#09 ポイントネモ
キリスト紀元(西暦)1571年10月3日
シチリア・イミグレを無事通過した天彦一行は当日港に逗留、明けて翌朝レッジョ・ディ・カラブリア(コムーネ)に向け渡航する流れとなった。
輸送船は帝国保有の最新鋭ガレオン船。しかも複数の護送船団付きと至れり尽くせり。
むろん天彦の存在価値が高いからではない。単にカルラ姫のおまけに過ぎない天彦など現状ではむしろその存在を認知さえされていない。
故に菊亭一行が誰彼ともなく好奇な、あるいは奇異な視線を向けられるのは偏に、誰がどうと粒立てるのではなく、彼ら全体のパーソナリティの特異性が為せる業と解釈したほうが正解に近そうだ。
「どいつさんもこいつさんも舐めすぎ」
「おのれ」
「無礼な」
「めっちゃ見てきますやん」
いずれにしても実害はなさそうなので折り合いを付けるしかない。
そんな一行は渡航後、そこから一路陸路でロンバルディア地方にあるミラノ公国に向かうこととなった。←今ココ。
機構としては移動に打って付け。但し単に移動と言っても、その距離は途轍もえげつない。距離にして1165キロ、旅程にしておよそ二十日間以上を要する大馬車移動の長旅であった。
「マーキス、御不満か」
「はは、まさか。カルラにはようしてもろて。感謝の言葉しかないさんよ」
「ならばよろしい。出せ」
「はっ」
カルラ姫の下知により大規模な護衛部隊を引きつれたカルラ護送団の大移動が始まった。
天彦一行はその中心にある、青が鮮やかなメディナ・シドニア公紋章がでかでかと描かれ、かつ箱全体に精緻な意匠のレリーフ彫刻が刻まれたまったく以って豪奢極まりない、贅の粋を極めたであろう馬車に乗り込んだ。
「若とのさん、御立派な馬車ですね」
「そやな」
「某、ここ」
「某も」
「某も」
「にん」
「にん」
…………。
天彦としては、条件は最悪だった。何しろ二十日間以上も起きている大半の時間を、目の前の女傑と膝を突き合わせて過ごさなければならないのだから。
どれだけ低く見積もっても、最終的に壺か花瓶くらいは買わされている未来しか描けない。貴族のそれも上から数えた方が早そうな貴種の売り付けてくる壺だ。それは大そうお高いと相場で決まっている。じんおわ。
けれどこうも選択肢が限られている現状、常日頃のプライオリティ(時間と銭を優先させる)を後回しにしてでも、出された提案を飲むしかなかった。
何しろ相手は異端者と決めてかかった上で、問答無用で殺しにかかってくるオニ野蛮人ども。安全に代えられる代物はない。
「私が美しいのはわかるが、そうも見惚れられると先が思いやられるぞ」
「チェンジで」
「ほう。おもしろい。血に飢えたシパーヒーや荒くれ傭兵崩れどもが蠢く荒野に放置されてもよいとな。これこれは御見それした。見た目と異なり中々豪胆な子供のようだ」
「……」
「――ようだ」
「おうふ」
「ふふふ、それでよい。そう強がるものではない。子供は子供らしく大人の庇護下におればよい」
まんじチェンジで――!
天彦は好意的な素振りをした、けれどその実すべてを後見し乗っ取りを画策する大人が生理的に無理だった。
これまでそんな大人を散々見てき、散々対峙してきたから。お腹いっぱい、うんざりだった。
だが彼女の意図は見え透いている。天彦が探し当てた銀山利権、ただ一つ。
ならば対応もそれほど苦慮しない。はず。
と、いうことで甘んじて二十日間以上にも及ぶ長旅の同席移動を受け入れることに決めた。
「んがぁ! 冒頭からずっと狭い!」
横三人掛けの馬車に六人は詰めすぎ。いくら幅のないキッズが主体とはいえたしかに狭い。
「若とのさんがこう仰せや。お前さんら他へ参れ」
「朱雀殿こそ他へ参ればよかろう」
「同感にござる」
「にん」
「にん」
なぜか圧倒的多数の反論によって不意に不利を強いられた雪之丞だったが、
「ほなそれで。失礼します」
文句も返さず圧倒的多数の意に従う。
但しそこは雪之丞クオリティ。大抵のことでは魂消ない天彦をして、目をあんぐりと開けてしまう奇行に走って。
「……ほう。この主人あればこの家来ありか。まあよいぞ。好きに振舞え」
「はーい」
唐突に立ち上がると、何の許可も得ず天彦でさえ躊躇われるカルラとソフィアの間におっちん。割って入って天彦の正面席を強引に確保するのだった。
しかも、
「すんすん。ええ匂いしますね。パヒュームですか」
「ほう。プロフーモを知っているか。中々どうして教養があるではないか」
「知ってるも何も当家ではもっとええやつ拵えておりましたから」
