ヴァイスの日常 前編
獣人というのは基本的に自分が生まれた集落から出てくることはない。だから、集落の外にいる獣人というのは変わり者だけだ。
ヴァイスもそのひとりだった。
ヴァイスは幼いころ、たくさんの英雄たちによる冒険譚をよく読んでいた。
火を吹くドラゴンに、モンスターだらけの金銀財宝が眠る迷宮。荒々しい海に棲むクラーケン、倒しても倒れない墓所のアンデッド。
英雄たちが華麗に、そして颯爽とそれらを倒して活躍する物語が大好きだった。
そんな大冒険にヴァイスは憧れた。だからヴァイスの遊びは、いつも冒険者ごっこだった。
ヴァイスは十六で住んでいた集落を飛び出した。ごっこ遊びではない、本物の冒険者になるためだ。
そのころのヴァイスは、現実では物語のような大冒険は起こらないのだとわかっていた。
わかっていたけれど、幼いころから抱きつづけてきた冒険への憧れを止められなかったのだ。
そうして集落から飛び出したヴァイスは、初めてたどり着いた街で知った。
獣人という存在はあまり人間に歓迎されていないらしい、と。
「まさか冒険者登録もできんとはなあ」
がっくりと肩を落としながらヴァイスは冒険者ギルドを出た。
そして周りから向けられる奇異の目、怖がる声、好意的でないそれらを人間より何倍も優れた聴覚や視覚が的確に拾い上げた。
思わず顔をしかめる。毛に覆われた自分が顔をしかめたところで、人間にはわからないだろうが。
「俺これからどないしたら……いや、とにかく金や。金を稼がんと」
そうして冒険者になりたかったのに冒険者にもなれず、今さら集落にも戻れない中途半端なヴァイスは、どうにか雇ってもらえる日雇い労働を探して路銀を稼ぎ、ふらふらと二年間を過ごした。
「ほっホンマに登録してくれるんですか!」
集落を出て二年、ヴァイスはようやく冒険者登録してくれるギルドに出会った。
一年を通して温暖な気候の、海がほど近い場所にある小さな街の冒険者ギルドだ。
「ええ、冒険者は犯罪者でなければ誰でも登録できますので」
怪訝な顔をした受付嬢が頷く。
今まで犯罪者と同列に扱われていたという事実に落ち込むが、ようやく夢を叶えられることにヴァイスは心を躍らせた。
「そ、そうですか。あの、ほんなら登録お願いします」
そうして受け取った冒険者カード。
ランクは最低ランクのFだが、間違いなくヴァイスは冒険者になったのだ。
宿屋のベッドに寝転がりながらヴァイスは冒険者カードを眺める。
今日はもうギルドの窓口が閉まるから実際の依頼は明日ということになったが、それでもヴァイスには十分すぎた。
「……それにしても変な街や」
海が近いからよそ者に寛容なのだろうか。それとも温暖な気候が人を穏やかにさせるのだろうか。
とにかくこの街の人は、好奇の目こそヴァイスに向けてくるが、そこに嫌悪感はなかった。よそ者の、しかも獣人のヴァイスをあっさりと受け入れてしまったのだ。
今日泊まっているこの宿屋だってそうだった。
今までだったら何軒も宿屋を回って、ようやく泊まらせてもらえるところを見つけられればいい方で、よく野宿だってしていたのに今日は一軒目であっさりと決まってしまった。
「とにかく、しばらくは依頼をこなしてランク上げやな」
この小さな街ではヴァイスが思い描いていた冒険はできないのかもしれない。
それでもランクを上げて、もっと大きな街に行けばその夢だって叶うはずだ。それにランクを上げれば、いくら獣人とはいえ対応も変わってくるに違いない。
ヴァイスの冒険は始まったばかりなのだ。
そうして期待に胸を膨らませて眠ったヴァイスだが、深夜に宿屋の主人に叩き起こされることとなった。
なんでも冒険者ギルドからのランク制限のない緊急依頼らしい。
初めての依頼が緊急依頼。胸を弾ませてヴァイスは冒険者ギルドへと向かった。
「いなくなったのはエマ、六歳。街にはいないのでおそらく森の中にいると思われる。夜の森には獣が出る。冒険者諸君には、はやくエマを見つけ出してほしい」
冒険者ギルドに行ってみると緊急依頼だなんて大仰なことを言っていたのに、実際には迷子探しのようだった。
ヴァイスはがっくりと肩を落とす。正直、もっと危険な依頼だと思ったのだ。
「あの、みなさん……こんな依頼で申し訳ありませんが、エマをよろしくお願いします」
そうしているとギルド長に続いて冒険者たちに声をかけた男性が頭を下げた。
ヴァイスの嗅覚が彼の汗のにおいを拾う。
彼は、たくさん汗をかいているようだった。そして焦っている。よく見ると目の周りは赤くて、瞳は充血している。
きっと、エマという少女の父親なのだろう。
ヴァイスは両頬をパシンと叩いた。
なにが危険な依頼だ。これだって立派な依頼だ。
気合いを入れ直したヴァイスは、勢いよく手を上げる。
「ぼく、見つけられると思います」
なるべく人間を怖がらせないように、と変えてみた一人称。まだ口に馴染まないそれでヴァイスはそう言った。
冒険者たちの視線がヴァイスに集まる。
たくさんの視線に少し怖じ気づいたが、ヴァイスは言葉を続けた。
「お、僕、獣人なんで、においを辿ればすぐ見つけられます……せやから、その子の持ち物かなんかありますか」
エマのハンカチを借りたヴァイスは全速力で森を駆けていた。
ヴァイスは夜目がきくので、どれだけ速度を出そうとも問題はなかった。
