#10 幸せのフレグランスやつ
キリスト紀元(西暦)1571年10月3日
「何のことぉー」
「よくも白々しい。プロフーモ(香水)だ」
カルラは言った。天彦を気遣いながらも最大限許される厳し口調で。
天彦はその応接に配慮以上の何かを感じ取っていた。
それは切実に似た、そしてどこか感傷めいている感情だった。
ともするとそれは貴種ならではの直感だったのかもしれない。あるいは嗅ぎ取った先にある共感と言い換えてもよく。
そこに自分自身の範疇を超えた、已むに已まれぬ事情を嗅ぎ取ってしまっていた。
だから天彦は応じる。自分の思いつくかぎり最大の、持てる限界の真摯な態度で。
「香水の自由度は高い。フレグランスの組み合わせはそれこそ無限。されど正解とされる公式はそう多くはなく、身共の知る限り官能的に異性を誘いたいのなら、チュベローズ(月下香)なんかはまさに最適。その界隈には爆発的に流行るやろな」
「最適とは」
「条件さえ整えてやれば、男などイチコロさんや」
「詳しく」
どう考えてもカルラは逃してくれない。その直感は正しく、そして見立ても正しそう。
どうやらカルラには攻略しなければならない人物がいるようだった。だが間違えても意中の、などとは思わないし想定もしない。
貴種に自由恋愛などという生温い言葉はない。こういった場合、120異性の攻略と決まっていた。
それは場所が違っても同様のはずで、ならば是非もなし。天彦はどうせならと義理を高値で押し付けるべく、大きな貸し付けに舵を切った。むろん雪之丞には出来得るかぎり最大限のジト目を送って。
「ええさんか」
「焦らすな」
香水には付けたて~10分のトップノートと、30~120分程度のミドルノート、そして消えていくまでのラストノートという三段階のフレグランスノートとに分かれる仕組みがある。
ノートとは時間の経過とともに変化する香りの段階のことであり、または香りの種類や香調を指す。
主に香水は中間のミドルノートを指して○○の香りと称することが専らで、ミドルノートが香りの中心に位置していて、その香水の特徴を最も現わす重要なノートとされている。
「ピコ。お前の叡智はなるほど凄まじいな。いったいどこでその教養を得るのだ」
「おまえ!」
「何だ不満か。気安いであろうこのくらいの方が。それとも杓子定規に畏まった間柄の方がよかったか、マーキス閣下」
「ほなそれで」
「ふっ、ではこちらも一つお強請りせねば間尺が合わぬの」
「嘘つけ!」
えげつないインチキ方程式を放り込まれるも、その熱意に圧倒される。
するといったいどんな相手なのかが妙に気になって仕方がないが、どうやら彼女。香水作りに本気で取り組むようだった。
「頼む。この通りだ」
「ずるい!」
人目がないとはいえグスマン家直系姫にして現ロンバルディア州知事にして、金羊毛騎士団員にして、大メディナ・シドニア公の実姉の懇願は、爆裂的破壊力が込められていた。
「絶対に損はさせぬぞ。この通りだ」
「……」
天彦自身はホワイトベルガモットの香り(みかんとレモンの中間のような柑橘のさわやかさと、フローラルな甘さ)を好んでいるが、まだこの時代には商業的な製品化はされていないため言葉にはしない。
ベルガモット農場を経営し世に広めるのは、天彦の数少ないほんの少しの夢だった。
ならば代替案を……。
「ほならお一つ引き換えに。それさえ飲んでくれたら明かしたろさん。飛び切り取って置きの商売のネタを」
「勿体つけるな、申せ」
「帯同しているヴェネツィア共和国騎士アイモーネ=マリピエロ。あれの後見を頼みたいん」
「……政治か。その容姿で駆け引きをぶつけられると違和感が途轍もないな。そのギャップにやられるのか。なるほど初見殺しとは言い得て妙だ」
「出たラウラ!」
「ふふ、そうだ。お姉様が申されていた。しかし、やはり食えぬ小僧だな。まあよいだろう、訊かせろ」
「お耳を拝借」
「ん、善きに計らえ」
ごにょごにょごにょ――
「ほう」
「ごにょごにょ」
「……ほ、ほう」
「ごにょごにょごにょ」
「ほ、ほほう……、ちょっ」
「ごにょ。ごにょごにょごにょ、ごにょ」
「え」
そんな……。
カルラは言うと、まるで固まったかのように黙りこくって考えこんでしまう。
天彦が語った、まだ完全には練れていない悪巧みの一端を、輪郭だけぼかしたはずのほんの触りで。
だがそれだけでも彼女にとって十分な破壊力があったのだろう。
いずれにせよカルラは驚嘆して固まって、思考停止のフリーズ状態から溶け戻るのにかなりの時を要していた。
あるあるだった。武士を筆頭に暴力を主な生業とする人種あるあるとして、天彦の一筋縄ではいかない計算されつくした悪巧みに触れると、そのあまりの突拍子のなさとえげつなさにかなりの衝撃を覚えてしまい数舜、長い者では数分間、こうして思考停止に陥ってしまうのだ。
どうやらカルラも武人界隈のひとのようだった。
固まること数十秒、
天彦はその隙をついて、
逃げろ――!
