#07 シュワルツの不等式とそのエレガントな証明たち
キリスト紀元(西暦)1571年10月2日
シチリア島イミグレ審査待ち中。
ガレオン船を着岸させたのはシチリアの基幹都市パレルモではなくメッシーナだった。
この決定に天彦の関与はない。すべてはアイモーネ=マリピエロの意思によるものだった。
メッシーナはシチリア島の北東部に位置し、イタリア半島のブーツの先端に最も近い場所に位置するシチリア第二の港湾都市で、ファッションや食といった時代の流行を牽引する先端都市でもある。
おそらく厳しいと噂されるイミグレ審査の中でも比較的マシという理由で選ばれたのだろうが、それでもかなりシビアそう。
天彦たちの乗る小型ガレーはまだマシな部類。船籍不明の民間船などはそれこそ船底をひっくり返される勢いで検閲されていた。
代表として交渉を受け持ったアイモーネ下船の今、事情が掴めていない船内の雰囲気はとても重苦しい。
おまけに眼下では鎖に繋がれた何らかの違反者や違反さえしていないと抗弁している者たちが大量に、港湾職員らしき兵士に問答無用に連行されているのだから不安感は更に増す。
そしてイミグレに時間を要しているのも偏に、天彦たち異国の貴種に対する処遇に苦慮しているためと思われた。
つまりアイモーネが強硬に抵抗しているものと推測される。
おそらく彼は推定仏教徒であろう天彦主従を気遣い、それを察するイミグレ職員も誰何ができない状況に陥り、この無駄に長い待機時間が演出されているものと思われた。絶対そう。
その苛立ちもあって特に是知などは露骨に嫌悪感を浮かべている。
が、いよいよ堪忍袋の緒が切れたのか頃合いとみたのか。
さささっと膝を擦り寄せ天彦ににじり寄った。
「殿、申し上げたき儀がございまする」
「いややろ」
「あ、いや、それは……」
「冗談や、申せ」
「はっ。御無礼仕りまする。異国とは申せ、殿ほどの貴種様をお待たせするなど、あまりに非礼、無作法ではござりませぬか。ここは某が参り――」
「是知、ハウス」
「はう」
ハウスの意味は文脈で察する是知はやはりお利巧さんのお馬鹿さん。
だが是知は大いに勘違いしている。
菊亭などこのイミグレの管理者からすれば吹けば飛ぶようなミジンコであるということを。
事実はさて措き、少なくとも彼らの認識ではゴミ以下認識に相違ないはず。
天彦の処遇に苦慮しているのは、単に天彦が利益をもたらすだろう黄金の国ジパングの特使を自称しているから、に他ならない。知らんけど。
普通に考えればその通りのはずなのだ。何しろ彼らイミグレ職員のボス、あるいは大ボスは太陽の沈まない帝国の大王なのだから。
故に直感的に察知しているのだろう。天彦は涼しい顔で待ち惚けている。
ゴミに対しては慎重な扱いであることと、何よりこの執拗とも思える検閲が純然たる租税回避犯の検挙やご禁制品検査などではなく、もっと狭隘的で偏狭的な思想に基づいた検査であることを知っているから。
「狂信者なんか、実体を持った呪霊やろ」
具体性には言及せず、過ぎたるは及ばざるが如しを口汚く皮肉って、さて。
大前提、命よりも圧倒的に大切なものがなければ公家の当主などやっていられないとして。
けれどそれは自分を可愛がらないこととは違くて、然りとて甘やかすこととはまったく違う。
そんな曖昧な感覚を絶妙な塩梅で、自分を盲目的に慕う家来たちの手綱を上手く操ってやらなければならないのだ。
故に強弁する。当主などいっこも旨味ないで、と。
天彦が渋彦にメタモルフォーゼしていると、袖をつんつん。
公卿の主君を完全に舐め腐っている自称、一の御家来さんが意識を無理やり引き戻してきた。
「若とのさん、なんやえらい長いこと検査されるんですね」
「それは腹の虫が鳴っているという暗喩なんか」
「暗喩て、そんなまどろっこしい。直接お腹が空いたと申してますやん」
「申してへんけど。まあええさんや。もう少し待ち。身共がちゃちゃっと片付けたるから」
「はい」
「ところでお雪ちゃん、お前さんはいざとなったら十字架を付けてデウスに祈りを捧げられるか」
天彦の突拍子もない問いに、けれど雪之丞は逡巡する素振りさえ見せずに即答した。
「必要なんやったらなんぼでも。十字架ってあれですやろ、ラウラやルカがこそっと胸に抱いてるやつ」
「そや。クルルもメガテンも付けてるやつや」
「はい。全然抵抗ありませんわ。でもお団子さんは食べさせてくださいね。曲がりなりにも仏さんに背を向けるんですから」
らしい。
彼にはすでに450年先のダイバーシティが備わっているようだった。
ならば心配無用。
最も危惧していた人物がこの調子なら、他は気に留める必要性はない。
何しろクルルとメガテンはそもそも切支丹だし、是知と佐吉はこの調子なのだから。
「殿……」
「……殿」