「それにしたって暗いな」
木々が生い茂る夜の森は基本的に暗い。けれど今日の空には厚い雲が覆っていて、森の中は殊更に暗かった。遠くでは獣の鳴き声も聞こえる。
ヴァイスを恐れているのか近くに獣の気配はないが、これは人間の、それも小さな女の子なら怖いだろうなと思った。
そう思って、駆ける。
走って、走って、森の奥で茶色の髪をした女の子を見つけた。大木の根元でうずくまっている。
あれがエマだろうか。
ざあっと風が吹いた。厚い雲が散らされる。
月明かりが子どもの涙で潤んだ瞳をきらきらと輝かせた。
ヴァイスを見た子どもが大きな草原の色をした瞳をさらに大きく見開く。
目がぽろりと落っこちてしまいそうだなとヴァイスは思った。
「……おっきい、ワンちゃん?」
少女は何度かまばたいて、それから呟いた。
その言葉にヴァイスはがくりと肩を落とす。
怖がられなかったのはよかったけれど、自分は犬ではない。狼だ。
「ワンちゃんとちゃう。狼や」
「狼さん」
「おん。エマちゃんやんな? お、僕は冒険者のヴァイス。エマちゃんのこと迎えに来たんやで」
しゃがんで目線を合わせながらヴァイスがそう言えば、エマはその顔にぱっと喜色を浮かべた。
けれどすぐに眉を下げる。それにヴァイスは首を傾げた。
「どないしたん? 怪我でもしたんか?」
「ううん……あのね、お母さんとお父さん、怒ってた?」
「心配はしてたけど、怒ってへんよ。せやから僕と一緒に帰ろ」
「うん!」
そうしてヴァイスに飛びついたエマの手には風邪に効く薬草が握られていた。
エマを腕に乗せながらヴァイスが問う。
「誰か風邪ひいたん?」
「うん。お母さんにね、採ってきてあげたの」
「ほうか、エマちゃんは優しいなあ。でも、ひとりで森に入るんは危ないてわかったやろ」
「……うん、もうしないよ」
よほど怖かったのだろう。エマがぎゅっとヴァイスの胸元にしがみついた。
その背中をぽんぽんと軽く叩いて、来たときもかなりゆっくりとヴァイスは森を走った。
「ヴァイスはどうやってエマを見つけたの?」
「僕は獣人やから、エマちゃんのにおいがわかんねん」
「……やっぱりワンちゃん?」
「ワンちゃんちゃうで」
ヴァイスの腕の中でエマがくすくすと笑う。
獣人であるヴァイスを怖がる様子を見せないエマに、ヴァイスは内心ほっとした。
エマがヴァイスの顎の下を優しく撫でる。温かく小さな手が触れるとくすぐったかった。
「ヴァイスはきれいね」
「ほうか?」
「きらきらで、エマのこと見つけてくれてかっこいい!」
「ありがとさん。エマちゃんはええ子やなあ」
もふ、とヴァイスの胸元に顔を埋めたエマがちらりとヴァイスを見上げる。
きらきらと草原の色をした瞳が輝いていた。
「だからエマ、ヴァイスのお嫁さんになりたい!」
そうして飛び出した言葉にヴァイスは、ぽかんとしてしまう。
それから噴き出した。女の子という生きものは人間も獣人も同じくませているものらしい。
「そら嬉しいなあ。エマちゃんが大人になったら頼むわ」
「約束ね!」
「おん。約束、約束」
そうして二人はいろいろな話をしながら森を抜けて、エマはそのうちにヴァイスの腕の中で眠ってしまった。
その図太さにヴァイスはまた笑って、腕の中で眠る温かでやわらかな子どもが無事であることが本当に嬉しかった。
初めて依頼。それはヴァイスにとって特別なものとなった。
「ヴァイス!」
それからエマは街中でヴァイスを見かけると駆け寄ってきて、その足にしがみつくようになった。
ヴァイスは自分の足にしがみつくエマの小さな頭を撫でる。
「エマは今日も元気やなあ。飴ちゃんやろか?」
「いる!」
ヴァイスもそれに慣れて、いつしかエマのために飴を常備するようになっていた。
街の人たちも二人を見て、またやっていると笑っている。
「せや、エマ」
「なぁに」
「僕もCランクまで上がったし、しばらくほかの街を回ろ思てな」
「えー! ヴァイスどっか行っちゃうの?」
ぎゅうっと足にしがみつく力が増した。ヴァイスはエマの頭を優しく撫でる。
この年の離れた妹のような存在になってしまったエマと離れるのはヴァイスも寂しい。
けれど、冒険をすることがずっとヴァイスの夢だったのだ。
「僕の夢やねん。冒険すんの」
「……帰ってくるって約束してくれる?」
「絶対に帰ってくるって約束したるわ。僕、この街が好きやから」
「じゃあ私のことは?」
不安そうに見上げてくるエマをヴァイスは抱き上げてくるくると回る。それからぎゅうっと抱きしめた。
ヴァイスの胸元でエマがきゃらきゃらと笑っている。
「もちろんエマのことは大っ好きやで!」
「あははっ私もヴァイスのこと大好き!」
それからエマはヴァイスの頰にキスをした。
ヴァイスはまばたく。
「ヴァイスが怪我をしないおまじない!」
エマはそう言ってはにかんだ。
ヴァイスは無言でエマの頭をこねくり回す。きゃあ、とエマの楽しそうな悲鳴が上がった。
ヴァイスは自分の腕の中にいるこの子どもが愛らしくて仕方なかった。
そして、決めた。
絶対に怪我をせずにこの街に帰ってくると、おませで可愛い妹分にヴァイスはそう誓った。
そうして次の日、ヴァイスは初めて自分を受け入れてくれた街を旅立った。
街に来てから五年、ヴァイスが二十三のときだった。