「……詳しく話せ。いや訊かせてくれないかなボク。お姉さん、とても興味を惹かれちゃったの」
「厭ですけど」
「おのれ小癪な。ソフィア、たしか今朝方菓子を焼いておったな。卵をふんだんに使った甘いあまーい焼き菓子を」
「はい。焼いてございます」
秒と掛からず、
「レシピをご所望ですか!」
「すべてを所望だ」
「なるほど。某、お役目柄、香座を所管していたので必要な部材から拵え順までみーんな知っておりますけど」
「お前、話が早くてわたくし好みだぞ」
「姫、こちらでございます」
カステラの登場に、どうやら場の流れは決定付けられたよう。
雪之丞が比喩ではなく涎を滴らせ、黄金色の菓子に目を釘づけにされてしまう。
「うむ、これだ。やろう。遠慮せず食すがよい」
「あ! それはカステーラや」
「ほう知っておったか。ザラメの食感も美味なるぞ、どれ一つ馳走してやろう」
「ほんまですかええお人さんや! いただきます。うま――ッ」
「美味であろう。苦しゅうない子供、名は何と申す」
「うっま! はい? 朱雀げふんげふん、お水ください。あ、すんません。ごきゅんごきゅうん、雪之ぶはっごほごふぉ、……丞と申します。ひえー可笑しな場所に入ってしもたん」
「ソフィア、このJOEとやらに、あるだけ菓子を与えよ」
「御意にございます」
「もぐもぐ、やた!」
天彦を筆頭に是知と佐吉はもちろん、ともするとあまり金銭や利権に頓着なさそうなクルルとメガテンまでもが、目の前で繰り広げられる大惨劇に唖然と目を瞬かせて言葉を失い絶句していた。
「えぐい」
やはりどの世界線でもあるいは世界観であっても雪之丞は雪之丞。二重の意味でえぐかった。笑笑
◇◆◇
「善き家来をお持ちだな。くれ」
「厭やろ」
満腹になったからか、それとも緊張の糸が切れてしまったからなのか。
いずれにしてもあろうことかカルラ姫の膝の上で安らかな寝息を立ててすやすや眠りこける雪之丞にジト目を向けつつ。
天彦はタフな交渉のテーブルについていた。
レシピは売却する。どうにかそれで決着はついたが、一時金だけに限定されたのは痛恨だった。
やはりカルラは手強い。おそらく対峙してきた中でも最上級の手強さだろう。そう直感するほど交渉は終始カルラペースで推移していた。
天彦であっても勝手が違うとやはり困難を極めるのか。
イツメンたちの表情からもそんな焦りの色が窺える車内の午後、
「よい交渉になりました。ひとつよろしいかしら」
「どうぞ」
「このレシピを考案したのはマーキス、貴方なのかしら」
「さあ、どないさんやろ。そやけど権利は身共にある。そこは信じてもらうしかない」
「なるほど。叩いて捻り出せない知恵はなし。ラフィお姉様が珍しく得意げにお話になられていたことの真意がようやく紐解けました。マーキス、貴方そのものが宝物。貴方の頭脳こそが叡智の詰まった打ち出の小槌。お姉様はそう仰りたかったのね。わたくしは確信に至っております。違って?」
「ごめんなさい」
天彦は本能的に謝罪の言葉を口にしていた。
ごめんなさいは形勢不利な側の唯一の切り札だと教わったばかりなのに。
つい猛烈な恐怖に駆られてしまって、思わず口を突いていた。
人によればそれを、“人の上に立つ貴種らしい貪欲な意志の強い瞳”として、いい意味で評するのかもしれない。けれど天彦は違う。
天彦の目には、それほどにカルラ姫の視線が脅威に映っていた。視線を向ける瞳の奥は邪念に満ちていて執着的に見えていた。
しかもそれこそ何かよからぬ妄執に囚われていることが容易に想像できてしまうような、如何にも支配者然とした傲慢で強欲な瞳に映っていたのだ。
あの魔王でさえ隠し遂せていた感情を、露とも隠さずおっぴろげてぶつけてきたことをどう受け止めればよいのか。
結論、舐められている。
それは端的に天彦の権威のなさと、カルラ姫の持つ本能的な黄色人種的蔑視による軽視感情だった。
裏を返せば、彼女は途轍もなく偉大で白人は素晴らしく強い。そういうこと。
然りとて天彦に特段カルラを責める気はない。むしろ自然な振る舞いで彼女の言動に嘘がないのだと理解度も納得度も安心度も高くなったくらい。
旧知の人物に置き換えればわかりやすい。これが人本来の本性だと。道徳心や教養のベールで覆い隠さなければ人など所詮はこの程度の品性である。それが天彦の持論だった。
信長は出会いの時から天彦の血筋に初めから敬意をもって接していただけに過ぎない。故にこの蔑視や蔑視感情をいっさい見せていなかっただけ。
信長が偉人に、あるいは天彦以外の公家に見せてきた表情や応接態度を見ればそれは明らか。
