#06 共通フォーマットと泉の妖精システムと
キリスト紀元(西暦)1571年10月朔日
彼是十日ほど前、キプロス島脱出を決断した後も、やはり後ろ髪を引かれたのか退避を渋ったアイモーネだったが、思わぬところから背を押され今に至る。
アイモーネ=マリピエロに決意させ、退避用の船の段取りに取り掛からせたのは、見た目天彦らと体格に大差のないショタ従者くんだった。
「御主人、どうせ失う命です。この得体の知れない御方に命運を託すのも一興にはございませんか」
「助かりたくて必至か、ニコ」
「何を仰せになられます。このニコラ、いざとなれば御主人の安否などに目もくれず単身逃走してみせますよ。軽く見ないでいただきたい」
「むしろ借金が帳消しになって万々歳ってか」
「あははは。まさかそんな」
嘯く従者ニコラに、アイモーネは渾身のジト目を向ける。
「あははは。ニコラ(勝利の人由来の名)が見限るんや。それはキプロスも陥落するやろ」
「お上手です、マーキス」
わははははは、あははははは――!
天彦と雪之丞は空気を読まずに大笑い。天彦はこの実に冷めたニコラの感じが無性にツボだった。
菊亭イツメン衆からは悲喜こもごもの感情が込められた笑いが巻き起こって出航の準備に取り掛かって今に至る。
八日目の目下、天彦らは海の上の人。
十人漕ぎの小型ガレー船に乗り込んでのプチ大冒険中の最中である。
「着いたら絶対にお団子、お腹いっぱいたらふく食べさせてくださいね!」
「重複は感心せんな」
「細かいことはどうでもええんです。食べさせてくださいね!」
「夢を語るのはいいこと」
「お約束ですからね、食べさせてくださいね!」
「あったらたんとお食べ」
「くださいね!」
元気いっぱいもええこと。けれどまあ無理やろ。
キプロス島からヴェネツィア共和国へと向かうルートは幾つかあるが、東側大陸部はオスマン帝国領なので論外。
現実的なルート選択として挙げられるがA南ルート・アフリカ大陸横断ルートと、B西進行ルートである海洋航行ルートの二種類だった。
キプロス島の位置関係
「Bで」
こうして鶴の一声でBルートが選択された。
菊亭一行はアイモーネ=マリピエロとその従者ニコラの案内で船上の人となっていた。
本来ならギリシャ(ビザンツ)帝国領カルパトス島あたりで補給を兼ねた休息を挟みたいところだが、そんな悠長なことは言っていられない。
何しろこの時代、ギリシャはオスマン帝国の完全支配下にある。目まぐるしく塗り替えられる版図を正しく理解していなければ、この陸続きのヨーロッパは渡り歩けない。
故に天彦たちは強行軍でイタリア半島南端にあるシチリア島を目指していた。
アイモーネが調達してきたフスタと呼ばれる小型ガレー船に乗り込み、距離にして1,697キロ、平均10.0ノット/12H稼働としてもおよそ9日間の過酷な船旅であった。
「お星さま奇麗ですね」
「そやな」
「若とのさんは、なんや感動薄いですね」
「そういうお雪ちゃんは、もうずっと五月蠅いやん」
「だってこの夜空と海とが遠く日ノ本と繋がっていると思うと、なんや妙に不思議な感覚に見舞われてしまうんですもの」
「淋しいんか」
「いいえ。ぜんぜんまったく。むしろ清々してますわ」
「お雪ちゃんはほんま、どこでも適応できるな」
「そらもう。若かりしころの若とのさんには散々鍛えられてきましたから」
「誰で鍛えられとんねん。お前さんのご主君は栄えある太政府の権大納言さんであるぞ」
「その御役職、お腹の足しになりましたか」
「上手い! そや。貧乏に貴賤はない。貧乏は雅といっしょ。心と体で楽しむもんや」
「はい。もう二度と堪忍ですけど」
激しく同意。
天彦は過去を懐かしみつつも、思考を本題に引き戻す。
「是知、佐吉も」
「はっ、常に御傍にございまする」
「はっ、ここにございまする」
「にん」
「にん」
丁度いい。呼ばずとも寄ってきたクルルとメガテンを加えて簡単なブリーフィングを始めようとした。すると、
「私もよろしいかな」
「ふふ、ええ勘所や」
「では同席させていただきます」
