13.5
最初に違和感を覚えたのはいつだっただろう。
目の前で紅茶を飲むエマを見て考える。
ふと、視線がぶつかった。草原の色をした瞳が柔らかく細められる。
「どうかしましたか?」
カップをソーサーに戻したエマが首を傾げる。それにヴァイスも笑みを返しながら軽口をたたく。
「なんも。今日もエマはかわええなあ思て」
「……バカなこと言ってないで、はやく朝ご飯食べちゃってください。遅刻しますよ」
「バカはやめてや、バカは。アホにしてや」
「はいはい、わかりましたから」
そう言いながら残りのトーストを口の中に放り込んだエマに口元がゆるむ。わかりやすい照れ隠しだった。
エマの赤くなった耳を見ながらヴァイスも三枚目のトーストを完食する。幸せだった。
そう、幸せだ。幸せなはずなのに、どこか違和感を覚えていた。
「僕って、幸せやんなあ」
執務室で今日も今日とて書類に追われながら呟く。そうすると、机の上に書類を増やしたジェラルドが白けた目つきでヴァイスを見た。
「貴方がマリッジブルーですか? そんな情緒があったのですね」
「もしかして人間って、人を傷つけること言うたらアカンって学校で教わらんの?」
「おや、失礼しました。本音がつい」
「もっとアカンやつやんけ」
新たな書類に渋々サインをしながら会話を続ける。エマと密室になるような場所で二人きりにならないという決まりができてから、ヴァイスの手伝いは専らジェラルドの役目だった。
「そういえば指輪はご用意されるので?」
「結婚指輪な。式の前にエマと選びに行こて話てんねん」
「いえ、婚約指輪です」
「えっいるん?」
「プロポーズの際に用意される方も多いですよ」
盲点だった。まさか婚約の時点で指輪が必要とは。そもそもエマとヴァイスは、なし崩し的に婚約してしまったのでプロポーズもしていない。
「……そのせいなんかな」
「どうかされましたか? 私でよければ、またご相談に乗りますが」
「あー、せやな」
ヴァイスはガシガシと頭をかく。ジェラルドに相談すればヴァイスの悩みはきっと解決するのだろう。けれど。
「これはええわ。たぶん僕が考えなアカンことやから」
「そうですか。では、こちらにもサインをお願いします」
そうしてまた一つ、書類の山を作るジェラルドにため息を吐く。とにかく仕事を終わらせなければ悩むこともできないようだった。
ひとまずヴァイスは、街の工房で指輪のサイズ直しを頼んだ。昔、迷宮で拾った金の指輪だ。デザインはシンプルなものだからエマにも似合うだろう。
そして雰囲気のいい場所でプロポーズをする。そうすればこの違和感は解消するはずだ。たぶん。
「……エマが来るようになって物増えたな」
ぐるり、と部屋を見渡して呟いた。
いずれはエマと一緒に住むつもりだが、今は週末だけ泊まりに来てもらっている。それだけなのに随分と家に物が増えた気がする。
ヴァイスの家は机と椅子、ベッドだけしかなく、寝るためだけに帰る家だった。それなのに今は調味料や食器、エマの服、可愛いからと言って買った観葉植物が置かれていて、ちゃんと生活をしている家になった。
エマが来るようになって、この家には物と一緒にたくさんの色が増えたのだ。
「あー、はよ一緒に住みたいわ」
週末の幸福を思い出して目を細める。
エマとたくさんの時間を一緒に過ごせることは幸せだった。きっと結婚すればもっとたくさんの幸せがあるのだろう。
そう、結婚すれば。
「……結婚」
何か引っ掛かる。結婚、そう結婚だ。
エマとヴァイスは結婚をする。けれどそれは今すぐにではない。今は婚約をしていて、籍を入れるのは一年後だ。
「結婚やなくて、婚約……エマは、もしかして僕、無理矢理に納得させてしもた?」
