第10話:抽出班(エビデンスバッグ)
港門の前の夜気は、冷たいのに重かった。
潮の匂いがするはずの空気が、どこか湿った布のように肺に貼りつく。結界が“完全に戻っていない”と、身体が先に理解している。
ミナト・アヤメは、道具袋の口を押さえたまま足を止めた。
掌の下で、欠片が熱を持っている気がする。熱のせいで、鼓動まで透けて伝わってくるみたいだった。
視界の端に、淡い残り時間が点る。
【Duration remaining: 00:11:58】
【Role: Infrastructure Maintainer (trial)】
【Audit: active】
十一分。
この短さは、猶予じゃない。締切だ。
「来た」
東雲レイが低く言った。彼女の視線の先、港の坂の上に、規則的な影が並んでいる。
石が石を叩く乾いた足音。一定。迷いがない。怒鳴らない。走らない。淡々と“到着する”。
影が街灯のまだらな光の中へ入ってきた。
仮面。黒い外套。揺れない裾。胸元に小さな札のようなものが光り、そこから白い線がいくつも伸びている。縄ではない。鎖でもない。視線の代わりみたいな線だ。
三体。
いや、三体の後ろに、さらに二体。
その二体は肩幅が広く、手が大きい。指先に金具。拘束具の匂いがした。
仮面の先頭が、門前でぴたりと止まり、声を落とした。落としたのに、港中に届く音。
「抽出を実施する。対象:登録済みトークン断片。所持者:Student (night)」
アヤメの背中が冷える。
名指し。逃げ道のない名指し。
次の瞬間、視界に割り込む。
【EXTRACTION NOTICE】
【Surrender token fragment】
【Comply to avoid service restriction】
“協力しないと制限”。
診療所で聞いた言葉が、港門の前で再生される。ここで制限されるのは回復じゃない。港門の結界だ。制限されたら裂け目が広がる。裂け目が広がれば、人も街も飲まれる。
レイが一歩前に出ようとした。
アヤメは反射で袖を掴む。
「……役割。あなたは、止める係」
「分かってる」
言いながら、レイは歯を噛んでいる。悔しさと恐怖が混ざった表情。
それでも、止まってくれる。止まれる人間が隣にいるのは、ありがたい。
アヤメは抽出班の前へ、ゆっくり歩いた。
走れば追われる。怯えれば噛みつかれる。
市場でも港でも、相手が“規則”なら、こちらも“規則”で殴るしかない。
「提案があります」
声が思ったより落ち着いて出た。
自分でも驚く。怖いのに、言葉だけは勝手に手順を選ぶ。
仮面が反応した。
「提案は受理する。簡潔に」
「今、結界は完全には塞がっていません。権限衝突の熱点は抑えましたが、封止は失敗しています。ここで抽出を優先すると、結界が不安定化して裂け目が拡がる可能性がある」
仮面は一拍置き、淡々と返す。
「危険評価を提示せよ」
「——提示します」
アヤメは試用ロールの窓を開き、門の右支柱の状態を“読む”。
読んだものを、現場の言葉に落とす。
「右支柱の結び目に熱点が残っています。人が近づくほど負荷が増えて、衝突が再燃します。今は安定の窓が短い。抽出の動作で人が動けば、負荷が跳ねる」
仮面の光が、わずかに強くなった。
「抽出は規定により安全に実施される」
「“安全”の優先は、何ですか」
自分で言って喉が痛む。
でも今は、痛い言葉が必要だ。
「あなたたちの目的は、違反の抑止とエスカレーション防止でしょう。港門が裂けたら、エスカレーションです。……だから、先に封止。次に抽出」
沈黙が一拍。二拍。
抽出班の後方、肩幅の広い個体が一歩だけ前に出た。拘束具の金具が、かち、と鳴る。威圧。だが威圧は人間向けだ。仮面は威圧しない。ただ規定で押す。
先頭の仮面が言う。
「条件提示。封止協力を許可する。制約:試行は監査下、書き込み禁止、接近範囲制限。封止完了後、即時抽出」
「受けます」
即答した。
迷う暇はない。迷えば裂ける。
【Condition accepted】
【Zone: 6m radius from anchor】
【Violation -> immediate restriction】
視界に枠が出た。六メートルの円。そこから出たら違反。
線が見える。境界線。境界線は安心でもあり、檻でもある。
「衛兵!」
アヤメは港門を守る衛兵に叫んだ。
「境界を作って! 六メートル以内は誰も入れない! 荷車は後退! 見物は下げる!」
衛兵たちは戸惑うが、レイが補助するように続けた。
「門前の密度が上がると裂ける! 通路を一本空けて、左右に分散!」