「お殿様、かっこいい!」
「お殿様、素敵です」
いややろ。
終始ずっとこの調子。
悪巧みのほんの一端を匂わせただけで、是知を始めとして佐吉もクルルもメガテンも、天彦に対して何か得体の知れないバイアスフィルターを張ってしまっているようで、瞳をうるうる、ただでさえ真っ直ぐだった視線に輪をかけて生温かい感情をぶつけてくるからしんどいったら……。
悪巧みの一端とはズバリ、“神は言ったの巻”である。
むろん天彦の神とは帝、主上を措いて他にない。
主上は仰せになった。藤原朝臣天彦、よきに計らえ。と。
目下空位のはずの帝が仰せになられたのだ。
ピコちゃん、外交特権を自由に行使していいからね。と。
ほんとうか。本当である。
だって天彦の手元には帝直筆の認可状があるんだもの(棒)
花押を真似るのはお手の物。では落款は。
「へへへ」
「にんにん」
らしい。
神をも欺くこの所業。命知らずにも程があるこの悪巧みだが、天彦はまったく悪びれもせず大威張り。
追認を勝ち取る自信が120あった。
まさに確信犯。だが天彦の政治的、思想的、宗教的確信に基づく行為など皆無なので、言い換えるなら故意犯なのか。
いずれにせよ、でなければ天彦に外交特使など任せてはいけない。それは絶対。
任せていないも通らない。それは詭弁以外の何物でもない。でなければ天彦はあまりに自分が憐れすぎてキレ散らかす自信がある。
故に仮に東宮殿下がそのお心算でないのなら、それはもうお仕舞いの話。お仕舞いの話の仮定をしても意味がない。
お得意の論理と思想を積み重ねてひねり出したQ.E.Dメソッドでオチを付けたところで、いずれにせよ自由裁量権は天彦の手の中にあった。文句はでない。今のところ。
「そんなんやから宮さんも、若とのさん遠ざけはったんと違いますやろか」
「核心なんかいらんねん。お雪ちゃんは黙って」
「ご自分はいっつも厭なこと申さはるくせに」
「口答え!」
「はいはい」
二遍ゆー。
デイリーいちゃいちゃもそこそこに、けれど、悪巧みを実行しようにもこう軟禁されていたのでは埒が明かない。
「身共は参るで」
「御供致しまする」
言葉にして許可を求めた佐吉と、当然の義務(権利)とばかり脇に置いていた得物に手を添えて立ち上がった是知だったが、
「お二人さん合わせて戦闘力ゴミ以下! 要らんねん雑魚侍は」
「ぐはっ」
「っ――」
事実なので反論の余地はなかった。
と、
「お雪ちゃんさあ」
「な、な、なんですのん」
「なんですのって、もう答え出てもうてるやん」
「し、知りませんけど!」
「声張ってまあ。ええけど、一の家来自称するのんやったら、せめて付いてくる素振りくらい見せたらどないなん」
「え、嫌ですけど。そんな危ないの」
知ってた。
お願いやから足して三で割ってほしい。切実に。
だがいつまでもこんな茶番には付き合っていられない。
天彦は勝手に勘繰って感動しているウザおバカさんたち含む、馬鹿げた狂信的検閲を終わらせるべく、直面している喫緊の大問題を処理するため船外へと足を向けるのだった。
◇
このイミグレを統括する人物とは。
もっと言うならこのメッシーナを、いやシチリア島全土を支配する人物こそフェリペ2世その人であった。
フェリペ2世王にはいくつもの顔があった。顔が一つの人間など存在しないという観点からは至極当たり前なのだが、とにかく多面的な表情を持った人物であった。
その一つに、カトリックの盟主としてのフェリペ2世の顔があった。
「異端者に君臨するぐらいなら命を100度失うほうがよい」と述べたフェリペ2世は、カトリックによる国家統合を最も重視した。
プロテスタントだけでなくユダヤ教徒、モリスコ(キリスト教に改宗したイスラーム教徒)の動きは厳しく告発され、何度も火刑が行われた。異端審問と共に禁書目録が作られ、エラスムスの書物も発禁とされた。
フェリペ2世は、自らカトリック世界の最高の保護者たらんとして領内のカトリック以外の宗派には厳しい弾圧を加えた。
当時ヨーロッパでは旧教と新教の両派による激しい宗教戦争が展開されており、フランスでもユグノー戦争の最中の1572年にサンバルテルミの虐殺が起こって、多数の新教徒が殺害された。
その知らせを聴いたフェリペ2世はそれまで笑ったことのない冷酷な男だったが、生まれて初めて笑ったと伝えられる。
そのともすると狂信的な表情が一つ。そしてもう一つは1556年の即位と同時に膨大な借金(総額3,600万ドゥカート、これに年間100万ドゥカートの利子が付く)も受け継ぎ、翌1557年に最初の破産宣告(国庫支払い停止宣言:バンカロータ)をせざるを得なかった、借金大王の顔である。
在位中にこれを含め4回のバンカロータを行っており、フェリペ2世の時代の厳しい国庫事情が窺える。
