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ヴァイスの日常 後編

 ヴァイスがあの小さな街に戻ってきたのは旅立ちの日から五年後、ヴァイスが二十八になったときだった。


 冒険をしたのはたったの五年だったけれど、その中でヴァイスは本当にたくさんの経験をした。

 火を吹くドラゴンに、モンスターだらけの金銀財宝が眠る迷宮。荒々しい海に棲むクラーケン、倒しても倒れない墓所のアンデッド。

 物語の中でしかありえないと思っていた大冒険をして、気がつくとヴァイスの冒険者ランクは国内でも数人しかいないAランクになっていた。


 正直、楽しいだけの冒険ではなかった。

 辛いことも苦しいこともあった。命の危険だって何度もあった。

 けれどヴァイスが挫けることがなかったのは揺るぎない冒険への憧れと、可愛い妹分との約束があったからだ。


 怪我なくあの街へ帰ること。

 あの約束こそがヴァイスにとって心のよりどころだった。


 ランクも上がった。憧れの大冒険もした。

 夢を叶えたヴァイスには、もうこれ以上なにも望むことはなかった。

 国からは王都に留まってほしいと言われたけれど、その提案には首を横に振った。

 王都での暮らしより、あの小さな街での穏やかで自由気ままな暮らしの方がヴァイスに合っている。

 冒険を終えてからは、より強くそう思うようになった。


 それにヴァイスにはもっと大事なことがあった。

 怪我なくあの街へと帰り、エマとの約束を果たさなければならない。

 そうしてあの小さな街にたどり着いたら、もう本当にそこでヴァイスの冒険は終わりにしようと思った。

 これからは軽い依頼をこなしたり商売をしたり、とにかくあの地に根を下ろして生きようとヴァイスは思ったのだ。


 そしてそう思ったヴァイスは久しぶりにあの小さな街に帰ってくると、まずは冒険者ギルドを訪れた。

 冒険者ギルドは、初めて街に来たあの日と同じようにヴァイスのことを受け入れてくれた。

 さすがに受付の女性は別の人へと変わっていたけれど。


「Aランク冒険者のヴァイス様ですね。この街ではヴァイス様のランクに見合った依頼はありませんが」

「ええねん、ええねん。もう大冒険を夢見る年とちゃうしな。好きな街で暮らしたいだけやねん」


 そう言ってヴァイスは、やたらと自分に好意的な視線を向けてくる冒険者ギルドの受付嬢を見た。

 Aランクになってからヴァイスにすり寄ってくる人間が増えた。けれど、これはもっと純粋な好意だ。

 まだ少し幼さを残した女性。茶色の髪をひとまとめにして、金縁の眼鏡をかけている。

 ふと、そのレンズの向こうにある草原の色をした瞳を見てヴァイスはまばたいた。


「……もしかしてエマ、か?」


 久しぶりに口にした妹のような子の名前に受付嬢の女性は拗ねたように頰を膨らませた。

 女性がじと、とヴァイスを見る。


「帰ってくるのも気づくのが遅いですよ、ヴァイス様」


 肯定の言葉にヴァイスは衝撃を受けた。人間の成長のなんとはやいことか。

 あの小さかったエマがまさか冒険者ギルドの受付嬢をしているなんて、思っても見なかったことだった。

 化粧と香水の匂いで気がつかなかったけれど、そういえば目の前の女性からはたしかに懐かしい匂いがした。

 いや、それよりもだ。


「ヴァイス様ってやめてえや、なんやゾワゾワするわ」

「ギルド職員として、高ランクの冒険者様を敬わないわけにはいかないので」

「僕がええ言うてるんやからええやろ……あ、せや飴ちゃんいるか?」


 なんとなくエマと離れてからも持ち歩き続けていた飴を差し出す。

 するとヴァイスの予想と反してエマは困ったように笑って、首を横に振った。


「ヴァイス様、私もう子どもじゃないんですよ」

「さ、さよか」


 ヴァイスはもうフルスイングしたバットで頭を殴られたような心地だった。

 そして五年間で物理的にも精神的にも開いたエマとの距離感に耐えられず、ふらふらと冒険者ギルドを後にした。


 ヴァイスはその日、どうやって自分が宿屋にたどり着いたのか覚えていない。

 ただ、浴びるようにエールを飲んだことだけは覚えている。




 それからヴァイスはその街に家を買って、たまに依頼をこなす生活を始めた。

 ついでにギルド長に頼まれて、後進の育成なんてものを月に何度かやっている。


 エマは変わったようで、変わっていなくて、それでいて大きく変わっていた。

 街でヴァイスを見かけると駆け寄ってくるのは相変わらずだったが、もう足にしがみついたりはしなかった。

 ただ今のエマは、少し世間話をして去っていくのだ。

