#00α 1571年前後・近世イタリア半島情勢
当作品をお読みいただくにあたってのちょっとした下地というのか事前知識回です。
ご無沙汰しております駄文書きの喜楽です。
皆さま如何お過ごしでしょうか。お元気ですか。喜楽は元気です。新作は時代設定も元亀のままです。プレイマップは大幅に変更となりますけれど。
さて大前提、当作品も雅楽伝奏の~に通じるホームドラマとなります。ほとんどのドクシャーの皆さまは既にご承知かとは存じますが、ですので史実に則って進行はいたしません。
ご存知の通り雅楽伝奏の~シリーズ作品における史実はあくまで物語の骨組みであり構成上のフレームに過ぎません。そこは悪しからずとしかいえませんのでガチ勢ニキ、もしくはネキにおかれましては悪しからず。
大前提その2、わたくしもこちゃそ、外国史は全般ばちくそ弱いです。
「ぜ ん ぜ ん 知 ら ん!!!」
はい。声を大にして開き直れるレベルで存じません。小中高大院、どの地点でも通っていません。仮に通っていたとしても1ミリも記憶してございません。
むろん恥ずべきことだと承知はしております。ですがそんな作者が綴りますので、当然ですが時代考証はお察しです。しゅたっ全力土下座<(_ _)>orz
ですけれど少しでも時代背景や現地の風俗をご存じの方が物語への没入感度が上がるのでは思い、僭越ですが概略を添付いたした次第でございます。
ほとんどどっかのコピペなので文句は一切受け付けませんし、世論を二分するような作意だって1ミリもございません。とか。
資料は大至急密林さんからお取り寄せの真っ最中!
順次届いてくる予定。ちゃんとお金を払っていれば……。
Wi-Fiないねん許してや!
ですので、お気楽に喜楽作品を楽しんでいただければ幸いに思います。
ね、みんな肩の力抜いて、たまには楽にいこ?
ということで、当作品をお読みいただくにあたってのちょっとした事前知識メモ。ではではどうぞー。
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1571年 イタリア半島情勢
1、まず共通認識として、近世のイタリア半島は現在成立しているイタリア共和国のテイではない。
15世紀末、イタリアは大小の都市国家に分かれていて中央集権的な王国は存在していなかった。言わば日本国の室町時代と酷似した状況であり、これをイタリアの政治的空白期間と定義する。
イタリア半島を領土とする勢力は主に、ナポリ王国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ、教皇領などであり、それぞれが力を持ちつつもバランスを欠いた状態で混沌としていた。
15世紀末~16世紀、主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国)とヴァロワ家がイタリアを巡って繰り広げた。これをイタリア戦争という。
教皇領、イタリアの都市国家、ヴェネツィア共和国、西ヨーロッパのほとんどの国(イングランド、スコットランド、スペイン)も参戦した超巨大な戦争で、期間もえぐい。断続的だが1494年から1559年という長期に亘る。
このイタリア戦争は軍事革命といわれる戦争形態の変化をもたらし、また主権国家の形成を促し近代を準備した戦争と見ることができる。
天彦が辿り着くことになるのはこの時期のイタリア半島のどっかであり、近世ヨーロッパはどこかしらで戦争または紛争が勃発しているため、どこに辿り着いても大差はない。知らんけど。
第6次イタリア戦争終結以後平和が回復したので、イタリアでは人口が増大し16世紀末にはヨーロッパで最高の人口密度になった。
対して当時の欧州全体の平均寿命が30から35才だとも言われる理由として、病気やペスト、慢性的栄養失調が挙げられる。都市は常に食料不足と疫病に悩んでいた。
どうやらヨーロッパを語る上では、この疫病と食糧不足問題は切って語れないようである。(震える)
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物語のメインテーマ。あるいは主題となる土地、1571年ヴェネツィア共和国・歴史概略。
はい。長靴の付け根の部分の、戦争しまくりやりまくりでお馴染みの水の都ベニス(英名)でございます。
以降、ざっと流し読みしてください。
主文、東ローマ帝国の自治領として誕生した同国は、アドリア海と東地中海での貿易により繁栄し強力な海軍を背景に、その版図はダルマチアを始めとしてアドリア海沿岸からイオニア海、エーゲ海、キプロスに及んだ。
しかし大航海時代に入ると地中海貿易の重要性が相対的に低下し、またオスマン帝国の侵攻により多くの領土を失ったことにより衰退していき、最終的にはナポレオン・ボナパルトに降伏して滅亡した。
1、発展