「あ――ッ」
待て!
カルラの制止も振り切って、馬車から飛び降りる勢いで一目散にカルラ姫の詰問という名の尋問から退散するのだった。
◇
「農夫、我らをもてなせ」
天彦たちが立ち寄った農家は、そんなともすると横暴とも受け取れるソフィア嬢の申し入れを受け入れ、天彦一行をあばら家に招いた。もちろん震えながら。
この身形や所作やにじみでる振舞いから一目御貴族様とわかる集団の要求は、たとえ紋章家を知らずとも歯向かうな従っておけ!
本能と経験則が彼らに警鐘を鳴らすのだろう。かなり大所帯の寄り合い家族だったが、機敏に集合すると誰ひとり視線すら合わせず、交渉役であるソフィア嬢の言葉に従ってただ首を上下に振るマンになり果てていた。
中には屈強そうな髭面の男も数名いたのに。
けれど、彼らの応接は正しかった。それはそう。
彼らからすればこの時代の貴族など野盗や凶賊となんら違いはないはずで、実際ほとんど違いはなかった。
よって迷惑な来訪者側に如何なる事情、理由があろうとも、庶民からすれば迷惑以外の何物でもなかった。はず。
――が、
その生唾を飲む音が聞こえてきそうな緊迫の雰囲気も、天彦たちが姿を見せると一変した。
警護の騎士を従えたソフィア嬢が天彦の登場に気づいて黙礼をした瞬間、農夫ファミリーのほとんどの目に侮蔑の感情が色濃く滲んだ。
相手の困窮に付け込んで安い銭で買い叩く、まるでGGI商社マンのように。
その瞬間、ソフィアの格付けも大幅に下落したのだろう。
それまで極限の緊張感を維持しながら完璧に張り付けてあった畏怖の表情にも、どこか緩慢さが透けて見えた。
何なら中には冷笑さえ浮かべている者もいて、あるいはそれが使用人であろうとも使用者の責任はけっして免れるものではない。――イラッ。
「是知、佐吉」
「はっ」
「はっ」
「これがこの世界の標準仕様や。心致すがええさんや」
「はっ」
「はっ」
是知も佐吉も多くを語らない。
ただじっと農夫の内の誰かを見つめて、内なる闘志を滾らせていた。
天彦はそんな彼らに何を思ったのか。
ふっと一瞬だけ表情を緩めると、永観和尚ムーブをぶちかました。
「あの者どもが抱くこの感情が覆ることはけっしてないやろ。そやけど悲観することはない。身共らの働きしだいでは、なんぼでも取り繕わせることは可能なんやからな」
「はっ、必ずや」
「ははっ! 理が非にも」
天彦の珍しく前向きな言葉を受けた是知と佐吉は、一層の闘志を瞳に滾らせ声高らかに応じるのだった。
「さっそくお呼ばれさんしよか、ええなソフィア」
「毒見役を買ってでてくださるのですか」
「身共はお前さんが思う以上の貴種や。この中の誰よりも毒には敏感に暮らしてきた」
「ではお言葉に甘えて、お手並み拝見いたしましょう。ですがマーキス。御本心は?」
「早よ飲みたいん」
「ふっ、興味こそマーキスの神懸かった叡智の源であり活力の原動力なのですね」
「叡智は大袈裟やけど、そういうこと」
するとソフィアが表情を柔らかく崩した。
「マーキスには心からの感謝を。つまらないはずのモノトーンだった移動が華やぎ、俄然色味を帯びましてございます」
「それは重畳」
天彦たちの操る言語が理解できないため天彦主従がいったい何の会話を交わしていたのかわからないソフィア嬢だったが、それでも一変した気配で読み解くことはできる。
天彦たちが完全に敵意を剥きだしていることくらいお察しだった。
ソフィア嬢はこの会話を最後に、緩んだ農夫ファミリアとは真逆の態度を見せた。