 その表情で、仕草で、声でヴァイスのことを好いていると告げながら。


 明確に好意は告げられていない。けれど、獣人で人間よりも五感が鋭いヴァイスにはそれがわかってしまった。

 けれど、と思う。今のエマは十六だ。

 それくらいの年代によくあることだろう。憧れを好意と勘違いしてしまう、なんてことは。


「……ま、今だけやな」

「ヴァイス様?」

「すまん、ぼうっとしてたわ。それよりも、せめてギルドの外は様付けやめてえや」

「……じゃあ、ヴァイスさんで」


 相変わらず遠いなあ。

 たった五年で遠ざかってしまったエマとの距離は今日も埋められそうになかった。

 ヴァイスは思わず遠い目になる。


 その形がどうであれエマから好かれているのは間違いないはずだ。

 それなのにヴァイスには、どうしてエマが以前のように自分に接することをやめてしまったのかわからなかった。

 以前の付き合い方のほうがヴァイスとの距離を近づけることができるのに。


「人間って難しいわ」

「そうですか?」


 首を傾げるエマの頭をヴァイスは優しく撫でる。

 エマは以前よりも背が伸びていて、随分と撫でやすくなっていた。


 頭を撫でられたエマはきょとんとして、それから笑った。花がほころぶようだった。

 子どものころのエマとは違う、大人と子どもの狭間にいる美しい少女の笑みだった。

 けれどすぐにハッとしたエマは、拗ねたように唇を尖らせてみせた。


「もう、子ども扱いしないでください」

「十六は子どもや。飴ちゃんやろか?」

「いりません!」


 怒った顔をしたエマがヴァイスにくるりと背を向ける。どうやら今日はもうお別れらしい。

 それを少し寂しく思いながら去っていくエマを見ていれば、エマが振り返った。

 そうしてエマは大きくヴァイスに手を振る。

 ヴァイスもそれに手を振り返すと、エマは嬉しそうに笑って駆けていく。


「エマー! 走って転ぶなや!」


 口に手を添えて、ヴァイスはその背中に声をかけた。

 その言葉にもう一度ヴァイスの方を振り返ったエマは、べっと舌を出した。

 そしてレモンイエローのスカートを翻して、石畳の道を軽やかに駆けていった。


「……子どもの、憧れやんな」


 好意を向けられるのは嬉しい。けれどエマは妹のような子だ。

 それにAランクのヴァイスに対する憧れを恋と勘違いしているだけで、今に同年代の冒険者に目を向けるはず。

 それを少し寂しいと思ってしまうのは、きっとヴァイスの兄心に違いなかった。




 そうしてヴァイスはそんな生活を十年続けた。

 十年続けるうちにその街の冒険者ギルドのギルド長なんて面倒な役割も押しつけられてしまったが、それでも充実した生活だった。

 エマのことを除いては。


 エマは、なにをどうしたのか十年経っても変わらずにヴァイスを思っているようだった。

 ぐぬぬ、とヴァイスは頭を悩ませる。


「どうしたもんやろか」

「ギルド長?」

「ああ……いや、この書類どないしよ思て」

「それはあとギルド長の判子だけですよ」


 テキパキと書類の山を仕分けしていくエマが言う。その横顔はすっかり大人の女性になっていた。

 それを見てヴァイスは息を吐く。

 エマはきれいになった。それは見た目だけの話ではなく、心根だってそうだ。

 エマは、美しい。兄のようなものとして自信を持ってそう言える。

 だからこそヴァイスなんかに無駄な時間を使うのはやめて、はやく幸せになってほしかった。


 そういえば、と先日見た光景を思い出した。

 なんてことないように、雑談のつもりでヴァイスはエマに問いかけた。


「なあ、エマはええ人おらんの」

「……なんですか、急に」

「この間、Cランクの冒険者に告白されとったやろ。まあエマに告白するなら最低でもBランクは欲しいとこやけどな」


 そんなヴァイスの言葉にエマがきゅうっと眉根を寄せる。

 まるで泣くのを耐えるようなその顔にヴァイスの胸が痛んだ。


「その質問、セクハラですよ」

「え、ホンマに?」

「そうです。二度としないでください」

「……おん」


 エマに幸せになってほしい。

 ヴァイスの願いはそれだけだ。それだけなのに、どうしてうまくいかないのだろう。


 無言で書類を仕分けるエマを見る。

 下を向いていたせいで落ちてきた横髪をエマが耳にかけた。

 ヴァイスはそっとエマから視線を逸らして、窓の外を見る。今日はいい天気だった。


「なんや、ままならんなあ」


 ぽつりとヴァイスがこぼす。

 よく磨かれた執務室の窓には複雑な顔をしたヴァイスが反射していた。

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