つまり天彦と境遇が非常に似通っていて、その内なる心情が手に取るように伝わるのだ。
そしてかと思えば、ここから時を早めること八年先、日本から来た天正遣欧少年使節を非常に厚くもてなし歓待している。
そこで示した愛想のよさや快活な振る舞いは、普段の厳かで抑制的な態度と異なり周囲を驚かせたと伝え聞く。
これは即ち、
「若とのさん、それってまんま織田さんですやん」
「……たしかに魔王様ととても似ているような」
「はっ、たしかに織田様に似ておりまする」
「そっくりじゃん」
「似すぎてて笑う」
そう。
イツメンたちの総意にあるように、フェリペ2世の志向性は織田弾正忠魔王信長のそれに非常に酷似していたのだった。
但し天彦の所感と菊亭イツメン衆の雑感では。
自身の信念のためならいくらでも残忍になれ残虐行為も辞さず、けれど新しい者には敏感でときに寛容さも見せる。
けれど基本は正義感の人であり真面目で仲間思い。少し神経質でけれど人間性豊かで憎めない。
まんま魔王とプロファイリングが同じなのだ。フェリペ2世王という人物は。
「身共が口説けん理由ある? 気に入られへんマイナス材料ある?」
お、……おお――!
天彦は五つ分の間と、五つ分の鍵括弧に入った感嘆の“おお”と、そして末尾に付けられた同意を意味する五つ分のビックリマークに気をよくして、
おほ、おほほほほほほほ――
実に珍しいお公家笑いを高らかにあげるのだった。
扇子もいつもより余分に扇いで勝利の確信を誇張して。
「ほな改めて参ろうさん」
「はっ」
半ば勝ち誇り、非常に大変とても気をよくして、おそらくアイモーネが苦闘しているだろうイミグレ詰め所へと真っ直ぐに向かうのだった。
「待て!」
浮かれ気分を秒でぶち壊す、耳障りな酒焼けのだみ声に行く手を阻まれるまでは。
「待てと言ったぞ、そこの黄色い小サルども――ッ! 揃いも揃って薄汚い形をしおって、貴様らいったい誰の許可を得て王の土地に足を踏み入れるのか」
だる。
しんど。
やれやれ。
天彦は今にも斬りかからんとする佐吉と是知を視線で制し、自分は自分でたっぷりと間を取って荒ぶる感情に整理を付けてさて。
行く手に立ちふさがった、やはり呼吸にかなりの酒精が混じっている、大は小をカーネルサンダースを地で行きそうな白人兵士に面と向かった。
「どうせなら狐で。でっかいだけしか誇ることがなさそうな巨人さん」
「何を」
だが今後絶対に起こり得ただろう問題でありいずれ正面から向き合わなければならない問題が、さっそく表面化してくれたことに天彦は、腹立たしさとはまた別に、存外厭な気分にはなっていないようだった。
【文中補足】
1、フェリペ2世(スペイン絶対王政全盛期の王・スペイン=ハプスブルク家初代当主)
フェリペ2世の父のカルロス1世(カール5世)は「遍歴の国王」といわれ、スペインに留まらず広大な神聖ローマ帝国領の各地を移動していたが、フェリペ2世はほとんどスペインから離れず、カステーリャ語しか話さなかった。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)は1556年皇帝位を退くにあたり、広大なハプスブルク帝国の支配、管理は困難と考え帝国を分割、その子フェリペ2世にスペイン、ネーデルラント、南イタリアなどを統治させた。これがハプスブルク家の分裂であり、フェリペの子孫の家系をスペイン=ハプスブルク家という。
その本国であるスペインは1561年に都をマドリードに定め、16世紀に「太陽の沈まぬ国」と言われた全盛期を迎えた。
1561年に宮廷をマドリードに定め、63年から王宮・修道院・墓所を兼ねたエル・エスコリアルを建設した(84年に完成)。
「この樹木のない山腹から、余は2インチの紙片で世界の半分を統治している」と自ら語ったように、彼はここで当時としては最大級に整備された行政機構の頂点に立ち“日の沈むことなき”広大な領土から送られてくる書類の山に相対する毎日を送った(書類の数は月に1000通、「勤務時間」はしばしば14時間に達したという)。この様子はフェリペ2世を人は「書類王」とも「慎重王」とも称したという。
2、ロザリオ
カトリック教会において聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)を繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具、およびその祈りのこと。
形状としては、小さなものは10個の珠と十字架だけというシンプルなもの、大きなものでは十字架だけでなくキリストの像や不思議のメダイが付いているものもある。
3、バンカロータ
破産宣告。この場合は国家の財政破綻を意味する。
4、副題
コサイン類似ベクトル。