ただでさえ険しかった表情に更に凛と拍車をかけて、意図的により一層緊迫感を増して天彦の応接に臨むようだった。
◇
「不味いです。あれはもうゲボです」
「例えがきちゃない! ほんでお雪ちゃん、無理やりお呼ばれしてそれはあかんで」
「ほな若とのさんは美味しくご馳走さんならはったんですか」
「美味し……、味やない。おもてなしの心や、気持ちや。どこに居ろうが日本人としての原点忘れたらあかんやろ」
「忘れるもなにも、あいつら気持ちはもっとありませんでしたやん。ガキなんか聞こえる音量で、“パパどうして豚小屋にいるはずの小さいおサルさんがお部屋にいるの”って申してましたし」
「黄色いサルはすぐに出ていくからおとなしくしていなさい。と親御は返答していたでござる」
「あ」
「あ」
佐吉が雪之丞に向けて雪之丞の聞きそびれた知らないエピソードを披露した。
天彦は家来に対し、初見ではかならず言葉が理解できない素振りを徹底せよと命じているのも、実は相手の油断を誘うこのためでもあるのだが、いくらなんでも後味が悪すぎた。
是知がたまらず鯉口を切りかけたプチエピソードはさて措き。
家来の全員が何をと言わずに黙って首を縦に振っている時点で天彦の勝算は極めて薄い。
エールはゲボだったし彼らはクソだった。そんな総評に落ち着くのか。
天彦からすれば判断早計と言わざるを得ない総論だが、しかし各論では同意できるし、何より無理やり勝ちを手繰り寄せるほどの会話でもない。
ならばと早々に撤退して、散歩がてら庭を拝見させてもらうことに決めた。←今ココ。
猶、目下農家のリビングは、護衛の騎士で溢れ返っていて足の踏み場も無い状態。
なぜなら毒見を終えてカルラ饗応の順番だから。
彼女は経緯は知らないが、これまでに三度、毒による暗殺を試みられた文字通り苦い実体験があったため毒には異様にナーバスだった。
そんなことなのでリビング部屋は護衛騎士で満たされていて、農夫ファミリアは代表者を残しすべて所払いをされている。
そして主人だろう農夫は狭い空間を縫って床に額を擦りつけながら、血反吐を吐く思いで必死の応対に追われていることだろう。知らんけど。
「ふっ、ざまあ」
この時代水の安全性に問題があったため、エールは重要な飲料だった。文句を言ったところで慣れなければお話にならない。
そんなこの農家のハウスエールは、ホップの苦味がほとんどしない薄っすら風味の向こう側にオレンジピールを感じる柑橘系風味のクソ不味エールだった。
クソ不味、クソ不味、……うん。それで問題はないだろう。
なぜなら少しではない酸味がきつすぎたから。
農家が丹精込めて作ったハウスエールは、雪之丞がゲボと評したのも少し理解ができる、慣れ親しんでいないとかなり飲むのに抵抗を感じるオニ酸っぱ飲料だったのだ。
と、
「何をじっと見つめておられますの」
「ん、ああ。あれさんや」
「……あれですか」
「そう、あれや」
「あれが何ですのん」
「あれは大銭に化ける文字通りの飯のタネなんやで」
「へー」
雪之丞はすると何の躊躇いもなくその大銭に化ける飯のタネとやらを口に放り込んだ。
「むしゃむしゃむしゃ、ごくん……不味いです」
「やりおる」
叱っていいものか、それとも躾けるべきなのか。
天彦はかなり逡巡してノリを優先させてみた。
さすがに雪之丞とて、口に運べばイチコロで死んでしまうような猛毒はさすがに口にしないと思うから。本当か。
「これなんですのん」
「トマトさんや」
「とまとさん……、むしゃむしゃ。はい、やっぱし不味いですわ」
