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――《序》にかえて――


 天皇軒ニ臨テ、 詔シテ曰ク。「朕今年九月ヲ以テ、美濃国不破(ふわ)行宮あんぐうニ到ル。留連スルコト数日、より当耆たぎ多度(たど)山ノ美泉ヲ覧テ、自ラ手面ヲあらフニ、皮膚(なめらか)ナルガ如シ。亦痛処ヲ洗フニ、のぞきヘザルトイフコト無シ。朕ガ躬ニ在テ、甚ダ其ノしるし有リ。又就テコレヲ飲ミ浴スル者ハ、或ハ白髪黒ニかへリ、或ハ頽髪たいはつ更ニ生ジ、或ハ闇目明ナルガ如シ。自余ノ痼疾こくしつことごとク皆平愈セリ。昔シ聞ク。後漢ノ光武ノ時ニ、醴泉出ヅ。コレヲ飲ム者ハ、痼疾皆愈ユト。符瑞書ニ曰ク。醴泉ハ美泉ナリ。以テ老ヲ養フベシ。けだシ水ノ精ナリト。まことおもふルニ、美泉ハすなはち大瑞ニかなヘリ。朕庸虚トいへドモ、何ゾ天ノたまモノニたがハン。天下ニ大赦シテ、霊亀三年ヲ改メテ、養老元年トスベシ」ト。

 父が官吏に捕らえられたという報に接した時、はたの嶋麻呂しままろは蜂岡の寺にいた。秦一族の根拠地、山背やましろ太秦(うづまさ)にある寺だ。

 知らせをもたらしたのは、彼の支沙智売きさちめだった。漆部司ぬりべし直丁じきていである父、秦大麻呂が、官の漆を盗んだのが発覚したのだという。


親父おやじ、何てことを……」


 若い嶋麻呂は、思わずそうつぶやいた。

 とにかく、都に戻らねばならない。

 とるものもとりあえず、彼は庫裏くりから境内へ出た。空は高く、塗りつぶしたように青い。真夏の空だ。中天近くまで、巨大な入道雲が盛り上がっている。


「夕方には、雷が鳴るかもしれぬな」


 嶋麻呂について出てきた若い僧が、背後から言った。嶋麻呂は無言のままうなずいた。

 二人は並んで、境内を山門の方へと歩き始めた。


「今回はとんだことになったな」


 嶋麻呂は黙って目を伏せた。そして微かに苦笑した。


「俺なんかが今頃のこのこ帰っても、どうにもなることではないかもしれないけど」


 笑えば目が涼しい若者だ。なりはみすぼらしい。だが、この寺の僧は漆部司直丁の息子という低い身分の嶋麻呂へも、秦一族の者というだけで温かな態度で接した。


「気をつけて帰りなさいよ」


「大丈夫。暗くなるまでには着けるでしょう」


 嶋麻呂の言葉に、境内の木立からこぼれる蝉時雨がけたたましく重なった。


「では」


 嶋麻呂は一礼して、僧を残して歩いた。すぐ目の前に朱塗りの円柱に支えられた瓦屋根の巨大な山門が近づいた。くぐり際に、彼は振り向いて境内を見た。

 先ほどの僧の姿は、もうない。

 参道の向こうには一山のごとき金堂があり、二基の五重塔がその前面に左右に並んでいる。背後に姿をのぞかせているのは講堂の甍で、さらに遠くの山並みを借景とした一つの庭園のような境内だ。

 広い空間を、鬱蒼とした木立が囲み、築地塀が見え隠れしている。蝉の声が、静けさを一層際立たせる。

 嶋麻呂は白布の袖で、額の汗をぬぐった。


 山門を出た。

 門前はこの寺の寺田だが、水田ではなく桑畑だ。それが一面に広がっている。

 門前につないでおいた自分の黒馬あおのそばまで、嶋麻呂は歩いた。婢の支沙智売は勝手に歩いて帰ってくるだろう。

 馬は主人を見て一声いななき、嶋麻呂はそのあおの鼻面を軽く二回叩いてくいから綱をはずした。そして馬の右側に回り、あぶみに右足を乗せ、前輪に置いた右手に力を込め、弾みをつけて彼は跳ねた。身体がひらりと中に舞い、彼は馬上の人となった。

