第四話 放課後シュガーレッスン
放課後のチャイムが鳴った。
教室の机には、二人の影が長く伸びている。
神崎は深呼吸をひとつして、まるで戦いに挑むような顔で言った。
「……始めるわよ。この漢字は――『主が』、ね」
魔宮は眉をひそめる。
「うん、そうだけど……」
神崎はスマホをチラッと見て、真剣な顔で口を開いた。
「……シュガー?」
魔宮は目を見開く。
「ちょっ……砂糖じゃねぇよ! ‘しゅ’、って読むだけだろ!」
神崎は首をかしげ、鉛筆を握り直す。
「じゃあ……これは?」
魔宮は息を整えて、少し大げさに言った。
「……‘主が’は『しゅが』だ! 英語読みとかやめろ、ラードじゃねぇ!」
神崎は少し考え込み、指で紙をトントン叩く。
「……しゅ、しゅ、しゅ……しゅが……?」
魔宮はにっこり笑って頷いた。
「そうだ、正解! ‘シュガー’じゃなくて‘しゅが’!」
神崎は目を輝かせ、満面の笑みで鉛筆を握り直す。
「なるほど! やっと覚えられそう!」
「次はこれ。『憐れみ』は“あわれみ”って読むんだ」
「……あ、あわれみ、か。わかった」
神崎は鉛筆を走らせる。真剣そのものだ。
「じゃあ、これをな、ちゃんと声に出して読んでみろ」
「うん。『憐れみ』――あわれみっ」
――その頃、廊下の角でうろうろしていた同学年が耳をピクッとさせ、窓越しにこちらを覗いていた。
「おいなんで神崎と魔宮が二人でいるんだよてか今のなんて言った?」
「わからないが今さっきから二人、めっちゃ真面目に何か唱えてるぞ」
「いや、でもさっき魔宮が『教えてやる』って言ってなかったか?」
小声の断片が繋がり、廊下の噂は勝手に補完されていく。
A「教えてやる――」
B「教えてやる、ってことは」
A「教えてやる……教えてやる……」
C(誇張を込めて)「教えてやる…教えてやる……教えてやる――って、ここで“やる”ってことはつまり……?」
「教えてやる → やる → やっちまう → 殺すってことじゃね?」
「うわ! 学園内で殺害計画!?」窓越しに見える人数がみるみる増えていく。最終的に、教室前は野次馬の群れだ。しかも全員、口では「見てはいけないものを目撃している感」を醸し出している。
神崎は気づかずペン先を走らせる。俺は薄ら笑いを浮かべつつ窓の方を見た。
「……おい、どういうことになってるんだ?」と俺が小声で言うと、神崎は顔を上げる。
「え、なに?」
「外、めっちゃ見られてるぞ」
そのとき、窓の向こうで最も声のデカい野次馬が雄叫びを上げた。
「よーし! 証拠だ! 魔宮が『教えてやる』って言ってる! あいつ、やっぱり黒幕だ!」
「待て、黒幕って何だよ!」
「黒幕=悪役だろ! 悪役は殺すんだよ! ってことは――」
教室の外で起きているのは、断片の寄せ集めによる即興コントだった。聞いたことのない単語まで付け足され、最終的に「学園全体が危機に瀕している」レベルの騒ぎになっている。
俺は観念して立ち上がる。「いいか、俺たちはただ漢字を教えてるだけだ。殺すとか陰謀とか、一ミリも関係ない」と言うと、野次馬たちは「なんだ」と言いながら徐々に散っていった。
神崎は小さく眉を寄せ、こちらをちらりと見た。顔には、なんとも言えない薄い笑みが浮かんでいる。
「……ほんと、あなたって話を大きくするの、得意よね」
魔宮は「うるせー」といい教室の窓をちらりと見た。外の野次馬たちはまだざわついていたが、少しずつ散り始めている。
その視線の端に、ふと神崎の姿が目に入った。
いつもはシスター服しか見ていなかったから気づかなかったが、制服姿の神崎はどこか新鮮で、また違った可愛さを放っていた。
柔らかく肩にかかる髪、少し大きめのリボン、そして普段よりも少しはにかんだ表情――
魔宮は思わず微笑んでしまう。
「……制服も意外と似合うな」
神崎はペンを握り直し、ちらりと魔宮を見た。
「えっ……何か言った?」
魔宮はすぐに顔をそむけ、少し赤くなる。
「いや、別に……ただ、教えてやるのが楽しいなって……」