命令の形。現場が動く。
槍が横に伸び、麻縄が引かれ、人の群れが押し返される。怒鳴り声が上がるが、結界の歪みを見た者は恐怖で足が動く。恐怖は時に役に立つ。嫌な役立ち方だけれど。
アヤメは六メートルの円の内側、右支柱へ近づいた。
空気が鳴る。低い唸り。耳の奥が痛い。
視界に帯が走る。
【Barrier anchor: unstable】
【Heat: rising】
【Action: dampen / isolate (limited)】
【Auto-seal: waiting】
“アイソレート”。隔離。
さっきは“緩衝”で抑えた。今は“切り離し”が要る。
アヤメは息を吸い、手順を頭の中で並べる。
・人を離す(負荷を下げる)
・緩衝(熱の上昇を止める)
・隔離(衝突を分ける)
・自動封止を通す
やる。
やるしかない。
「……ダンペン」
指先が熱を持ち、支柱の紋様が鈍く光る。
歪みが一拍だけ収まり、波紋が弱まる。
【Dampen: applied】
【Heat: stabilizing】
【Auto-seal: attempt… failed】
【Cause: conflict persists】
まだ衝突が残っている。
隔離が必要。
アヤメは目を閉じ、試用ロールの“isolate”に意識を向けた。
書き込みじゃない。改変じゃない。今ある衝突を“別の箱”に入れるだけ——そんな感覚がある。
「……アイソレート」
言葉にした瞬間、支柱の紋様の一部が、黒い膜で覆われた。
黒は不吉だ。でも今の黒は“封じる黒”だ。悪い黒と同じ色でも、役割が違う。
視界に白い文字。
【Isolate: created buffer】
【Conflict routed into buffer】
【Auto-seal: attempt…】
港門の空気が、ぎゅっと縮む。
裂け目が細く震え、縫い糸が引かれるみたいに閉じに向かう——
その瞬間、遠くで誰かが叫んだ。
「やめろ! あれは俺の——!」
人の声。機械じゃない。
港門の影から、フードの人影が飛び出した。手に何かを握っている。短い棒。刃ではないが、硬い。殴る気だ。
「抽出班! そいつ——!」
レイが叫び、衛兵が槍を構える。
だが人影は速い。港門の円の縁へ滑り込み、アヤメの方向へ突っ込んできた。
狙いはアヤメじゃない。
道具袋だ。欠片を入れた場所。
アヤメの背中が凍る。
一瞬で分かる。これは“奪う”動きだ。人間の欲の動きだ。
しかし今、手を離せない。
隔離の最中に逃げれば、封止が失敗する。封止が失敗すれば裂ける。裂ければ、奪う以前に街が終わる。
レイが動いた。
“止める係”が、止めに来た。
彼女はアヤメの前に割り込み、腕を広げた。
そして、冷たい声で言った。
「ここから先は入れない」
フードの人影が笑った。
「どけよ。お前は関係ない」
「関係ある。ここが裂けたら、全員関係ある」
次の瞬間、人影が棒を振り上げる。
レイが身を捻り、棒を避ける。避けた勢いで人影の腕を掴み、関節を外側へひねった。
骨の鳴る音はしなかった。
けれど人影が呻き、棒が落ちる。
衛兵が槍の柄で人影の膝を払って倒し、押さえつけた。
「動くな!」
港門の前で、騒ぎが一瞬膨らむ。
騒ぎは密度を生む。密度は負荷を生む。負荷は結界を裂く。
アヤメは歯を噛み、声を張った。
「近づかないで! 今、封止中!」
言葉が通った。
恐怖が通ったのかもしれない。
人が一歩引き、密度が下がる。
その一拍で、結界が——閉じた。
裂け目が糸の終端で結ばれるように、すっと消える。
空気が軽くなる。潮の匂いが戻る。肺が息を吸える。
視界に白。
【Barrier: sealed】
【State: degraded (limited throughput)】
【Auto-seal: success】
【Next: stabilization required】
「……塞がった」
アヤメの膝が笑いそうになる。
でも倒れない。倒れたら奪われる。倒れたら現場が崩れる。
仮面が言った。
「封止を確認。抽出に移行する。トークン断片を提示せよ」
終わった瞬間に来る。
容赦がない。
アヤメは一度だけ目を閉じた。
欲しい。持っていたい。読みたい。母の影へ近づきたい。
でも今ここで拒否したら、結界はまた“安全に制限”される。そうしたら封止が無意味になる。現場は裏切れない。
「……提示します。ただし、手順を守って」
アヤメは道具袋から布包みを取り出した。
欠片が熱い。掌に乗せると、心臓がまた速くなる。
