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#03 ブルーモーメントエレジー

 





 キリスト紀元(西暦)1571年11月6日






 大前提、会話が真面に通じればそう酷いことにはならない。はず。



 そう、はずだった。


「おいボウズ。この証文、いったいどこから盗んできた」

「村の長老!」

「何をわけのわからないことを」

「いややっぱし村の長老!」

「貴様、優しい顔をしておれば付け上がりおって」


 決定権のある頑固おじさんムーブに対してのツッコミ風ボケは、当たり前だがどんスベリした。


 天彦が取り次ぎを頼んだ警備の人とひと悶着起こしているとそこに、


「待ちなさい。声を荒げてどうなさいましたか」

小番頭アシスタントマネージャー、この子供が――」


 丁度出社のタイミングだったのだろう。比較的身形のいい男だった。

 男は足を止めると入口付近で小競り合いをする自社の警備の男と天彦とを交互に見咎めるとため息交じりにそっと言う。


「何事ですか声を荒げてみっともない。本店の店先ですよ」

「は、申し訳ございません。ですが小番頭アシスタントマネージャー――」

「お黙りなさい。と申し上げましたが」


 今度は完全に警備の男を叱責した。


「っ――、ご無礼をお許しください」

「許します」


 比較的身形のいい小番頭と呼ばれる男はやれやれ顔を浮かべると乗りかかった船と諦めたのか、天彦が責任者(マネージャークラス)に取り次ぎをと頼んだ警備の男からトラブルの原因の聞き取りを始めた。


「……なるほど」


 警備の報告を最後まで聞き届けると一瞬眉間に皺を寄せて険しい表情を作って思案顔を浮かる。


 対する天彦はまずい。本能的に危機を察知していた。すると咄嗟に「Diversum(ちゃうて)!」の言葉が口を突く。


 英語でもイタリア語でもギリシャ語でもなく、流暢なラテン語で。


 もちろん天彦のこと。たまたま偶然などということはけっしてない。いつだって100%意図がありいつだって100%狙ってやった。盛った。100%盛った。

 もちろん脳裏ではこんなシチュエーションを想定はしていたので100%偶然はあり得ないとしても、けれど100%意図しては完全に盛った。


 だがいずれにせよ結果は好転した。絶対に小番頭|(AM)に警備部を召喚し天彦を強制排除しようとしていたはずなののだ。

 だが天彦の流暢なラテン語を耳にした途端、はっとしてアイスブルーの瞳を見張ると今度は一転、天彦を食い入るように注視しはじめて目を細めた。


 そしてふっ。何かを自分の中で納得させる苦笑をひとつ。すると次の瞬間にはまるで取り繕うかのように柔和な表情を浮かべていた。

 商人おそるべし。天彦は直面していた。小番頭|(AM)が塩対応から神対応へと瞬時に切り替えるまさにその瞬間に。


 そんな天彦の内心を知ってか知らずか小番頭|(AM)は膝を折り、天彦と視線を合わせてそっと言う。


「悪いことは言いません。持ち主である御父上の元にお返しして正しい道を歩みなさい。主に仕える迷える子羊よ」

「……まんじ」


 言うと小番頭|(AM)はまるで自らに言い聞かせるかのように何かをつぶやくと虚空で十字を切って首から下げるロザリオにキスをした。


 ←今ココ。


 大番頭|(マネージャーまたはスーパバイザ―)に取り次いでもらえるどころか門前払い。たまたま偶然通りかかった目的の格下、小番頭|(アシスタントマネージャーかエリアマネージャー)クラスに塩対応され今に至る。


