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後編

 赤い顔をしたクラリッサがエールを呷る。それから空になったジョッキをテーブルに叩きつけた。


「わたしもっエマ先輩みたいに立派な受付嬢になりましゅ!」


 そう叫んだクラリッサに水の入ったグラスを用意しながらエマは苦笑した。

 忙しかった春が過ぎた初夏、冒険者ギルドの業務はすっかり落ち着いていた。

 そのためギルド長であるヴァイスの気遣いで、早い時間に退勤させてもらったエマとクラリッサは料理屋で飲むことにしたのだが、クラリッサは思ったよりもお酒が進んでいるようだった。


「私はただ長く勤めてるだけだから……はい、お水」

「ありがとうございましゅ」


 素直に水を受け取ったクラリッサは、中身を一気に飲み干した。

 ソーセージをつつきながらそれを見たエマは、水分だけでお腹が膨れそうだなと思う。

 そんなエマの心は知らず、クラリッサは両手をぶんぶんと振って力説する。


「でもでもっエマ先輩は受付のエースでしゅ!」

「クラリッサも随分と業務に慣れてきたわよね。いつも助かってるわ」

「えっしょんな! えへへ、ありがとうございましゅ」


 はにかんで頰をかくクラリッサにエマは目を細めた。クラリッサは本当に可愛い後輩だ。

 けれど、きっとクラリッサの方がエマより先にギルドを辞めてしまうのだろうなと思う。


 もともとギルドの受付嬢というのは入れ替わりが激しい職業だ。

 受付嬢の大半がそこで知り合った冒険者と結婚したりして辞めていく。長く勤めているエマの方が珍しいのだ。


 結婚。二十八歳のエマに重くのしかかるその言葉をエールで押し流して、息を吐いた。

 それからクラリッサに尋ねる。


「クラリッサ、迎えは頼んであるの?」

「はい! あの、えへへ、彼氏が心配だからって」


 水を飲んだおかげか少し酔いがさめたらしいクラリッサが嬉しそうに言った。

 アルコールとは違った熱でクラリッサの頰が赤くなっている。


「そうなのね。彼氏って、冒険者の誰か?」

「実はそうなんです。エマ先輩に一番に言おうって思ってて……聞いてくれますか?」

「もちろん。しっかり惚気ていいわよ」

「の、惚気だなんてそんな」


 それからクラリッサは二時間しっかりと惚気た。

 そして迎えに来たCランク冒険者のギルバートと一緒にアパートへと帰っていった。


「私も帰ろう」


 エマも家に向かって歩き始める。

 クラリッサもギルバートもエマを家まで送ってくれると言ってくれたが、エマの家はこの近くだし、なにより二人の邪魔をしたくなくて断った。

 エマはひとり夜道を歩く。


 コツコツとエマのブーツの足音が響く。

 店などが立ち並ぶ区画から住宅のある区画へと入ると急に静かになり明かりも減った。

 けれど夜道を歩くことに不安がないのは、今日が満月だからだろうか。石畳の道を月明かりが照らしてくれている。


「……あの日も満月だったな」


 エマはそう呟くと立ち止まって空を見上げる。まるまるとした月がきれいだった。

 それから軽く頭を振る。

 こんな感傷に浸るなんてクラリッサに釣られて飲み過ぎたに違いない。それか惚気に当てられたかだ。

 そう思ってエマが再び歩き始めようとしたとき、背後から声をかけられた。


「コラ、不良娘がなにしてんねん」


 エマは慌てて背後を振り返る。

 そこには月明かりに純白の毛並みを照らされたヴァイスがいた。


「ギルド長、どうして」


 エマがまばたいて、呟く。

 ヴァイスはガシガシと頭をかきながらエマの隣まで来ると、怒ったような顔をした。


「夜の見回りや。そしたら不良娘がフラフラひとりで歩いとって……ホンマ心臓に悪いわ」


 夜の見回り。それは冒険者ギルドが冒険者に直接依頼するものの一つだ。

 夜の街を危険や異変がないか見て回るというもの。

 だから冒険者でもないヴァイスがそれをしているはずはないのだが。


「……サボり、ですか?」


 たしかヴァイスは今日も今日とて処理すべき書類を溜め込んで、ひとり残業をしていたはずだ。

 けれどヴァイスひとりで、あの量をこの時間に終わらせられるはずがない。

