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#12 プライオリティ・パス



 





 キリスト紀元(西暦)1571年10月4日






 東の地平線に朝焼けが顔を覗かせるそんな早朝。頬を撫でるそよ風は心地よい一日を予感させる。


 目の前には鍋がぐつぐつと音をたてカブらしき具材の煮えたよい頃合いを音と香りで報せてくる。

 酸っぱ野菜の何かはいったんどうでもいいとして、スキレットでジュウジュウと香しい音をたてて存在感を誇示している野性味あふれたベーコンと、何かの卵のスクランブルはけっして無視できない主役級の輝きを放って天彦たち菊亭一行の目をくぎ付けにしていた。


「ゆーてる場合か」

「おいコラ、やったな」


 カルラの空気を読まない鋭い指摘に、天彦の視線はおもしろいほど虚空を彷徨う。


 どうにか呼吸を整えて、


「やってるかぁ」

「ほう。そのわりに反論に張りがないな。気持ち視線も揺らいでおる」

「……腹が減ったらこんなもんやろ」

「ならばよいが。ときにピコ、何をとは問わぬのだな。さすが慧眼なことで」



 ……しくった。



 鼻腔をくすぐる猛烈に香しい匂いにたまらず腹の虫がぐうと鳴る。

 それもきっちり主従合わせて6つ分の多重奏で。


「児童虐待!」

「よい声だ。しかし大人扱いせよと言ったのはどこのどなた様だったかな」

「時効ねん」

「我が国には無い概念だな」


 もちろん戦国元亀にもないけれど。それでも天彦は強弁しなければならなかった。

 何しろ事が事。ロンバルディア州副知事とカラブリア州レッジョカラブリア県ラガナーディコムーネを支配する領主貴族一族との正式な合意が交わされたのだ。

 賓客とはいえ契約に立ち会った当事者が合意形成をぶっ千切って奴隷を解放しただなんて、口が裂けても言えなかった。控えめに言って戦争開始待ったなしである。


 だが、


「意図を明かせ。あるのだろう。まさか無いとは申させぬぞ」

「……コストベネフィットねん」

「詳しく」


 コストベネフィットとはむろん費用(コスト)と利益・効果(ベネフィット)を比較する概念であり、プロジェクトや投資の費用対効果を分析する際に用いられる。

 そして金銭的な利益だけでなく、業務効率の向上や売上の増加、移動時間の短縮、心理的な満足感など、お金では測れない便益も含まれる。


 天彦はこの概念を交えて、やんわりとだが己の心が向かう方向性を言って聞かせた。

 要するにもっとえげつない訃報での奪還手段はあったが、相当かなりカルラに配慮して最善を選んだ心算だと言葉を尽くして説明したのだ。


「……このわたしを脅している心算か」

「解釈の不一致って哀しいよね」

「ピコ、ここは間違えられぬ分水嶺ぞ。面倒がらずに詳らかにいたせ」

「ん」


 激しく同意。天彦は再度言葉を尽くした。


 あの領主一族のボンクラ息子の気性。いずれ災いとなろう(史実比)。

 僅か400足らずのラガナーディ村の反乱程度では収まらない、県を、いや州をまたいだ大戦の火種となろう。


 ロンバルディア州とナポリ王国カラブリア州は距離があると侮ることなかれ。

 三方の海をオスマン帝国を筆頭とした外国敵性勢力に占領され、陸路まで閉ざされたのでは八方を閉ざされたのに等しい。


 経済水域の占拠・閉鎖は国家に最大損失を被ることはもちろんだが、市民活動に重篤な被害をもたらすこととなる。とくに海産物を主要なたんぱく源とする地域では壊滅的といっても過言ではない。


 その観点からイタリア半島に巣食うどの勢力も海洋国家といって差し支えなく、どの勢力も海洋貿易と海産物資源にかなり大きく依存していた。


 天彦は自前の地図でじっくりと腰を落として説明した。

 中でもカルラの統治するミラノ公国という国が、地政学的に如何に不利な条件下にある土地柄であるのかを。


 地続きの隣国には1)フィレンツェ共和国、2)教皇領、3)ジェノヴァ共和国、4)神聖ローマ帝国、5)ベネツィア共和国、そして陸続きではないが件の6)ナポリ王国とがある。