「若とのさん、出だしから絶好調ですね」

「嫌味も他人事感もどっちともえぐい」

「え、なんでですの。狙い通り初手で注目集めはったんと違いますの」

「あうん。……むちゃむちゃ惜しい負けやった」

「はい!」


 お雪ちゃんの信頼が辛い。


 ことはさて措き、だが追い返され頭を冷やしてみればなるほど、天彦は一瞬で肝を冷やした。

 この胸から下げたロザリオに命を救われたまであると気づいてしまう。


 天彦は一瞬で切り替える。この風雅を理解しない欧州世界に惜敗などという美辞麗句はないのだと。

 勝利がすべて。辛勝であろうと圧勝であろうと、勝利しなければならないのだと。勝利条件は勝利すること。勝つことだけがすべてだと。

 再度改めて自らに言い聞かせて、少し遅い朝食または少し早いランチをとることに決めた。


「飯呼ばれよか」

「はい! 美味しいおだんご置いたはるお茶屋さんあるといいですねッ」


 期待感のあまり語尾跳ねとるやんけ。……ノーコメントで。


 天彦はそっと目を逸らしつつ、歩を進める。


 だが意外にも町中に食堂は溢れていた。

 竈が持てない関係上か外食産業は思いのほか流行っているようで、開店前にもかかわらず客が列を作っている店も少なくなかった。


 どうやら目当ての食堂を探すのにそう苦労することはなさそうだ。


 気持ち天彦の足取りも軽くなるのだった。






 ◇






 決めたのはありきたりなバカロ(またはバンカロ)。

 バカロとはオステリア(大衆食堂)の店先にあるバンコ(カウンター)でオンブラ(ヴェネツィア弁で言うグラスワインのこと)を立ち飲みできる場所のこと。


 決め手は店開きをしているその一点だった。

 というのもランチにはまだ早かったようであまり開店している店自体が少なかった。

 余談だが当然のようにカフェはまだない。


 天彦は応接を雪之丞に一任した。雪之丞は軒先でテーブルを拭いている女店員に声をかける。


「チャオ」

「チャオ。あらいらっしゃい。ボクたちだけ?」

「はい。不都合でしょうか」

「いいえ。そうね……、奥の席なら空いているわ」

「はい」


 入口付近もすべて空いている。むろん今絶賛お磨き中のテラス席も。

 というより数少ない中でも空いている店を選んで入ったのだから当たり前なのだが……。


「若とのさん。奥や言うたはりますけど」

「しゃーないやろ」

「はい」


 逃げ場がない奥は避けたかった。だがつまりそういうことなのだろう。ならば已む無し。

 比較的いい身形で整えていてかつこれみよがしに大きめのロザリオを首からぶら下げていても辛うじてこの扱い。天彦は失笑をこぼし雪之丞は何食わぬ顔を貫いた。


 だが実に頼もしい。これぞまさしく雪之丞の真骨頂であろう。是知や佐吉では絶対にこうはいかない。ひと悶着どころではない騒ぎを起こすか、味のしない昼食になっていたことだろう。あるいは食事にありつけていたかもかなり怪しい。