中世盛期(11世紀~13世紀)に、ヴェネツィアは東ローマ帝国内における免税特権を活用し、東西貿易や香辛料貿易の仲介者として莫大な富を築いた。
アジア全域から集められた商品は紅海のアクスム王国を通るローマ・インド通商路またはレバントを経由して、ヴェネツィア商人の手によってヨーロッパに届けられるようになったのである。
15世紀初頭にヴェネツィアはイタリアへの領土拡大を開始すると共に、ダルマチア沿岸でもイストリアからアルバニアへと拡大した。
ハンガリーのラディズラーオ1世は紛争に敗れてナポリへ逃げたがその前に、既に事実上は失っているダルマチア諸都市の支配権を10万ドゥカートで売り渡したのである。
ヴェネツィアは直ちにこの地域を統治すべく貴族を送り込んだ。例えばザーラにはフィリッポ・スティパノヴが赴任した。
これはミラノ公国のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティによる版図拡大への対策であった。
1408年にハンガリー王ジギスムントとの間に停戦が成立したが、ヴェネツィアは停戦が失効するや否やアクイレイア、トロギル、スプリト、ドゥラスその他のダルマチア諸都市を占領した。
これによりヴェネツィアのアドリア海支配は確固たるものとなった。また北東の陸路を確保することは通商の安全のために必要であった。
1423年から1457年のフランチェスコ・フォスカリの時代にヴェネツィアは版図を著しく広げた。
15世紀末の時点で、ヴェネツィアの人口は18万人に及び、パリに次いでヨーロッパ第2の大都市となっていた。
ヴェネツィア共和国の面積はおよそ70,000km²に及び、総人口は210万人であった。
行政上、ヴェネツィア領には3つの区分が存在した。「ドガード(ドージェの領域の意)」は首都ヴェネツィアとその周辺領域であり海洋州にはイストリア、ダルマチア、アルバニア沿岸、アプリア港、イオニア諸島、クレタ、エーゲ海の諸島、キプロス、西南ヨーロッパおよび近東の要塞および商業基地が分類された。
安定地域はヴェネト、フリウーリ、イリリア沿岸、東ロンバルディアおよびロマーニャであった。
エミリア・ロマーニャ地方は公式には教皇領であったが、現実には小領主が乱立しており、事実上の独立状態にあった。
1508年教皇ユリウス2世はロマーニャの支配を取り戻すためにヴェネツィアの勢力を削ぐ必要があると考え、周辺諸国との間にカンブレー同盟を成立させた。
神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はフリウーリとヴェネトを、イスパニア王国はアプリア港を、フランス王国はクレモナを、ハンガリー王国はダルマチアを、それぞれ欲した。
最初にヴェネツィアに侵攻したのはフランス王国である。
1509年5月14日、アニャデッロの戦いでヴェネツィア軍は完敗し、フランス王国と神聖ローマ帝国によりヴェネトは占領された。
しかしアンドレア・グリッティが1509年7月にパドヴァを神聖ローマ帝国から奪還し、さらに巧みな外交を展開することによりヴェネツィアは滅亡を免れた。
アプリア港を割譲することによりイスパニア王国との講和に成功し、また教皇ユリウス2世はヴェネツィアが滅亡すればイタリアはフランス王国やオスマン帝国に占領されるのではないかと危惧して神聖同盟を結成した。
最終的にはブレシアとヴェローナをフランスから奪還し、アッダ川までの領土を回復した。
緒戦の完敗から巻き返したとはいえ、この戦争によりヴェネツィアの領土拡大は終わりを告げた。
【文中補足】
1、エミリア・ロマーニャ地方
イタリア半島の付け根に位置し、アペニン山脈とポー川に挟まれた地域で、アドリア海に面した一帯。
1537年から1540年の対オスマン帝国の戦争にヴェネツィアはイスパニア王国および神聖ローマ帝国のカール5世と同盟して参戦した。
しかし1538年のプレヴェザの海戦でアンドレア・ドーリアを提督とする同盟艦隊は敗北した。
1540年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和し、サヌード家のナクソス公国を割譲した。これにより、東地中海の制海権はオスマン帝国のものとなった。
ヴェネツィアのガレー船の漕ぎ手は、初期はヴェネツィア市民のみで構成されていた。後にダルマチア人、クレタ人、ギリシア人なども多く加わったが、いずれにせよ1545年までは自由民がこの役に就いていた。
しかし、ガレー船の増加に十分な漕ぎ手を集めることが難しくなったため、鎖に繋がれた奴隷を漕ぎ手として採用することにした。これは諸外国の海軍では古くから行われてきたことである。
こうした奴隷による漕ぎ手は、Cristoforo da Canalによって初めてヴェネツィアに導入された。1563年の時点でヴェネツィアの人口は16万8千人に減少していた。えぐい!
