ」

「……助かります」

「助かるなら、最初に言っておく。ここでは“感情”は証拠にならない。証拠は、ログと合意と結果だ」


正しい。正しすぎて腹が立つ。

でも、正しいなら使う。アヤメは唇を噛み、頷いた。


仮面が声を出す。


「聴取を開始する。質問に答えよ。虚偽は制限に繋がる」

「はい」


机の上に、手帳を置いた。

置いた瞬間、指が離れたことに心がざわつく。自分の頭の外に出したログは、もう自分だけのものじゃない。


書記のエドが手を伸ばし、手帳を開いた。

ページをめくる速度が速い。現場の字は汚いはずなのに、彼は読める。読めるように作られている、と気づいて、胸が少しだけ落ち着く。


「まず事実確認。港門結界の封止に関与したな」

「はい。結界の右支柱——結び目の熱点を緩衝して、隔離して、封止が通る状態にしました」

「“隔離”を行った?」

「試用ロールの範囲で。書き込みはしていません。構造は変えていない。衝突をバッファに逃がしただけです」


書記が、顔を上げた。


「言い方が正確だな。普通は“直した”で終わる」

「……直した、と言うと、責任の範囲が広がります。今の世界、責任は仕様で殴ってくる」

「その感覚は大事だ」


書記が淡々と肯定した。

肯定されると怖い。正しい方向へ歩いているのに、そこに罠がある気がする。


仮面が続ける。


「次。抽出班がトークン断片を回収した。所持経路を説明せよ」

「診療所の奥、壁の窪みで発見しました。『取得可能』の表示が出た。未登録の欠片。結びの手順でREADの断片権限が付いた」

「結びの手順を述べよ」

「リンク。生徒。オース。リード。……それで登録された」


仮面の光が一瞬だけ強くなった。

記録と照合している。正解かどうかを測っている。


書記が、受領札を指で弾いた。


「受領札は持っている。抽出は規定通り。……問題は、君が“結び”を行ったこと自体だ。規定では——」

「待ってください」


アヤメの声が先に出た。

止めたかった。規定の洪水を。


「結びをしなければ、診療所で未登録アクセスを止められなかった。結びがないと、警告も出せない。警告がなければ、侵入が成功して、書き込みが走った可能性がある」

「可能性、で語るな。証拠を出せ」


書記は冷たい。だが冷たいのは仕事だ。

アヤメは手帳を開き、該当のページを指差した。

窪みの位置。表示が出た時刻。逃げたフードの影。監査通知。警告の発火。全部、書いてある。


「これが現場ログ。……私の字です。汚いけど、時系列は揃えてある」

「うん。揃ってる」


書記はすぐに言った。

そして、仮面へ視線を送る。人間が仮面に視線を送るのは変な光景だ。でもここでは、それが“橋”になる。


仮面が言う。


「結びは監査対象。だが即時制限の対象ではない。結果としてサービス破綻は回避された」

「なら、制限はしないでください」


喉が乾く。

ここが交渉の山だ。ここで折れたら、診療所も港もまた崩れる。

自分がどうなってもいいとは思わない。でも、現場が崩れるのはもっと嫌だ。


「港門は封止したが、劣化状態だ。診療所も運用で回っている。制限が走れば全部が崩れる。崩れたら、あなたたちの“prevent escalation”に反します」


仮面の光が、青から少し白へ寄った。

反応。評価。計算。


書記が言葉を挟む。


「君は“結果”を盾にするのが上手い。規定側の言葉で言うなら、こうだ。『現場の手順は事故率を下げ、追加制限はリスクを増す』」

「……それ、お願いします」


アヤメは素直に言った。

この部屋では、素直さも手段だ。


書記がペンを走らせる。机の端に置かれた黒い箱が、微かに光る。音のない記録。


仮面が質問を変えた。


「港門の熱点は、何が原因だ」

「権限衝突。港門側の署名と、管理者級の署名が同じ結び目でぶつかっていた」

「管理者級の証拠を提示せよ」

「……見えました。表示で。『admin-tier activity』って。署名の形式は、——」


言いかけて止まる。

署名の形式を言語化した瞬間、それは“知識”になる。知識になった瞬間、奪われる。

奪われるだけならいい。だが、この世界では知識は罪にもなる。


書記が、アヤメの躊躇に気づいた。


「言いたくないのは分かる。だが言わないと、規定は君を守らない」

「……規定って、守るんですか」

「守る。守り方が冷たいだけだ」


冷たい守り。

それでも、守りがないよりはいい。


アヤメは息を吸い、言葉を選んだ。

全部を渡さない。現場を守るために必要な分だけ渡す。


「形式の詳細は言えません。今言うと、現場に流れて偽装される。……でも、衝突があったこと、隔離が必要だったこと、封止が自動で失敗したことはログに残っているはずです」