 善きにつけ悪しきにつけ彼らは生粋の武士である。言い換えるなら雪之丞は亜種なのだ。


 それはなるほど馬が合うはずだ。彼らの前途は洋々のようである。


「どこが!?」

「え!? なんですの」

「別に」

「べつにて、びっくりしますやん急におっきな声出さはったら。どないしましたん」

「なんも」

「あ」

「あ」


 天彦はふと思う。

 是知と佐吉には辛い洗礼が待ちきっと受けていることだろうと。彼らは今日一日、真面な食事にはありつけないだろうことを。

 メタの四段階レベル中(予想>予測>予見>予知)の最も確信的な予想レベルで天彦は確信する。


 帰ったら今夜は甘やかしたろ。


 それでも言いつけを守り二人は震えながら屈辱を受け止めるのだろう。そして人知れず歯を食いしばってひとり涙するのだ。雪辱を晴らすそのときを思い固く誓って。

 それが武士もののふであり長野是知と石田佐吉という人物の為人のすべて。


 天彦が愛する家来に思いを馳せていると、入店対応してくれた女が申し訳なさそうな顔をして注文を取りに来た。


 天彦はアイコンタクトで雪之丞に引きつづきの応対を任せた。

 天彦はまだいろいろと手探りの段階だった。


「すまないね。大したものは作れないけどリクエストはあるかい」

「お構いなく。おすすめをください」

「だったらチケッティだね。家のは絶品さ」

「はい。ではそれを」

「はいよ」


 とくとくとく。ワインが木杯に注がれる。


 二人は恐る恐る木杯に口をつける。……ギリ飲めるな。


 さて、

 この頃のヴェネツィアには白人種以外の人種もそこそこ見られる数暮らしていた。もちろん奴隷身分以外のだ。

 むろん奴隷のほとんどが黒人種と黄色人種になるのだが、そこは明確に線引きされて認知されている。資産という名の第二人格によって。


 大前提、スペイン帝国は滅びるとして。それも史実よりも相当早くやってくることが予想された。

 具体的には来年あたり。その兆しは道中、各所で随所に散見された。

 スペイン帝国の癌である財政破綻の予兆と、著しい国力の消耗具合いが天彦の目には明らかな形となって覗えたのだ。


 ならばロンバルディア州副知事であらせられるグスマン家の姫様カルラも頼れない。いや頼りにならない。むしろ枷となる公算が高いだろうと天彦は踏む。

 彼女が想像以上の傑物で、本国の支援なく自力でブリテン王国及びフランス王国の脅威を取り除き、広大なロンバルディア州を維持しトップに君臨することが可能ならばその限りではないのだろうけど。そんな但しはあり得ない。


 天彦は断言できた。カルラは生粋の姫である。よってその但しは起こりえないと。

 その能力と為人と性質を計るには十分な期間、彼女とは時を共にしてきたのだ。


 するとメディチ家などはもっと頼りにはならないはず。あるいはフェルナンドがいい意味での期待を大きく裏切って、フランス王国と手を結ばず単独で大陸に覇を唱える存在になったとしても。

 それはむしろ脅威の対象にしかならないはず。故にメディチ家のトスカーナ大公国はたとえ敵であろうと味方であろうと、脅威あるいは除外の対象でしかないのである。


 なぜななら偏にそう遠くない未来グレートブリテン王国イギリスとフランス王国が台頭してくるから。鋼鉄よりも手堅い鉄板の確実に。


 天彦の耳にはその軍靴が大地を踏み鳴らす不協和音が聞こえていた。


 だから天彦は消去法的にヴェネツィア共和国を選んだのだ。むろん総体的に外国人が暮らしやすいという好材料もあるにはあるが、それが決め手ではけっしてない。

 確率的に最も生存確率が高く見積もれ、滅亡から遠い国を選んだまで。そこに好き嫌いの感情が介在する余地はない。


 故に伝手を一旦すべてリセットして、自らの知恵と家来たちの頑張りに賭けてみることにしたのだ。バカみたいに滑稽なほど地道な戦略に務めているのだ。


 確信犯的に。あるいは故意犯的に。


 天彦が漆黒ではないけれど七色でもない青く沈む思考の淵に落ちこもうとしたそのとき、


「訊いた? キプロスが奪われたそうよ」

「心配だわ、ご近所の旦那が徴兵されているの」

「お祈りしましょ」

「神よ」

「ほら見たことかい。異教徒どもはやっぱり停戦を反故にしたよ」

「きっと総督ドージェが踏み潰してくれるわよ」


 給仕たちの会話が聞こえる。


 何気ない女給どうしの話題に上るほど、キプロス島失陥の話題は巷の興味を引きつけていた。


 それもそのはず。市民の多くは神聖同盟(神聖ローマ帝国・フランス王国・ポーランド王国・ハプスブルク朝スペイン帝国・ローマ教皇庁及びキリスト教国)