天彦は改めて認識する。この見た目は美しく親しげに接してくる異国のお姫様は、生まれ持っての貴種なのだ。
それこそ太陽の沈まぬ帝国の皇帝陛下に略式の礼儀作法での応接が許されるほどの地位にある人物なのだと。
己はゴミ以下のぺいぺいなのだと再認識して、立ち回りに必要な意識を植え付ける。
それは生き残るためにはけっして欠かせない、大事な必須の作業だった。
「ひ――っ」
「……ど、どうしたのかしらマーキス。険しい表情で黙りこくって」
真顔ねんけど。辛うじて堪えたカルラはいいとして、ソフィアしばく。
天彦は異国での立ち回りのしんどさ難しさに直面し、改めてあるのかないのか極めて怪しい闘志に火を灯す。
「レディ・メディア=シドニア」
「何かしら改まって、マーキス」
「なんで大黒さんの逸話を存じてるんかはさて措き、……そんな夢のようなお話がこの世に存在するとでもお思いさんか」
「……するわ。貴方に限ってなら」
「根拠は」
「わたくしの出征の意図を見抜いてみせたことが一つ。そして何よりラフィお姉様だけが、全方位を敵に囲まれたわたくしの、唯一の拠り所ですもの」
「ラウラの目はカルラの目えさんか」
「いいえ、わたくしのすべてがラフィお姉様のもの。心もすべてお捧げしているわ」
らしい。
だったら話はまるで違ってくる。
それならもっといい絵が描ける。もっとおもろい悪巧みが企める。
天彦は方針を大きく転換させるべく長考に入る時間がほしかった。
揺れる車中と感じる視線。いずれも思考の邪魔にしかならない。
と、
「若とのさん、あれなんですのん」
「ん、あれ……?」
不意に起き上がった雪之丞に促されるまま天彦が視線を車窓に預けると、そこには農家らしき家屋が建っていて、その家屋の窓からにょきにょきと一本の長いポールが突き立てられていた。
「エールポールね。わたくしの膝はよく眠れたかしらJOE」
「ん、ああ。それはもう。おおきにさんです。痛い、何をなさるんです」
お雪ちゃん黙ってて。
弁慶キックを食らわせた天彦は威圧感で雪之丞を牽制すると、そのままカルラに視線を移す。
「エールポール?」
「マーキスでも知らないことがあるのね」
「知ってるけど」
「ではどうぞ」
「……」
「ふふ、古くからある風習で今ではほとんど見かけない、家庭で消費する分量以上を販売する風習ね」
「保存技術の問題か」
「そうよ。おそらくだけどアルコール度数が低いのね」
「つまりあのポールは、お家には出来立てエールがあるという昔ながらの告知方法」
「そういうこと」
なるほど。
するとつまりエールには家庭の味があり、かつ酒造権に利権構造がまだ存在しないことを意味するのだが、よくよく考えてみればアルコール飲料を水代わりに飲んでいる文化圏だった。
そんな無茶な締め付けを行えばたちまち暴動に発展してしまうではないか。
カルラ姫が懐かしむレベルの風習なので、現代にも感覚としては現存しているはずで。すると現代でも酒造はエールやビールに限っては合法なのだろう。
天彦は少し考えれば辿り着く当然の帰結にやや恥ずかしさを覚えつつ、これを機会と滅多と繰り出さない(多用する)お強請り術を発動した。
「カルラ。ご家庭の味とやらを試してみたいが、お如何さんやろ」
「距離を稼いでおきたいところだけど、エールはお好きで」
「さあ、どないかな。それも含めて試してみたい」
「よろしいでしょう。あの農家にわたくしたちをもてなす栄誉をくれて進ぜましょう。ソフィア」
「はい姫様」
「困った特使殿の意に沿いなさい」
「御意に」
言い方は努めて権高くあれだが、何やらカルラも出来立てエールのご家庭の味とやらに興味津々のご様子だった。
【文中補足】
1、レッジョ・ディ・カラブリア
かつてはシチリア王国に支配されていた交易都市。目下スペイン帝国の版図に組み込まれるカラブリア州にある都市で、その周辺地域を含む人口18万人の基礎自治体。
イタリア半島の「つま先」にあたる地点に位置し、シチリア島との間を隔てるメッシーナ海峡に面する。
かつては地域最大の交易都市として栄華を誇ったが現在は帝国に課せられた重税に喘ぎ、加えて疫病や地震といった複数の災害にも見舞われ、急速に衰退している。
2、スペイン(イスパニヤ)
16世紀(1500年)中盤から17世紀(1600)前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、黄金世紀(Siglo de oro)と呼ばれている。