 利害が相反、あるいは重複する隣国と犬猿の仲なのはどの世界でも変わらぬ摂理。

 ましてや1)フィレンツェはメディチ家の支配国である。


 2)教皇領(ローマ教皇庁)との関係性は悪くない。カルラのボス(フェリペ2世王)はキリスト教カトリックの庇護者を自負するような熱心なカトリック狂信者なのだから。

 だが教皇領が全幅の信頼を置けるのかと言えば応とは即答できない事情は、カルラに説くまでもないだろう。彼らは原則オニ風見鶏なのである。


 3)ジェノヴァ共和国はこれから黄金期を迎えることとなる。

 ジェノヴァはジェノヴァの銀行とともにスペイン帝国の新参の協力者となって顕著な復興を遂げた。特にセビーリャにある銀行の支店からはスペインの海外遠征への融資が行われた。

 フランスの歴史家フェルナン・ブローデルは1557年から1627年を「ジェノヴァ時代」「非常に慎重で複雑化した支配に、歴史家たちは長い間気づかなかった」と述べたほどジェノヴァは最盛期を迎えることとなるのだ。


 それを相手取るには正攻法では太刀打ちできない。

 むろんフェリペ2世王の寵愛著しいカルラを邪険に扱うほどの阿呆は一人もいないと信じたいところだが、……果たしてそうかな。

 この疑問符が常に付き纏うのが中世終わりか、新世入りたてのこのご時世である。

 何よりカルラは経済とは畑違い。あるいは無頓着。何せ前時代的な脳筋領主なのだから。経済など脳裏に1ミリもないはずで。


「ない」

「知ってた」

「なんだピコ、その顔は」

「ほなカルラ、軍を動かすものはなーんだ」

「命令書」

「あ、うん」


 えぐいて!


 知ってはいたが、えげつなかった。


 銭銭銭銭。


 この世のすべては銭である。敢えて言及するのも野暮な真理。


 気を取り直して、


 だが、


「待て」

「待つ」

「……この精緻な地図はいったいどこで手に入れた」

「ここで」


 天彦が自分の頭を指先でとんとん。二度軽く突くと、カルラの表情により一層の深い影が差し込まれた。


「続けよ」

「ん」


 4)神聖ローマ帝国は120%敵性国家。ここも語るまでもないだろう。むしろ争っていない方が少ないくらいの関係性である。


 5)フィレンツェ共和国だが、スペイン王家(ハプスブルク家)の援助を受けてフィレンツェの支配権を勝ち取ったのがメディチ家である。

 元祖薬屋の成り上がり。

 まるでどこかの美濃のようだが、言い換えるならメディナ・シドニア公であるグスマン家にとっての同門でありそれ以上に宿敵でもあった。取って変わられるという意味では最大級の好敵手ライバル関係家門であろう。


 問題の6)ナポリ王国だが、1504年リヨン条約によってフェルナンド2世がナポリ王を兼ねることが確認された。これによりナポリ王国はスペインに組み込まれることとなり、その後2世紀の間「ナポリ総督管轄区」としてスペインから派遣される総督(副王)が治めた。


 こうして政治的な独立を失い植民地的収奪を受けた南イタリアでは、しばしば反乱が頻発した。たとえば1647年のマザニエッロの反乱などである。


 本来ならハプスブルク家の統治下に入り1556年以後はスペイン・ハプスブルク家に継承されるはずのナポリ王国だが、この世界線ではまだ継承されておらず、王国は健在だった。

 いずれ収束に向かうのか、それとも別路線を進行するのかは天彦にはわからない。だから言えることは一つ。


「四面楚歌ねん。この比喩わかるか」

「……存じている」

「ヴァロワ朝フランス王国とて油断ならん。隙あらばいつでも爪を伸ばしてきおるで」

「むろん承知している」


 カルラは深く考え込んだ。


 あるいはなぜフェリペ2世王がこの時期の波乱に満ちたロンバルディア州に自らを派遣なさったのか。

 そんな考えても詮無いことまで考えこんでしまっているようだった。


 だから天彦は時短を促す。


「期待と欲目。皇帝はすでに状況をご理解なさっておいでやと思う」

「……ひどいぞピコ。だが、……妥当か」


 天彦は目を逸らせない現実をカルラに突き付けた。酷なようだが事実だった。

 そしてカルラの問いかけにはうんともすんとも応じずに、煮えたぎる鍋の湯気をじっと見つめた。

 