1570年にオスマン帝国はヴェネツィア領キプロスを攻撃し、ファマグスタの街は13ヶ月の間戦い抜いたがついに陥落した。←物語の始まりこの辺り
オスマン帝国の提督ララ・ムスタファ・パシャは、ヴェネツィアの総督マルコ・アントニオ・ブラガディンの皮を剥いで殺した。
ヴェネツィアはイスパニア王国、教皇庁と共に神聖同盟を形成しガレー船208隻から成る艦隊を構成した。このうち110隻がセバスティアーノ・ヴェニエル率いるヴェネツィア船であった。提督はスペイン王フェリペ2世の異母弟ドン・フアン・デ・アウストリアであった。
オスマン帝国の艦隊は神聖同盟側とほぼ同数であり、アドリア海をレージナで北上した後パトラ湾のレパントへ補給のため入港した。
神聖同盟側はメッシーナに集結した後、10月7日にレパントのオスマン帝国艦隊を撃破、117隻のガレー船を拿捕した。これがレパントの海戦である。
ヴェネツィアはキプロス奪還を希望したが、フェリペ2世らが反対したため、神聖同盟はそのまま解散された。
結局、1573年にヴェネツィアはオスマン帝国と講和しキプロスを割譲した。
1575年時点でのヴェネツィアの人口は17万5千人であったが、1581年には12万4千人にまで減少していた。えっっっぐい!!!
2、穀物の輸入
16世紀のヴェネツィアの領土はA首都ヴェネツィア・Bドガード(ラグーナの島部・沿岸部からなる伝統的な小領土)・C大陸領土・ D海外領土、から構成された。
この世紀の人口は概数でA 12-18万、B5.5万(中葉)、 C 140万(中葉)、 D 40万(末期)である。
ヴェネツィア政府による穀物補給はAを対象とした。 BCDは各自の責任で補給したが飢饉の時には首都の援助にも依存した。
政府は首都市民のはかに艦隊と領内各地の要塞とに対しても穀物補給の責任を負い、その一部は首都の備蓄の中から直接供給した。
輸入の対象となる穀物は小麦のはかに、豆・雑穀として一括されるキビ・モロコシ・スペルト小麦・ライ麦・燕麦・ソラマメ・大豆などである。
豆・雑穀のなかではキビが重要であり、その長期保存性により軍用備蓄として重用された。
トウモロコシは16世紀後半に栽培がはじまるが貧民の常食となるのは17・18世紀である。
一人あたりの年間消費量は小麦なら3 (ヴェネツィア)スタイア、豆・雑穀なら4.5スタイアとされた。1スタイオ(複数はスタイア)は80リットル。
この大量の海外穀物の輸入はヴェネツィアの経済力・海運力によって可能とした。
とはいえ海外からの輸入は必ずしも容易ではない。産地政府の輸出許可をえなければならないし他の諸国との穀物獲得競争がある。
ここでは政治力・外交力がものをいう。ただし産地政府が禁輸をしても監視体制が不十分な場合には密輸がおこなわれた。
16世紀初め以後北欧小麦がポルトガルに輸入され、60年代以降、地中海に面するアングルシアにも輸入された。
16世紀中葉イタリアでは農業が国内需要をまかなえず食糧不足が深刻となり、トルコからの小麦輸入が活発となった。
だがこの50年代前後のトルコ小麦ブームはトルコにおける食糧不足の開始により70年までには終息した。
1550年以降イタリアでは農業投資が拡大し、その結果60年以降小麦生産が増大した。
同時に豆・雑穀への依存が増大したようでもあり、イタリアの自給率が上昇した1590年までにイタリアの食糧危機は深刻化し、北欧小麦の輸入が必要となった。
以後農業投資の増大、収穫量の多いトウモロコシの普及などによりイタリアと地中海世界は自給化の道をたどる。とか。
言い訳ではありま……、言い訳です! 聞いてください!
インターネットがない!!!
スマホのキャリアWi-Fiしかない!!!
スマホだけでは書くのきびぃんです。まんじじんおわなんです。
開設に45日かかるってほんまですか。あんなんピッてやるだけやのに。虐められていませんか?
なんか疑心暗鬼になってますけど、事実だけを受け止めればどうやらそういうことらしいです。ですので工事が終わるまで更新頻度は確実に落ちます。なにせ調べ物膨大な量の物語ですので……(꒪ꇴ꒪ ; )白目
ではでは、古参ドクシャーも御新規様も、リアルはどうせギクシャクしてんでしょ?インターネッツの世界くらいキラキラしましょ。
って感じの小説をお届けする(意気込みだけは)心算でおりますので、気を長あ―――く持ってお付き合いくださいませ。
よろしくお願い申し上げます┌○ペコリ
PS、最後に調べ物をしていく中で、雑感として一言。
控えめに言ってこの時代のユーラシア大陸西部は終わってる!えぐい!ぐろい!えろい!ひどい!死にすぎ!殺しすぎ!
それでさえ室町に代表される戦国日ノ本よりも民度が圧倒的に劣るなんてことはないのだけれど(棒)。
【文中補足】
この頁の大部分はウィキペディアのオスマン・ヴェネツィア戦争という頁を素材として二次利用しています。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年-1573年) - Wikipedia