「ん」
勝負勘が働いたのか嗅覚を利かせてやってきたアイモーネ主従も交えて、天彦は簡単なブリーフィングを始めた。
「ええかお前さんら。策とはこうして練り、悪事とはこうして企むもんなんやで。その前に、これから向かう先にある島国の概略を話して訊かせたろ」
なぜBルートを選択させたのか。それはもちろん意味あってのこと。
シチリア島のイスラム勢力による支配は5世紀にも及んだ。
但しイスラムによって支配されていた時代に新たな農業がもたらされ、経済も発展し、とくにパレルモにおいてローマ文化とイスラム文化の融合した独自の文化が形成されたという側面もある。
イスラム教徒がシチリア島にもたらしたのは潅漑農業であった。
パレルモ周辺の畑には水路がひかれ水辺にはペルシア葦やパピルスが栽培され、潅漑技術はペルシア起源の高度なサイフォン技術に支えられていた。
イスラム教徒はこの潅漑農業とともに、それまでヨーロッパではほとんど知られていなかったレモン・ダイダイ・綿・桑・ナツメヤシ・ウルシ・ピスタチオ・パピルス・メロン・稲・サトウキビなどをもたらした。
また絹づくりのための蚕も導入された。このような緑豊かなシチリア島の景観は13世紀にイスラム教徒がいなくなっても維持された。
こうして発展を遂げたシチリアの最大交易都市パレルモからは様々な品が輸出された。中でもシチリアの特産となったのは絹だった。
シチリア絹、シラクサ絹などのブランド品とラーシンと呼ばれる安価な絹が、パレルモの港から盛んに東方にもたらされた。その他ターバン・衣服・女性のフード・絨毯などが輸出された。
15世紀には本国のアラゴンとこのシチリアを支配したアラゴン王家が次第に有力となりサルデーニャ島を領有。さらに1442年にはナポリ王国を併合した。
ここで再びシチリアと南イタリアの双方を支配する国家が成立し、このとき正式に両シチリア王国と称した。
1479年にはスペイン本土のアラゴン王国とカスティリヤ王国が合併してスペイン王国が成立すると、シチリアもスペイン王国に組み込まれ、地中海の海洋帝国の一部となった。
ここまで語って天彦はにやりとする。
その凄味のあるいい(悪い)笑顔は、騎士としてかなりの修羅場をくぐってきたであろうアイモーネでさえ、怖気を隠せないほどの凄惨具合いだった。
天彦が特に何かを意図したり、演出したりしたわけでもないのに。
「なんや」
「……あ、いえ、なにも」
天彦はアイモーネの態度に憮然とするが、慣れっこだった。
世界が変わっても天彦に対する反応は共通言語で返されるという、ただの証明に過ぎなかった。嘆き!
慣れてはいるが感情は別物。天彦は不快感を隠さず淡々とつづける。
「ええか。この悪巧みはこっからが肝や」
1494年フランスヴァロワ朝のシャルル8世がナポリ王位の継承権を主張してイタリアに侵攻したことからイタリア戦争が始まった。
1516年スペイン王位はハプスブルク家のカルロス1世(後に神聖ローマ皇帝カール5世)が継承し、シチリアを含む南イタリアはハプスブルク家に支配されることとなる。
ようやく1559年カトー=カンブレジ条約で講和が成立。それによってイタリアにおけるフランスの勢力はほぼ一掃されスペイン=ハプスブルク家のフェリペ2世がシチリアも統治した。
こうしてシチリアを含む南イタリアにはスペイン人総督が置かれ、スペインの植民地支配が17世紀まで続くこととなる。
天彦は未来予知をぼんやりと伏せて、起こった事実だけを語って聞かせた。
「な。わかったやろ」
…………。
沈黙での応答は“ぜ ん ぜ ん わ か り ま せ ん!“この場の全員の総意を現わす。
むろんヨーロッパなのでレシピの副題は長い。さしずめこの沈黙は、“文字間には理解不能を誇張した半角スペースと末尾には七つの感嘆符を付けて”となるのだろう。
と、懸命に思案する者や、すでに思考を諦めた者、そもそも端から思考する気などない者の中から、知者がひとり恐る恐る挙手した。
「はい」
「ん、叡智くん。答えてみなさい」