 つまり、そのヴァイスがこの場にいるということは、それ以外に考えられなかった。


「…………まあ、世間様的にはそう言うんやろな」

「明日、手伝いますね」

「ありがとさんって、ちゃうわ。なにエマひとりで出歩いとんねん」


 先ほどまで、しゅんと耳を垂らしていたヴァイスが唸る。

 しかし、そこまで怒ることだろうかとエマはまばたく。

 街は冒険者たちが見回りをしているし、今日は満月で明るい。それにエマの家はすぐそこだ。

 けれどヴァイスはムスッとした顔のまま言った。


「女の子がこんな時間にひとりで歩いとったらアカンで。ほら、送ったるわ」

「ありがとう、ございます」


 女の子。それってどういう意味なのだろうとエマは少し複雑な気分になる。

 きっとヴァイスにとっては、なんの意味なんてないのだろうけれど。


「そう言えば、ギルド長は」

「今は仕事中ちゃうやろ、ヴァイスでええ。というか仕事のことは忘れさせてくれへんか」

「ふふっはい、ヴァイスさん」


 ぽつり、ぽつりと話をしながら二人で歩く。

 エマはこの時間が永遠に続けばいいと思った。家になんて、着かなければいいと本気で願っていた。

 そんな中、ふとヴァイスが呟いた。


「そういや初めてエマと会うた日も満月やったなあ」

「……えっ」

「エマは覚えてへんやろ。まだエマが六つか五つか、それくらいのときの話や」


 覚えている。もちろんエマは覚えている。

 まさかヴァイスも覚えているとは思わなかったが。

 緊張で震える唇を湿らせて、エマはゆっくりと首を横に振った。


「覚えてます。忘れられるはずがありません」

「ほうか?」

「ヴァイスさんこそ、忘れているものかと」

「僕こそ忘れられへんわ。あれは僕が冒険者になって初めて達成した依頼やからな」


 その言葉にエマはまばたいた。

 初めて達成した依頼。あれがそうだったとは、初めて知った。


 あれはエマが六つのときの話だ。

 母が風邪をひいて、それを心配したエマは薬草を採りにひとりで森に入ったのだ。

 たまに父と一緒に森に入って薬草を採取することがあるから、ひとりでも大丈夫だと思った。

 それよりも母のために薬草を持って帰りたい一心だった。


 けれどエマは結局森の中で迷って帰れなくなってしまった。夜ひとりで大きな木の下にうずくまっていたときの心細さといったらなかった。

 そうして、ときどき聞こえてくる獣の声に怯えて泣いているエマを救助しにきてくれたのが冒険者であったヴァイスだった。


 その瞬間をエマはよく覚えている。

 ざあっと風が吹いて雲の切れ間から月明かりが差し込んだ。

 そして銀色にも見える真っ白な毛並みをした美しい金色の瞳の獣を月が照らしたのだ。


 獣人は人間の何倍も優れた身体能力を有している。

 だからヴァイスはその嗅覚でエマを見つけたのだと教えてくれた。

 森からの帰り道、エマはヴァイスのたくましい腕の中でそれを聞いた。それを聞いて、たくさんの話をして、それで、


「……じゃあ、あの約束も覚えてますか」


 ぴたりと足を止めたエマが震える声で言った。

 あの日、エマとヴァイスはひとつの約束をしたのだ。森からの帰り道、エマにとっては大事な約束を。


 数歩先に進んでいたヴァイスは振り返ると頭をガシガシとかいて、困ったような顔をした。

 エマの問いへの返事はなかったが、それが答えだった。


「……エマ、あれは子どもの約束や」

「でも約束は約束です」

「せやけどなあ」


 ヴァイスは言葉を濁らせる。

 けれどこれはエマにとって、一世一代のチャンスでもあった。

 心臓がうるさい。エマはぎゅっと胸元を握りしめた。


「ヴァイスさんは、あのとき私が大人になったら結婚してくれるって言いました……私はもう大人です」


 森からの帰り道、エマはヴァイスに告白をしたのだ。一目惚れだった。

 それにヴァイスは答えた。大人になったら結婚したるわ、と。

 今のエマには、それが子どもをあしらうための約束だったのだとわかっている。わかっているけれど、エマはその約束に縋ることしかできなかった。


「エマ、僕といくつ離れてると思てんねん。僕、四十やで」

「そんなの、おじいちゃんとおばあちゃんになったら関係ありません」

「そもそも種族もちゃうねんぞ」

「獣人と結ばれる人間だっています」