 腹ぁ……。


 空いたん。


「端的に、私の勝利期待度はどのくらいある」

「ゼロ」

「色を付けよ」

「いち」

「何段階だ」

「パーセンテージに段階はないん」

「く……ッ」


 生存確率1%を突き付けて、さて。


 だが本家本国スペイン帝国の話はしていない。してもいいが早晩滅びる。すでに破産で詰みかけていることを差し引いてもよもや時間の問題だろう。

 限界まで膨らんだ風船が緩やかにしぼんでいくことがないのと同じで、帝国の最後も派手な破裂の時を迎える。


 この言葉はどれだけ尽くしたところで理解もされないだろうし、されたところでショッキングすぎて真面な応接はされないだろう。故に省く。


 天彦はロンバルディア州ミラノ共和国を統治するカルラのことについてのみ所感を添えて詳細に言及したのだ。


「……だからこそヴェネツィア共和国を、理が非でも取り込めと。その先鋒に貴卿が御自ら名乗り上げ挙手くださると。そう申されますのですね」



 言葉遣いと口調――!



 激しく軽快にツッコミたいところだった。

 けれど、


「故に領主一族所縁であろう農村に楔を打ったのか。こちらはすべてお見通しであるの意を込めて」

「すごっ、知らんかったー」

「なるほど、お姉様が魂消るはず」

「そんなこともあるんか。一説によると、解釈は自由らしいしな」


 カルラのありありと感情の込められた双眸を見てしまうと、軽々に冗句も口にしにくかった。


「……マーキス。いったどの場面で戦の、いや反乱の機運を読み取った」

「偶然。と申したら信じてくれはるやろか」

「ふっ、我が鉄拳が血を欲しておるわ」

「やめとけ! ……キプロスに流れ着いたときや」

「マーキス。……ピコ」

「ん」

「正直に答えてほしい。貴卿、ほんとうに人か」


 ぱっぱのぱっぱのお説教よりよく聞いたセリフである。特段特別なリアクションはしたくない。だが天彦はここぞとばかり粋り散らした。


「身共は存ぜぬ。されど――」



 根っからのお人好し。それだけは確かねん。



「御家来方、スープが善き具合に煮えておるぞ、遠慮せず食すがよい」

「はっ。御相伴に預かるでござる」


 おいて!


 イツメン含むこの場の誰の賛同も得られない天彦渾身のキメ台詞は、どうやら盛大にどんスベリしたようだった。


「うまー! 若とのさん、食べられへんかったらゆーて下さいね!」


 この中長期的戦略作戦に名を付けるとするなら、プライオリティ・パスの巻となるのだろうか。知らんけど。


 そして、


「見事な手際だったが、どのようにあれほどの効果をもたらした」


 カルラは焼却の手際の良さを褒め称えていた。

 遺体の放置は疫病の元として忌避すべく悪行の一つであり、さりとて宗教的に埋めていたのでは時間と人手がいくらあっても足りない。

 故に天彦は火葬した。むろん死者への鎮魂も自己流だが行って。


 天彦が視線を向けた先には、


「へへへ」


 家来の一人がどこか面映ゆそうに鼻を掻いて微笑んでいた。


 ガソリンと薬品をブレンドしたお手製火炎瓶(ガラス瓶はないので陶器製代用品としてのインク壺)は、史実よりも凡そ300年早く出現しこの後クルルカクテルとしてユーラシア大陸に名を馳せることとなる。


「佐吉、用人さんらも呼んだりや」

「はっ」


 部隊から離し藪に潜ませていたがもはや隠す必要もなくなった。






 ◇






「ひっ!? 菊亭様。え、は、はは――」

「ひっ!? お、恐れ多いことでございます。ナンマンダブナンマンダブ」


 しばく。


「あの無礼者ども、そこな川に放り込んで参れ」

「……殿」

「殿……」


 佐吉は元よりあの是知ですら、無理ないことだと理解していた。


 元奴隷用人たちは自分たちを救出したのがあの菊亭家の御曹司だと知って、征服された土地の奴隷でさえしないだろう服従の姿勢で天彦に深く深く頭を垂れるのだった。


 それはそう。


 ヤマトクラン(日本人)で天彦の異名を知らない者はいない。

 それは単なる公卿に対しての畏怖ではない。政治に関わらない者であればあるほど一種の恐怖の対象として全国津々浦々、上から下まで浸透していた。

 それほどに菊亭天彦の悪行(嘆き!)は轟いていたのである。主に神仏の天敵としての異名の件で。


「マーキス、貴卿はいったい……」


 そしてその光景を陰ながら見ていたカルラに、また一つ重大な解釈の不一致が生じるのであった。













【文中補足】

 1、日本人奴隷

 以降菊亭家用人として雇用する。












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