月下、誓いの口づけを
ヴァイスは下を向いていたせいで重くなった首をぐるりと回して、深く息を吐いた。
なんだかずっと書類と睨めっこしていた目も疲れている気がして、目頭をぎゅっとおさえる。
「いつまで経ってもこれだけは慣れへんなあ」
そうして、ひとりきりの執務室にヴァイスの嘆きが響いた。
執務室の窓から外を見れば、月が高く昇っていた。今日はきれいな満月だった。
はあ、と深いため息を吐く。
そしてヴァイスはまだ山のようになっている書類から視線を逸らしながら立ち上がり、ぐっと伸びをした。パキッと背骨が鳴る。
冒険者ギルドのギルド長になってヴァイスは初めて知ったが、ギルド長の職務というのはいざというとき以外は執務室にこもって書類と睨めっこしていることだった。
いや、いざというときなんて滅多に起きないので書類仕事こそがギルド長の職務と言っても過言ではなかった。
ギルドの予算編成にギルド職員の待遇改善。この地を治める領主とのやり取りに依頼の内容精査と危険度の振り分け、冒険者からの依頼報告のまとめと冒険者への技術指導。
最後の冒険者への技術指導だけは体を動かせるので比較的マシだが、ギルド長ともなると冒険者へ直接指導する機会は少ない。
そんな冒険者ギルドのギルド長になって二年。
頭を動かすより体を動かす方が得意なヴァイスは、毎日毎日この書類の山からどう逃げるかを考えながら働いている。
そんなヴァイスがどうにかこうにかギルド長の職務をこなせているのは、完全にエマのおかげだった。
「……ホンマにエマのこと僕の秘書にしたろかな」
今エマに手伝ってもらっているのは一ギルド職員に見せても問題ない範囲の書類だけだ。
しかしヴァイスの秘書になれば、今は見せられない書類も見せられるようになる。そうなればヴァイスの苦労はもっと減るはずだ。
ただ以前にそのような提案をしてみたら副ギルド長以外のギルド職員から総スカンを食らったので、エマに内示を出す前にその話は立ち消えたのだが。
エマは長年ギルドに勤めている優秀な職員だ。
ギルドへの貢献度やギルドの運営のことを考えれば、ヴァイスが彼女を独り占めするべきではないことはわかっている。
しかし、それでもエマを秘書にして常に仕事を手伝ってほしいくらいにヴァイスは書類仕事が苦手だった。
「さ、夜の見回りにでも行こか」
そう言って書類に背を向けたヴァイスは冒険者ギルドを抜け出した。
本来なら夜の見回りは冒険者に依頼しているものなので、ギルド長であるヴァイスが行う必要は全くない。ただのサボりの言い訳だった。
夜の街をひとりで歩く。初夏とはいえ、夜は風が涼しく少し冷える。
まあ、ヴァイスは毛皮に覆われているので、人間ほどは寒くないのだが。
「……エマ?」
ふと、夜風がアルコールとエマの匂いをつれてきた。
たしか今日はクラリッサと共にはやくに帰宅させたはずだが、エマのほかに人間の匂いはない。
つまり、エマが夜道をひとりで歩いているということだった。
たしかにこの街は小さな街で、冒険者たちに見回りもさせている。よその街と比べても治安はいい方だろう。
しかしそれでも夜の、それも女性のひとり歩きを許せるかは話が別だった。
エマの匂いをたどって、住宅街を駆ける。
そうして、たどり着いた先にエマはいた。エマはひとりで月を見上げている。
月明かりがエマを優しく照らしていた。光の中に佇むエマは神々しく、まるで月の女神のようだった。
その絵画のような美しい光景に目を奪われたヴァイスだったが、慌てて勢いよく頭を振った。
そして現実に戻って、不用心なエマに声をかける。
「コラ、不良娘がなにしてんねん」
ヴァイスの言葉に振り返ったエマがまばたいた。
ぽかんとした顔はどこかあどけなく、アルコールのせいで薄ら赤く染まった頰とはどこかアンバランスに見えた。
「ギルド長、どうして」
アルコールの匂いをさせながらそう呟くエマにヴァイスはなんだか腹が立った。