「……僕はエマには幸せになってほしいねん。こんなオッサンにかまけて時間を無駄にしたらアカン」


 わかってくれるやろ、とヴァイスが首を傾けた。困ったように笑っている。

 エマは深く息を吸って、吐いた。


「あなたが、好きです」

「……エマ」

「あなたが好きなんです。純白の毛並みも、大きな手にある肉球も、人とは違うところも全部」


 エマはヴァイスをじっと見つめた。金色の瞳がゆらめていていた。


「私の名前を呼んでくれるその低くて優しい声も好きです。獣人だから周りを怖がらせないように、わざとおどけてみせるところも好きです。あの日、私を見つけてくれた優しいあなたが大好きなんです」


 初めてヴァイスを知ってから二十年以上が過ぎていた。

 この長い時間ずっとヴァイスが好きで、新しくヴァイスのことを知るたびに、よりヴァイスのことが好きになった。その時間が無駄だったとエマは思わない。

 ひとりの人をこんなにも愛することができてエマは幸せだった。それは、ヴァイスにも否定できないことだ。

 けれど、幸せになれと言うのなら。ヴァイスがそう言うのならエマに言えることは一つだけだ。


「あなたが好きです。ヴァイスさんを愛しています」

「……エマ」

「他の誰かじゃダメなんです。あなたじゃなきゃ私、幸せになんてっ」


 ヴァイスがエマを強く抱きしめた。どちらのものともわからない鼓動が激しく響いている。

 エマもヴァイスの背に手を回したが届かず、脇腹のあたりの服をぎゅっと握りしめた。


「ホンマにアホや」

「……アホってなんですか」

「エマのことちゃう。僕のことや」


 ぐるる、となにかを耐えるような唸り声がした。

 それから深い深いため息が降ってくる。


「……知っとったよ。エマが長いこと僕のこと好きなんは」

「えっ」

「獣人は目も鼻も人間の何倍もええんや。嘘も好意も、怖がられとるかも、誰になにを思われてんのか大体わかんねん」


 抱きしめる腕の強さを少しゆるめたヴァイスが体を少し離して、エマの瞳を見ながらそう言った。


「じゃあ私の気持ち全部筒抜け」

「せやね」

「……私の我慢し続けた二十年って一体」


 絶対にヴァイスからイエスと答えてもらえるチャンスを狙ってずっと告白を我慢し続けていたのに、まさかエマの気持ちが本人に筒抜けとは思わないだろう。

 がくり、と肩を落とすエマを見てヴァイスが静かに笑った。


「ただ僕もアホやから、そないに思われてつい絆されてしもてん」

「えっ」


 エマはじっとヴァイスを見つめる。

 それはつまり、ヴァイスもエマのことを思ってくれているということだろうか。


「せやけどエマはまだ若いやろ? こんなオッサンに縛りつけるんは可哀想でな。いつか諦めてくれる、そう思てたらあっちゅう間に何年も過ぎてしもて」

「……私、ヴァイスさんを諦めたりなんかしません」

「せやなあ、根負けして僕の方が諦めてもうたわ……ホンマ、こんなオッサンたぶらかして悪い子やで」


 そう言ってヴァイスがエマの頭を撫でた。

 風が吹いた。月がヴァイスを照らす。銀色にも見える純白の毛並みが風に揺れた。

 そして金色の瞳をした美しい獣が笑う。


「好きやで、エマ」


 エマの視界が滲む。すると、ぺろりと眦に浮かぶ涙を舐めとられた。

 それにびっくりしたのか涙が引っ込んだエマを見て、ヴァイスがくすくす笑う。


「こんなオッサンに捕まってしもて可哀想な子やで、ホンマ」


 そう言って金色の瞳を細めたヴァイスがエマをそうっと抱きしめる。

 エマはふかふかのヴァイスの胸元に顔を埋めながら言う。


「……ヴァイスさんはおじさんじゃありません」


 その言葉にヴァイスはまばたく。それから小さく噴き出した。

 そして、以前のやりとりをなぞるように言葉を紡ぐ。


「ホンマにエマはええ子やなあ。飴ちゃんやろか?」

「いりません。子ども扱いしないでください」

「もうせえへんよ。エマは僕の大事な女の子や」


 エマはヴァイスを見上げて、それから草原の色をした瞳を閉じた。そうっと二人の唇が触れる。

 その日、エマの長い長い初恋がようやく叶ったのだった。

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