スペイン君主のカルロス1世が神聖ローマ帝国皇帝に即位した際には、ヨーロッパにも本国以外の広大な領土を持つなどその繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された。
この時期を総じて帝国期と定義し本編ではスペインを帝国と呼称する。
3、シパーヒー
オスマン帝国のトルコ系在郷騎士。スルタンからティマール(封土)を与えられその見返りとして戦時には禄高に応じて軍備を整え出征した。
16世紀末以後戦力の中心はイェニチェリ(常備軍)に移りシパーヒーは重要性を失った。〔インド〕ペルシア語,ウルドゥー語で「兵士」を意味する。
4、傭兵
中世においては西欧の戦闘の主力は騎士を中心とした封建軍であった。だが王政に移行していくにしたがって国王の直属軍の補強や戦争時の臨時の援軍として傭兵が利用された。
傭兵となるのは初期にはノルマン人、後には王制の未発達なフランドル、スペイン、ブルゴーニュ、イタリア人などが多かった。
ビザンティン帝国では主力としてフランク人、ノルマン人、アングロ・サクソン人傭兵が使われた。
この時期の傭兵は敵を倒して雇用主から得る報酬だけでなく、戦場での略奪や敵有力者の誘拐身代金なども収入としていて、戦争を長引かせるヤラセ戦争も行っていた。
傭兵の雇用は契約によって成立していたので、敵味方陣営に関わらず最も高値の雇用主と契約することなども行われ、「主君の主君は主君ではない」という言葉がこの時代の傭兵の立場を表している。
国家は傭兵個人とではなく複数の兵士が集まった傭兵団と契約していたが、傭兵団も補強のため正式に叙勲されていない自称騎士(黒騎士)やフリーランサーの傭兵を雇い入れていた。
中世の終わりから近世にかけてイタリアの都市国家は独立性を高め、傭兵の需要が伸びたため、シニョーレと呼ばれるイタリアの小君主が私兵ごと売り込んだ。これらの契約形態はコンドッティエーレと呼ばれる。
近世に入ると王権が強くなり、軍隊の維持能力のある国の王は傭兵部隊を中心とした直轄軍を拡大させるようになる(フランス王国におけるスイス傭兵等)。
やがて常備軍は自国の兵が中心となるが、戦争が定常的に起こる中傭兵も大きな役割を果たした(ドイツ傭兵ランツクネヒトなど)。
オラニエ公ウィレムが率いたスペインに対する反乱軍も、初期はほとんどがドイツ人傭兵で占められていた。
5、香水
パヒューム(英語)、パルフォムまたはプロフーモ(イタリア語)。
16世紀になるとイタリア、フランスあたりにも香水作りの気運が高まる。
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会付属の薬局が専売したことから、この時代は医薬品も化粧品も香水も同じような扱いなので薬の一部としてフレグランスも制作されていたと推測される。
アンリ2世と結婚したメディチ家のカトリーヌはイタリア文化をフランスに広めた人であり、当時のフランスはイタリアと比較するとかなり発展途上国とみなされていた。
しかし時代とともに芸術やファッションの本場は徐々にフランスへと移動し、香水文化も同様にフランスで開花することになる。
6、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
起源は13世紀まで遡り1221年フィレンツェに移住してきたドミニコ会の修道院サンタ・マリア・フラ・レ・ヴィニェ(Santa Maria Fra Le Vigne ブドウ畑の中のサンタ・マリアの意)の修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが始まり。
この修道院は後のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会へと発展する。
1612年にはトスカーナ大公により薬局として認可され一般営業を開始。ヨーロッパ諸侯が顧客リストに名を連ねた。
創業についての助言と協力のあったトスカーナ大公(メディチ家)からは王家御用達製錬所の称号を受ける。
故に本編の時代はまだ専売許可を得ておらず、……でゅふ。そういうこと。
6、ラフィ
ラファエル(ラウラの実名ファーストネーム)の愛称
7、コムーネ
イタリア語で共同体。現代ではイタリア基礎自治体の最小単位組織を指す。
8、サブタイ
天彦が厨二的に到達不能極を言いたかっただけですはい(カルラがそのレベルの高根の花子さんであることの比喩も兼ねて)。