そして酔っているのにひとりで帰る選択をしたエマに頭が痛くなる。普段はしっかりしすぎるほどしっかりしているのに、あまりにも危機感がなさすぎだ。
ガシガシと頭をかいて、エマの隣に並ぶ。
「女の子がこんな時間にひとりで歩いとったらアカンで。ほら、送ったるわ」
そうしてヴァイスは、アルコールの香りがするエマと住宅街を並んで歩くこととなった。
雑談をしながらエマと街を歩く。楽しい時間だった。
それなのに途中から風向きが変わった。軌道修正は間に合わなかった。
それは本当にただの雑談のつもりだったのだ。
たまたま今日が満月だったから、エマと出会った日と同じ月だったから、そのつもりでヴァイスは話をしたのに。
「あなたが、好きです」
月明かりがエマを照らす。
草原の色をした瞳がヴァイスだけを見つめていた。
まさか世間話がこうなるとは思わないだろう。ヴァイスは内心で頭を抱えた。
そうして茫然としながらエマの名前を呼ぶ。
「あなたが好きなんです。純白の毛並みも、大きな手にある肉球も、人とは違うところも全部」
それでもエマはヴァイスへの好意を口にすることをやめなかった。
好かれていると知ってから十年、ようやくエマの口から紡がれた決定的な言葉だった。
ヴァイスが立ち尽くしている間にもエマは愛の言葉を口にしていく。
エマにとっては二十年以上の思いだ。その言葉のひとつひとつの重みが、ヴァイスの胸を締めつける。その熱に浮かされる。
エマの緊張が伝わった。ヴァイスも肉球にしっとりと汗をかいている。
エマの幸せを考えれば大人として断るべきだ。
それなのにどこか泣きそうなエマの顔を見ると、体が勝手に動いていた。
「ホンマにアホや」
強く、強くエマを抱きしめる。
エマの気持ちを断る理由はたくさんある。たくさんあるのに目の前で泣かれるのは耐えられなかった。
ヴァイスはとっくにエマのことが好きだった。
腕の中で甘い香りがする。かぶりつきたくなるのを耐えて、ぐるると唸り声が出る。
そんな中ヴァイスは必死に自分に言い聞かせる。
自分は獣人だ。獣ではない。せめてエマに触れるなら理性のある人として接したかった。
深く、深く息を吐く。
「……知っとったよ。エマが長いこと僕のこと好きなんは」
いつもエマの瞳が、表情が、声の全てがヴァイスを好きだと告げていた。
何年経とうが変わることのないそれが嬉しかった。そうして喜ぶ自分のことが嫌になった。
エマの幸せを願っておきながら、エマの気持ちを当たり前のように受け取る優越感を認めたくなかった。
けれど、もうヴァイスの負けだ。認めよう。
ヴァイスはエマが好きだ。愛している。ほかの誰にも渡したくないし、できるなら自分が幸せにしたい。
絆されたのだと笑ってくれていい。
だけれどこんなにも長い間、自分のことを愛してくれる人がいて絆されない者がいるのならヴァイスはそいつの顔を見てみたかった。
どんな理性の化け物ならそうなるのだろう。どうしたらヴァイスは、そうなれたのだろう。
けれど、ヴァイスは理性の化け物にはなれなかった。なれなかったから、答えよう。
「好きやで、エマ」
ヴァイスは笑ってそう言う。
エマの草原の色をした瞳がゆれて、きらきら輝いた。
ぺろり、とその眦に浮かんだ涙を舐めとる。そうすれば驚きでエマの涙は引っ込んだようだった。
「こんなオッサンに捕まってしもて可哀想な子やで、ホンマ」
可愛い、可愛い、可愛くて可哀想なヴァイスだけのエマ。
そんなエマを愛している。愛してしまったから、ヴァイスは残りの自分の人生もなにもかも、その全てをエマに捧げよう。
エマがヴァイスを見上げて、それから草原の色をした瞳を閉じた。
その美しい人にヴァイスは、そうっと顔を寄せる。アルコールに混ざって甘い香りがした。
その香りに酔いながら思う。ヴァイスはエマの傘になろう。
エマに降りかかるどんな不幸も理不尽も、苦悩だってすべてヴァイスが代わりに受け止めよう。
エマが幸せであるように。ずっと笑って日々を過ごせるように。
今夜の美しい月にそう誓って、ヴァイスはただ愛おしい人に口づけた。