教室には再び静かな放課後の空気が戻った。
窓の外の騒ぎもすっかり収まり、魔宮と神崎は二人だけの漢字講座を再開するのだった。
「……終わったー!」
神崎が満面の笑みで鉛筆を置き、勢いよく手を挙げた。
「お疲れ様」と魔宮は微笑みながら、机の上に置かれたジュースを手渡す。
神崎はそれを受け取り、ほっと一息。
「……ありがとう、助かったわ〜」
魔宮はふと疑問に思ったことを口にした。
「なあ、なんでお前、漢字読めないんだ?」
神崎は少し照れたように肩をすくめる。
「私、今年からこの学校に入学した帰国子女だから……漢字はまだ慣れてなくて」
魔宮は目を見開く。
「……じゃあ、その金髪も、まさか地毛なのか?」
神崎はにこりと頷いた。
「そうだよ」
魔宮は思わず納得の息をついた。
漢字の読み方、金髪――今まで抱いていた神崎に関する色々な疑問が、すっと解けていく。
次の日、俺は神崎の様子を見に教会へ向かった。
漢字は完璧に覚えたらしいが、神崎の雰囲気はいつもと少し違う――なんというか、少し誇らしげで、でもどこか照れくさそうだ。
席に座ると、ちょうど隣に神父が座った。
「神崎さん、君、いつもと表情も雰囲気も違うね……果たして、何かあったのかな?」
魔宮はにっこり笑って答えた。
「彼女の中にある悩みを、一つ解決しただけですよ」
すると、シスターたちが集まり始め、聖歌を歌うために整列していく。
神崎も、その列の中に混じっていた。
周りの生徒たちは思わずざわつく。
「え、神崎ってあの金髪の……?」
「まさか、あの子、歌うの?」
小声のささやきが廊下に微妙に広がっていく。
それでも神崎は堂々と、凛とした姿勢で並んでいた。
周りの目を気にせず、ただ自分のやるべきことに集中している――こういうときの神崎は、本当に“強い”。俺はそれを知っていた。
――そして、聖歌が流れ始める。
みんなが声を揃えて歌い出す中、神崎も歌い始めた。
しかし――あれ?
神崎の声が、完全に音痴だ。
「あ、あれ……?」
俺の心の中の声が漏れそうになる。
周りのシスターたちも、最初は声を揃えていたはずなのに、神崎の独特の音痴につられて微妙に音程がズレていく。まるで合唱団の全員が一瞬、パニックに陥ったかのようだ。
ただ、神崎だけは目を閉じ、顔を少し赤らめながらも――実に気持ちよさそうに歌っている。
その姿は何よりも、いつもとは違う素直さがあって、どこか可愛らしい。
聖歌が終わると、神父は満面の笑みで拍手をした。
「うむ、素晴らしい! 神崎さん、心から歌を楽しんでいるのが伝わるよ!」
神崎はちょっと照れくさそうに笑い、俺も思わず笑みを浮かべた。聖歌が終わり、魔宮は静かに教会を出た。
廊下に出ると、夕暮れの柔らかい光が差し込んでいる。
「……あーあ、結局シスターの部員、見つからねーな……」
ちょっと待ちなさいよ――
後ろから、神崎の声が追いかけてきた。
「神崎、お疲れ。良かったぞ、聖歌は音痴だったけどな〜」
「うるさいわね」
神崎は顔を横に向け、少し赤らめながら続ける。
「漢字、教えてくれてありがとう……」
その予想外に素直な言葉に、魔宮も思わず顔が赤くなる。
「べ、別に……おれはただ聖心部の活動を手伝っただけだし……」
「まあ、問題解決ってことで、これからも頑張れよ」
魔宮がそう言って背を向け立ち去ろうとした。
そのとき――
「まだ話、終わってないわよ」
魔宮が振り向くと、神崎は少し照れくさそうに言った。
「私も、聖心部に入る――」
「ほんとかよ……」
予想外の言葉に、魔宮は思わず笑みがこぼれる。
神崎は微笑み、肩の力を抜きながら付け加えた。
「どうせあそこにいても、また浮いちゃうのは変わらないしね……」
夕暮れの光が廊下をオレンジ色に染める中、その笑顔には、最初に見た冷たい表情とは違う、ほんの少しの素直さが垣間見えた。
……まあ、手に負えないやつだ。間違いなく、俺の手の届く範囲じゃない。
でも――たまには、こういう瞬間があってもいいか。