「は、ははっ。畏れ多くも畏くも、我が愚考を申し上げますることお許し願い奉りまする」
「前置き要らんねん、だるい。疾く申さんかい」
「はっ。御無礼仕りましてございまする。……殿はまさか、伴天連の帝国艦隊とやらを動かすお心算では。既知の間柄であらせられる伴天連艦隊提督の威光を駆って……」
「さすが我が菊亭が誇る最高叡智くんや。そやで。身共は借りっぱなしは性に合わん。それと同じくらい貸しっぱなしも嫌いねん」
きっちり利子つけて回収したりましょ。
ぽかーん。
薄っすらとだがぎりぎり回答に辿り着いた是知を筆頭に、食い入るように会話を傾聴していたアイモーネも、クルルもメガテンも、そして鼻くそをほじって手持無沙汰を誇張して表現していた雪之丞でさえ、目を見開き口を開いて唖然とした。
興が乗り始めた天彦は、付いてこれない者は置き去りとばかり早口でまくし立てる。
「ほんでここや。攻略の糸口はここを措いて他にはなし。身共はここを叩く心算や」
「……マーキス、貴方は」
「何を呑気な顔をしている」
「呆れているんだよ、ピコ」
「ほな魂消んかい。アイモーネ、お前さんがこの職を分捕るんやで」
「なっ……!?」
「そう、それでええさん。くく、ふふふ」
図解1 ヴェネツィア権力機構解説図
天彦はまるで納得のいっていない顔のアイモーネを放置し、予め作成していたのだろう簡単な図解を提示すると“ここや”といってサン・マルコ財務官の職を指し示した。
「ええかお前さんら。事にあたれば思い返せ。民草には飴を。貴族には鞭をくれてやるこの金言を。そしてこの金言こそが今回の悪巧みの肝となる。此度身共は手始めにヴェネツィア貴族に飛び切り特級の大鞭をくれてやる心算や。者共、その心算で応接いたせ」
は、はは――!
わからずとも従えばよい。そうやって彼らの世界は回ってきた。
善きにつけ悪しきにつけよく訓練された菊亭家来衆は、秒より早く主君の下知に従う姿勢を表明するのだった。
「アイモーネ=マリピエロ」
「はい」
「これが大船のお顔さんや。よう覚えとれよ沈みかかった泥船さん」
「……手厳しい。ですがはい。お手並み拝見いたします」
世界が泉の妖精システムを説く以上、アイモーネ=マリピエロには金の斧が与えられなければ辻褄が合わない。
天彦は知り合って僅かだが、このあまりにも潔癖すぎる好青年騎士に、珍しく本気以上の本域で何やら肩入れしているようだった。
【文中補足】
1、ノット(kn、kt)
1ノットは1時間に1海里(1852メートル)進む速さ。
2、ギリシャの政治情勢
ビザンツ時代 330年–1453年 ビザンツ(ギリシャ)帝国。
オスマン時代 1453年–1830年 オスマン帝国統治下。←作中はココ
第一共和政時代 1830年–1832年 ギリシャ独立戦争後、王国成立まで。
ギリシャ王国時代1832年–1924年 列強三国らの決定による。
3、ガレー船の漕ぎ手
中世イタリアの都市国家、特にヴェネツィア共和国においてガレー船の漕ぎ
手は人気のある職業であったが、これは自分に割り当てられた積載スペースを利
用しての交易活動が認められていたためであり、給金以上の利益(副収入)を期待できることによる。
中世やルネサンス以降になると囚人や捕虜を漕ぎ手とする事が多くなる。
ヨーロッパにおける囚人の利用はフランスなどの君主国家でガレー船が量産された17世紀頃に顕著である。
船団(艦隊)の保持を好んだ王の通達で、裁判でガレー船徒刑囚となると判決を下された者が、この時期に非常に多い。
またイスラム圏においてはキリスト教徒の奴隷をこれに充てることも行なわれていた。囚人や捕虜を漕ぎ手とする場合、逃亡や反乱を防止するために漕ぎ手は鎖で手足を拘束されていた。
逆に自由民を漕ぎ手としていた古代ギリシアやヴェネツィアの場合は、場合によっては武器を持って相手方の船に切り込む戦力として期待され、それを果たすこともあった。
図解1出典
オペラの謎 ヴェネチア権力機構 作者 星 編集ページ作成 佐向ともえ より