 に期待を寄せ、オスマンとの戦争をどこか楽観視していた節が窺えたのだ。


 それが蓋を開けてみれば応援どころか結集もされず、祖国は海外領土を失ってしまった。

 ベネツィア共和国民に与えた失意はけっして小さくはなかっただろう。


 これを使わない手はない。天彦は確信的に直感する。

 下(民衆)がこうなのだ。上(貴族)とて蜂の巣をつついたような騒ぎになっていることは請け負いである。


「元老院の切り崩しはこの辺やな」

「はがとのさん」

「これそない頬張って、お下品やでお雪ちゃん」

「むしゃむしゃごきゅん。はい。でもこれさんむちゃんこ美味しいです! もしいらんかったら申してくださいね」


 雪之丞はポレンタと呼ばれるとうもろこしのチケッティをお口いっぱいに頬張ってうまうまを叫んだ。


 それはそれとして。


「どない斬り込も」


 何を差し置いても銭。銭がいる。そしてその銭を生み出す基盤が要る。


 商家にどうやって売り込めばよい。利益を生むレシピはあるが後ろ盾がなければ奪われてお仕舞い。いや奪われるだけで済めばまだましな部類か。最悪は命が危うい。


 平民身分の何と不自由なことか。今更ながら痛感する。


 思考は実質手詰まりの堂々巡りを行ったり来たり。けれど家来たちの手前手ぶらでは帰れない。帰りたい。帰れない。帰りたい。


「……」


 焦る。焦る。焦る。


 気づけば脇汗がえげつない。


 自分の中で観念が規範化し思考が膠着してしまう前に、何かにフルコミットしなければ。

 天彦には珍しく焦りからか食欲が失せていた。


「これもお食べ」

「えいいんですか! はいほな遠慮のう頂戴します。うまー」


 なんと癒される笑顔なことか。


 けれどこの笑顔でさえ100の癒しにはなってくれない。

 久々の弱った彦は、まだ午前にも関わらず青い夕闇に沈み込むようにそっと途方に暮れるのだった。












【文中補足】

 1、diversum ディウェルスム


 2、ヴェネツィア共和国言語

 19世紀の滅亡まで公用語はヴェネト語だがイタリア語も普通に通じた(はず)。

 よって会話は天彦たち(イタリア語)、ヴェネツィア人(ヴェネト語またはイタリア語)となります。

 一応根拠として、1200年~1400にかけて「ラ・クエスチョーネ・デッラ・リングア」が始まります。

 これはどの言語が威信のあるイタリア語になるべきかについて議論していたイタリアの知識人の間で起こった議論である。

 この問題を最初に提起したのはおそらくダンテで「デ・ヴルガリ・エロクエンティア」の中で、半島のためのまとまりのあるユニークな言語的アイデンティティである「リングア・デル・シ」の概念を紹介した。

 彼は威信のあるイタリア語にふさわしいイタリア語は存在せず、むしろ完璧なイタリア語はすべてのイタリア語の一般的な特徴の中に存在するのだと信じていたのだ。――から。


 3、バンカロ

 ヴェネツィアならではの飲食店の業態を指す。 いわゆるオステリア(大衆食堂)の店先にあるバンコ(カウンター)でオンブラ(ヴェネツィア弁で言うグラスワインのこと)を立ち飲みできる場所のこと。

 その名の由来として知られているのは酒の神である「バッコ(バッカス)」からくるものとされている。


 4、チケッティ

 小さくスライスしたパンの上にペーストや魚のマリネなど、バリエーションに富んだ華やかな食材を乗せたおつまみ。


 5、服装

 庶民

 男>市民は膝丈のチュニックにブラカエと呼ばれるゆったりしたパンツ、足元は革の単靴か緩やかな長靴をはいた。

 女>安い毛織の長袖のボディスとスカートやワンピースの上にオーバースカートを着てエプロンを締めていた。

 長袖のボディスの上から袖のないボディスやジャケット風の上着を身に付けている者もいるが、一様に飾り気のない黒いローファーのような靴を履いていた。


 市民

 シュミーズの上にプールポアンとショースを身に着けていた。16世紀半ばごろから流行のオー・ド・ショースとバ・ド・ショースが身に着けられている。

 同じ職人でも靴屋や染物屋や織工など比較的重労働であったり体が汚れやすい職種では、詰め物のないすっきりとしたオー・ド・ショースに、シュミーズ姿。

 毛皮職人や羅紗屋などの職種では、肩を膨らませるなど装飾的なプールポアンに生地をたっぷりとったオー・ド・ショース姿、全身にスリット飾りをいれた洒落た格好が多かったよう。

 このような華やかな格好は宣伝という面もあっただろうが、同じ工房にはやはり質素な服装の職人もいて、美々しい服装は親方などに限られていた。

 髪型はスペイン風に短く刈り込むものが人気であったようだ。比較的余裕のある市民の青年などは、1550年ごろから流行したまっすぐに梳き下げた髪をおかっぱ頭に切りそろえる髪型をしていた。


 服飾参照西欧の服飾 (16世紀) - Wikipedia










 ぜんぜんこれっぽちも伸びませんね。頑張ります。

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