「残っている」


仮面が即答した。

残っているなら、言質は取れた。


書記が小さく頷き、机の上の紙束から一枚を引き出した。

そこに、短い文が書かれている。規定の言葉で。


「ここに『条件合意』がある。封止協力の許可条件。君は違反していない。……つまり“制限の必要性”は低い」


アヤメの肩が、少しだけ落ちた。

救われたわけじゃない。首がつながっただけ。でも、首がつながれば手順を作れる。


仮面が言う。


「制限は保留。だが観測対象として登録する」

「観測対象……」

「常時監査。行動ログ送信。違反時は即時剥奪」


剥奪。

その単語が、胸に刺さる。母の影がよぎる。

剥奪されたら、もう“見えない側”に戻る。


書記が続ける。


「それが規定側の妥協だ。君を罰するより、使う方が合理的という判断」


使う。

合理的。

人間としては嫌な言葉なのに、現場としてはありがたい。矛盾が喉に詰まる。


「……使うって、何を」


アヤメが問うと、仮面が答えた。


「翻訳者として同席せよ。監査現場で、規定を現場言語に変換し、遵守を促せ」

「それって……現場の盾にもなれる?」

「遵守されれば制限は減る」


守る、とは言わない。

でも減ると言った。減るなら、守れる。


アヤメは拳を握りしめ、頷いた。


「……やります。現場が崩れない形で」

「条件を提示する。現場での独断実行は禁止。試行は事前許可。ログ提出義務」

「ログ提出は、むしろ助かります」


口から出た言葉に、自分で驚く。

ログ提出が助かる。そんな世界が来るとは思わなかった。


書記がため息を吐いた。疲れた息。でも少しだけ温度がある。


「君の感覚は危ないほど正しい。……正しいと、狙われる」


アヤメは視線を上げた。


「狙われるのは、もう分かってます」

「分かってるなら、なおさら規定の傘に入れ。傘は冷たいが、雨よりはましだ」


雨よりまし。

冷たいけれど、優しさに近い言葉だった。


仮面が机の上の黒い箱へ手を伸ばす。

箱が開き、細い光が走る。手帳のページが風もないのにめくれ、文字が一枚ずつ写し取られていく。コピー。複製。

書記が言った。


「ログは複製する。原本は返す。ただし、必要箇所は押さえる」


必要箇所。

押さえる。

それもまた冷たい。でも、戻るならいい。


複製が終わると、手帳が机に戻った。

アヤメは手帳を抱えるように手元へ戻す。失った分を取り返したみたいに、指先に血が戻る。


仮面が最後の確認をするように言った。


「質問。トークン断片により何を閲覧した」

「サービス状態、ノードの状態……それだけです。書き込みはしてない」

「閲覧内容の申告は不完全だ」

「……不完全でも、今言えるのはそこまでです」


嘘ではない。

全部を言っていないだけだ。母に繋がる言葉は、心の奥に押し込んだ。


仮面の光が一瞬、鋭くなった。

心臓が跳ねる。


だが仮面は、違う方向へ視線——いや、光を向けた。

壁際の棚。黒い箱のひとつが、微かに点滅している。


「……通知」


仮面が呟く。

書記が顔色を変えた。


「今ここで?」


アヤメの視界の端に、見覚えのない窓が勝手に開いた。READでも監査でもない。もっと深いところから出てくる、薄い白文字。


【Unresolved incident: waterline maintainer ID …】

【Status: flagged】

【Note: “accident” overridden by admin-tier】


息が止まった。

水路整備者。事故。管理者級の上書き。

母の影が、はっきりと輪郭を持つ。

喉の奥が熱くなり、目の裏が痛い。


アヤメは反射で鉛筆を掴み、手帳に殴り書きした。

震える手で、字が歪む。それでも、書く。消える前に。


“未解決:水路整備者ID/事故/管理者級上書き”


次の瞬間、窓が閉じた。

何事もなかったように、白い光が均一な部屋に戻る。

仮面も書記も、その行を見たかどうか分からない。見たとしても、顔色は変わらない。変わらないように作られている。


アヤメは手帳を抱え、喉の奥の震えを押し込めた。

感情は証拠にならない。

でも、ログは証拠になる。


仮面が告げる。


「聴取は終了。観測登録を実施。次の現場同行は本日中に通知する」

「……はい」


書記のエドが、最後に小さく言った。


「君が見た一行。今は、声に出すな。声に出した瞬間、規定が動く。動くと、君は守られもするが、縛られもする」

「……分かりました」


分かる。分かりたくないほど分かる。

だから、手帳の中へしまう。声ではなく、紙に。


扉が開き、夜明けの空気が流れ込んだ。

外は薄い青。街は起き始めている。波の音が遠くで続いている。


アヤメは一歩外へ出て、胸の奥で小さく呟いた。


「……ログ取ろ」


逃げるためじゃない。

今度は、奪われた名前を取り戻すために。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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