 手綱を取り、軽くそれを首筋に当てると、黒はゆっくりと歩きだした。

 南向きの山門から桑畑の中を道は真っ直ぐに伸び、右手には大きな川が割りと近くを流れている。蜂岡の寺の周辺からその川に沿って上流の方までが、太秦の集落だ。

 今、彼は川の下流の方へと馬を歩ませていた。


 遠くにぽつんと見えたこじんまりとした森が、すぐに近くになった。桑畑の中に取り残されたような、本当に小さな森だ。森の中にはほこらがある。小さな石の鳥居が、森の入口には立っていた。鳥居の上の額には、「大闢神社」と書かれてあった。

 道は森を右手にかすめて続く。祠は道のすぐ近くに側面を見せている。

 嶋麻呂は不意に馬を停めた。

 祠の前にぬかずいている人影があったからだ。絹の衣、冠など、高貴な身分の人らしい。

 ひづめの音に人影は頭を上げ、馬上の嶋麻呂を見た。彫りの深い顔立ち、高い鼻などが嶋麻呂とよく似ている。

 その男は、おもむろに立ち上がった。背も嶋麻呂と同様、たいへん高かった。年もやはり同じ十七、八のようだ。だが、かなり落ち着いた雰囲気が感じられた。


「ご一族の方ですか」


 思わず嶋麻呂は問いかけていた。


「是! 我们是同族啊!(ええ。私たちは同族ですね)」


 嶋麻呂は一瞬戸惑った。男は漢語で答えたのである。その返答の内容がなくても、漢語を使うことで帰化人系の秦一族の者であることは明白だ。


「你在干嘛呢?(何をしておられる)」


 と、嶋麻呂も漢語で聞いた。あとの会話は二人とも漢語だった。


「我われ一族の、ご先祖様にお参りですよ」


 秦氏は公称は秦の始皇帝の子孫だが、さらにさかのぼると、西の果ての国の大闢王につながるという家系伝説が同族の間でだけ密かに伝わっている。その大闢王を祀るのが大闢神社だ。

 嶋麻呂は自分の名と身分を告げ、


「あなたは?」


 と、尋ねた。相手はどうしてもそう尋ねずにはいられないような、不思議と好奇心をかきたてさせる若者だったのである。


「私ですか。医者ですよ」


「医者?」


「ええ」


「見ると若そうだが……」


 男は微笑だけを見せ、


「では、失礼する」


 と、言い残して去ろうとした。慌てて嶋麻呂は叫んだ。


「いったいあなたは……」


「またお会いする時もあるでしょう。あなたは早くお戻りなさい。お父上が大変なのでしょう?」


 嶋麻呂はギクッとした。この男、なぜ自分の父の一件を知っているのか……。

 もうすでに、男は鳥居の方まっで行ってしまっている。どこか常人とは違う不思議さが漂っていた。

 後を追って問いただそうかとも思ったが、やはり嶋麻呂にとって今はそれどころではない。急いで都に戻らねばならない。

 頭上で油蝉が、突然鳴きだした。

 嶋麻呂は神社の森をあとに、再び南に向かって馬を進めた。


 桑畑が切れると、嶋麻呂は全速力で馬を飛ばした。心地よい風が頬に当たる。

 広い盆地は、ほとんど雑草が茂るだけの荒れ野だ。ただ、雑木林がところどころに点在している。それを山々が重なり合って三方から取り囲み、南の方角だけが開いている。その向こうが都だ。

 馬を走らせているうちに目の前の視界は急に広がり、大河が横たわった。広い河原の中を、川は蛇行して流れている。下流は南へ向かい、果てしない原野へと消えていく。

 嶋麻呂は流れのほとりに馬を停め、地へと降り立った。そして川辺にしゃがみこみ、手で水をすくうと頭を洗い、さらに一口飲んだ。水は冷たかった。馬も首を曲げ、水を飲み始めている。