エマはずっとヴァイスと結婚をしたいと言っていなかっただろうか。付き合いたいでもなく、婚約したいでもなく、結婚がしたいと。
自分でも傲慢な考えだとは思うが、ヴァイスと結婚することがおそらくエマの長年の夢なのだ。ということは、今の婚約期間はエマにとって寄り道でしかない。
夢だった冒険者になりたかったのに登録ができず、ふらふらと過ごした二年間。その寄り道をヴァイスは辛いと思った。辛いと思ったのにエマに今、そのときの自分と同じ思いをさせてはいないだろうか。
最初に婚約の話をエマにしたとき、エマはどんな顔をしていただろうか。ヴァイスの婚約者と呼ばれるたびにエマはどんな表情をしていたのだろう。
「……最悪や」
人のせいにするのは最低だが、ジェラルドの言葉ですっかり勘違いしてしまっていた。
ジェラルドは、エマはヴァイスに甘いからゴリ押しすれば問題ないと言っていたが、それは違う。エマはヴァイスが知る中で最も自分の意思を曲げない人間だ。それがたとえヴァイス相手でも、だ。
その結果ヴァイスは絆されてしまったのに、どうして忘れていたのか。エマがわりとあっさり婚約について納得してしまったからだろうか。
思わず口から呻き声が出る。
エマの将来のため、ギルドのため、そんな尤もらしい言葉を並べ立てて、今のエマの気持ちを無視してしまった。
それはエマを幸せにするという誓いに反した行いだ。
「せやけど婚約はしとかなアカン」
婚約を発表してしまった後であるし、ヴァイスがギルド長で、エマがギルド職員である限りやはり婚約は当初の予定通り一年間しなければならない。当初の予定と違うことをすれば、せっかく抑えられた悪い噂が出かねないからだ。
「……そういや婚約の話を考えたんは、ジェラルドやって気づいてたな」
つまり、エマもギルドのためを思えば婚約が一番いい手段だと考えついたのだ。それなのにエマはあのとき、ギルドを辞めるという選択肢しかヴァイスに提示しなかった。
エマは最初からヴァイスと結婚したいと言っていて、そのための行動をしようとしていた。それを無理矢理に押さえつけたのはヴァイスだ。
「ホンマに最低や」
ここからどう挽回すればいい。どうすれば今のエマの気持ちも掬い上げることができるのだろう。
ヴァイスは考える。これはきっとヴァイスが考えなければならないことだった。
そうして答えが出せないまま季節は夏になった。サイズ直しが終わった指輪はいつも持ち歩いている。
そして、その日が来た。領主による冒険者ギルド視察の日だった。
「輝くオレと太陽、海そしてエマ嬢! 港町で婚約者と過ごす夏の思い出、素晴らしいとは思いませんか?」
王都の寄宿学校に通う前のたった一年間だけ護身術を教えた自称一番弟子の発言にヴァイスの耳がピクリと反応する。これだ、と思った。
港町でエマにプロポーズをする。たしか海に沈む夕陽がきれいに見える花畑があったはずだ。
「……お前はいらんけど、まあ、それはそうかもしれへんな」
そこでジェラルドとヴァイスの謀ではない婚約をするのだ。
すぐには結婚はできない。ヴァイスはどうしてもエマの夢をすぐには叶えてあげられない。けれど、それならせめて二人で決めた寄り道にしよう。
それならきっと今よりも少しだけだが、エマの気持ちに寄り添うことができるはず。
自分が決めたことを絶対に曲げないエマがヴァイスは好きだ。おとなしそうな顔をして微笑みながら、自分の意見を通しきるところも好きだ。真面目で頑固で、面倒でそこが可愛いと思う。
だからそれで悩んでいるなら、その気持ちごと掬い上げたい。全部拾ってエマごと大事に抱えたい。
それにもし、これがダメでも他の方法をまた試せばいいだけだ。何度も何度でも、エマの気持ちが晴れるまで。
そう決めて、ヴァイスはエマと一緒に港町へ行くことにしたのだった。