まだ品種改良される以前の、しかも食用ですらないトマトである。美味いはずがなかった。
だがこの頃、まだ毒物として認識されているトマトの発見は天彦を大いに歓喜させた。何しろ鉄板より鉄板で儲かる食材になること請け負いの、イタリア人ソウルフードなのだから。
トマトが食用として認知されるのは、今から針を進めることざっと100年後のこと。
南米原産のトマトはコロンブスが持ち帰った、ジャガイモやトウモロコシやトウガラシの中には、この悪魔の味で知られるトマトの果実も含まれていた。
天彦はこのトマトに纏わるレシピと、雪之丞がほんの少し漏らした香水とで当座は凌げる算段を取り付けていた。
「ふふ、儲かったったん」
「あ! それフラグですやん」
「そんなもんこの世に存在せーへんのやで」
「してますやん、いっつも。なあ長野」
「……某に振るな」
「ほな石田」
「……お答えしかねるでござる」
「何やお前さんら、揃いも揃って意気地なしさんやな」
「何を、おのれ――」
「何じゃと、貴様――」
無駄口を叩きながら、けれど拭いきれない大きな違和感。
そのことを彼らイツメン衆は理解していた。
時こそ最上位の金子なり。を標榜する我らがご主君天彦が、たとえ待機中とは申せ、こんな無駄な時を無駄に浪費するとはとてもではないが思えなかったのである。
「栗ご飯食べたいです」
「ほんまやな。落ち着いたらそれも考えてみよ」
「ほんまですね、約束ですよ!」
「よっしゃよっしゃ」
イツメン衆がそれとなく察する中、天彦は雪之丞といちゃいちゃしながらその時を待っていた。
おしゃまなロリキッズがネタバレしてくれたのだ。レトリックでさえないわかりやすすぎるそのヒントを耳にした以上、乗じないわけにはいかなかった。
幸せなフレグランスを思う感情とは180度真逆の感情で。
「やっぱし」
腰を上げた天彦が、眼光鋭く見つめる先には、
「え」
「なっ……!」
「おのれ許せぬ」
「やば」
「えぐ」
家畜小屋からぞろぞろと鎖に繋がれた黒人奴隷に混ざって出てくる、見知った風な面相・風体の同郷人らしき男たちの姿があった。
【文中補足】
1、チュベローズ(月下香)=オランダズイセン
ビクトリア朝時代の花言葉は危険な歓び。
2、金羊毛騎士団
ブルゴーニュ公フィリップ3世によって創設された世俗騎士団。
スペイン王国最高位の騎士団勲章として現存し、オーストリアでもハプスブルク家による名誉として存続している。
モットーは「Pretium Laborum Non Vile」(我らの働きに報償に値しないものはない)。
名称はギリシア神話のイアソンの物語(金羊毛)と、旧約聖書・士師記のギデオンの物語に由来している。これはフィリップ善良公が十字軍を想定していたからである。
当初はイアソンのみだったが、ギリシャ神話すなわちカトリック教会から見て異教を由来にしていることが好ましくないとされ、後からギデオンの物語が理由づけされた。
なお「金羊毛皮」は錬金術の達人の象徴でもある。ただし善良公が何故、金羊毛を意匠に定めたかは騎士団規約にも記載がない。
衣装は銀鼠色の縁取りが施された膝丈の真紅のローブに、同じく真紅のマントであり、マントには火口金と火打石の文様が施された。
この意匠はフィリップ善良公がジャン無怖公より継承したもので、敵対するオルレアン家の紋章である棍棒を削り、さらに燃やすという標語に由来する。
ぜんぜん伸びてくれませんけど、書いていてむちゃんこ楽しいから書く!