 袖で顔をふき、嶋麻呂は気持ちよさそうな息を一つついた。目を上げると、川の向こうのすぐの所まで山並は迫っている。

 再び馬上の人となった嶋麻呂は、白い河原を川に沿って南下した、途中、休憩したのはこのときだけで、あとは一気に駆け通した。

 冷ややかな風が、頭から胸座むなぐらへと飛び込んでくる。土の香りが草いきれと混ざって鼻を刺激する。真夏の太陽は容赦なく降り注ぐが、暑くはない。

 川幅が一段と広くなると、左後方から別のやや小さな川が合流すべく流れてきた。馬に乗ったまま彼は、合流点近くの広くない方の川を一気に渡った。そのまま大河と別れ、草原の果てしなく広がる中で、彼は徐々に馬を加速させた。

 頭上を雲が流れる。左右の山並も、ゆっくりとだが後方へとすべっていく。

 蹄の音だけが、空中に響いた。

 左側に大きな池が迫ってきた。そのほとりを走行しながら、水面の白い鳥の群れを嶋麻呂の視界は捉えた。

 やがて左右の山はどちらも遠のいていき、また別の盆地が広がる。低湿地のようだ。池をあとにしてからも、低湿地はしばらく続いた。

 行く手から別の大河が向かってくる。さっきとは逆に南から北に流れている川だ。そのまま川の上流である南の方角に向かって、彼は川沿いのコースを選んだ。

 標高が高くなっている。真っ直ぐだった川が左へくねってカーブするあたりで川を渡った頃は、川はちょっとした谷川となっていた。

 峠にさしかかったようだ。民家が点在しはじめる。わらぶきの粗末な、竪穴式住居ばかりだ。簡単な布切れをまとっただけの人々は、嶋麻呂の馬が駆け抜けるたびにさっとよけた。

 いくつかの集落を過ぎ、峠も下り坂になったようで、田地が目立ちはじめた。もはや山背ではなく、都のある大倭やまとの国だ。

 空が暗くなりはじめている。夕闇ではなく、雨雲による覆い被さるような暗さだ。遠くで雷鳴が吠えた。

 あとは、雷鳴との追いかけっこだ。

 林の中を抜けている時、ついに大粒のにわか雨が激しく降りだした。雨滴は馬と一体になった嶋麻呂の頭上を叩き、嶋麻呂は馬もろともずぶ濡れとなった。

 雷鳴が轟き、稲妻が走る。その声に追われ、彼はさらに馬を加速させる。顔面に痛いくらいに雨滴が当たる。走りながら彼の顔は、心地よさげに微笑んだ。

 やがて視界が急に開け、平城京へいぜいきょういらかの波が目の前に展開された。雨の中のそれはぼんやりと大地に浮かび上がり、まるで幻想の都のように見えた。


 うまやあおを繋ぐと、嶋麻呂は小走りに母屋に入った。入ってすぐに、彼は頭をぶるぶるとニ、三度左右に振った。水滴が当たりに散らばった。雨足はいっこうに衰える気配を見せず、雷鳴もひっきりなしだ。

 家の中では雨の音は幾分低くなっていた。それでもひんやりとした空気は、外から入り込んでくる。

 この房戸は母屋とはいっても屋根はわらぶきで、いているというより積んでいるといった感じだった。屋内の半分は土間で、申し訳程度に板を張った居間が設けられている。入口の土間の裏手がくりやだ。庭には奴婢の住む小屋があり、母屋も小屋も土壁は半分剥がれかけていた。

 わずかな木立をはさんで、同じような隣家だ。反対側も粗末な民家が遥か彼方まで並び、その前面に白砂利の都大路が延びている。四条から西一坊を少し下がった所なので、大内裏の緑の甍を遥かに眺めることができるあたりだ。