「抽出の手順、証跡を残してください。受領の証明。返還の可否。保管先。——現場が納得できる形で」
仮面が一拍置いて答えた。
「証跡は規定により発行される」
背後の小型個体が箱を開ける。
中から白い袋が出てきた。布ではない。紙でもない。薄い膜。口が閉じていて、開けるときだけぱち、と音がする。
視界に出る。
【Evidence bag: issued】
【Seal: one-time】
【Owner: Audit】
——エビデンスバッグ。証拠袋。
「入れろ」
仮面の命令は短い。
アヤメは欠片を袋の口へ滑らせた。
袋が欠片を飲み込み、口が自動で閉じる。ぱち、と乾いた音。封印。
同時に、胸の奥がすっと寒くなった。
欠片と自分を繋いでいた熱が、遠ざかる。
まだ完全に切れた感じはしない。でも、厚いガラス越しになった感覚。
視界に文字。
【Token fragment: extracted (in custody)】
【Receipt: generated】
【Next: hearing scheduled】
小型個体が、薄い札をアヤメの前へ差し出した。
紙ではない。けれど文字が刻まれている。番号、時刻、保管先、封印状態。最低限の“証拠”だ。
アヤメはそれを受け取った。
握る指が震える。悔しいのか、怖いのか、自分でも分からない。両方だ。
その瞬間、袋が小さく光った。
仮面の光が強くなる。何かが“読み出された”。
視界の端に、ほんの一瞬だけ別の行が走る。
他人には見えない、アヤメの中にだけ落ちてくる断片。
【Incident log (partial): waterline maintainer ID …】
【Status: unresolved】
【Note: “accident” flagged by admin-tier override】
“水路整備者”。
“事故”。
“管理者級の上書き”。
喉が詰まった。
確かに、そこに“母に似た言葉”がある。
しかし次の瞬間、行は消えた。袋が封印され、READの窓も閉じた。
アヤメは唇を噛み、札を胸に押し当てた。
失ったわけじゃない。預けた。証拠がある。手順がある。奪われたのではなく、手順で移した——そう自分に言い聞かせる。
抽出班が、押さえられたフードの人影へ向き直った。
「未登録アクセス試行者を検知。拘束し、監査対象に追加する」
衛兵が顔をしかめる。
「こいつを連れていくのか」
「規定により」
人影が笑った。苦い笑い。
「規定、規定……。お前らの規定で、何人死んだ?」
その言葉に、港の空気が一瞬だけ揺れた。
怒りが、形になりかける。
しかし仮面は揺れない。揺れないまま言う。
「死者数は規定の範囲外」
冷たい。
冷たすぎて、逆に怒りを鈍らせる。怒る相手がいない。怒りの矛先が、空に向いてしまう。
アヤメは拳を握りしめた。
今、言い返したら違反になる。
違反になったら、港門が制限される。現場が崩れる。
だから、手帳を開く。
怒りを、ログにする。あとで武器にするために。
“抽出:証拠袋、受領札、聴取予定”
“港門:封止成功、劣化状態”
“発言:規定の範囲外”
書き終えた瞬間、残り時間が点滅した。
【Duration remaining: 00:00:19】
十九秒。
試用ロールが切れる。
アヤメは港門を見た。
結界は見えない。でも空気が軽い。潮の匂いが戻った。裂け目の気配が消えた。
十分だ。今夜の最低限は守った。
【Role: Infrastructure Maintainer (trial) expired】
【Permission: EXEC revoked】
【Audit: active】
視界の輪郭が、少しだけ減った。
線が消える。帯が消える。
世界が“表”に戻る。
胸が空洞になる。
でも、空洞の中に札がある。ログがある。人の手順がある。
そして、母に繋がる言葉の断片が、確かに見えた。
仮面が最後に告げた。
「所持者、聴取に応じよ。場所:監査室。時刻:夜明け。拒否は制限に繋がる」
夜明け。
逃げない。逃げられない。
でも、行くなら行くで、手順は作れる。
レイがアヤメの隣に立った。小さく言う。
「……守れた?」
「守れた。……でも、次が来る」
レイが頷く。
彼女の目はまだ怖がっている。けれど逃げていない。逃げない目が隣にあるのは、やっぱり強い。
港門の向こうで、波が静かに砕けた。
いつもと同じ波の音が、今夜はやけに頼もしく聞こえた。
アヤメは受領札を握り、呟いた。
「……ログ取ろ。夜明けまでに」
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