 広い都城の所々に、瓦の大屋根や寺院が点在している。

 人の気配に、嶋麻呂は振り向いた。

 雨の中、蓑も着ずに立っている老人がいる。逆光で顔はよく分からないが、細い体つきだ。老人はじっとこちらを見ている。


白髭しらひげじいか?」


 と、嶋麻呂は尋ねた。


「若」


 そのひと言で、老人が今呼んだ白髭の爺であることは分かった。このだ。戸籍上の名は別にある。しかし、嶋麻呂はいつも白髭の爺と呼んでいた。


「爺、濡れるぞ」


「若。大殿が、大殿が……」


「ああ。俺もその知らせを聞いて、馬を飛ばして帰って来たんだ」


「それより、先に体を拭いてこられては。濡れたままだと身体に毒じゃ。話はそれから」


「分かった」


 簡単な布で体を噴くと、嶋麻呂はまた外に出た。

 雨はすっかり上がって空は晴れわたり、真夏の太陽が庭にいくつもできている水溜りの上に光を注いでいた。その太陽ももう、かなり西の山の方へ傾いている。

 雨に濡れて艶を帯びた木々の葉から、水滴が水溜りに落ちて同心円を描く。にわか雨のお蔭で一気に冷えた空気は、そのままだった。

 庭石に、白髭の爺は腰をおろしていた。頭髪はかわいそうなほどないが、その名の通りあごに白い鬚を豊かに蓄えた老人だ。

 爺を見るなり、嶋麻呂はせわしく歩み寄った。


「爺。いったいどういうことなんだ。もう少し詳しく聞かせてくれ」


「実は……」


「実は……、どうした?」


 爺が言いにくそうにしているのは分かるが、それでも嶋麻呂はついついせかしてしまう。


「昨日の昼前じゃったかのう。大殿はいつもの通り出仕しておられたが、彈正台のお役人から、その大殿を捕らえたというお達しがあったのじゃ」


「それで?」


「大殿は漆部司の直丁。とがは司の漆を盗んだということじゃそうな」


「そんなばかなこと……」


 興奮する嶋麻呂から視線をはずし、白髭の爺は淡々と喋る。


「なんでも漆部司の御令史様の丈部路はせつかべのみちの忌寸いみき様と共犯じゃそうな」


「丈部路忌寸?」


石勝いわかつ様じゃよ」


 石勝は漆部司における嶋麻呂の父大麻呂の上司だ。

 しばらく沈黙があった。蝉が二人のそばの木にとまって鳴きだした。


「そうか。だいたい見えてきたぞ」


 と、嶋麻呂はつぶやいた。


「見えてきた、とは?」


「石勝は自分の私服を肥やすために漆を盗むことを思いついて、自分の部下の直丁である親父に命令して盗ませたってのが筋書きだな」


「さあ。そのへんのとこはどうじゃろう」


 嶋麻呂は突然爺に背を向けた。


「よし、行ってくる」


「え? どこへ?」


「決まっている。刑部きょうぶ省だ」


「刑部省?」


「そうだ。悪いのは石勝で、親父はむしろ被害者だからな。事情を話せば官も分かってくれるだろう」


「いや、それはどうかのう。何しろ証拠がない。すべて若の憶測にすぎぬではござらぬか。しかも、もう日が暮れる。宮門も閉ざされていよう」


「じゃあ、明日だ」


 仕方なく、嶋麻呂も近くの庭石に腰をおろした。


「しかし、親父も親父だ。悪事と知りながらも上司の言いなりになるとはな。俺は昔から、親父のそんな人の良さが我慢ならなかった」


「若。声が高い」


 爺は慌てていた。


「親の悪口など、お役人の耳に入りでもしたら、たいへんじゃ。今度は若がしょっ引かれる」


「かまうものか。親を尊敬しようが憎もうが人の勝手だ。そんなことまで、いちいちおかみに指図されてたまるものか」


「しかし、りょうの規定が……」


「ま、とにかく明日になったら、刑部省には行ってくるさ」


 西の山に落ちかかった夕陽は、すでにあたりを真っ赤に染め始めていた。

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