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エマは冒険者ギルドの夏の制服に袖を通す。半袖の襟付きワンピースだ。色は白とネイビーの二種類があり、エマはネイビーを着用している。
「ヴァイスさん、もう出れますか?」
「おん、ちょお待ってや……ネクタイこれでええ?」
「待ってください。ちょっと曲がってます」
少し屈んだヴァイスの首元に背伸びをしたエマが手を伸ばす。そして歪んだネクタイを整えて、ついでにその頰に口づけた。
「はい、大丈夫ですよ」
「おおきに」
そう言ってお返しをするようにヴァイスもエマの頰に口づけた。くすぐったくて笑い声がもれる。
いつからか週末はヴァイスの家で一緒に過ごすことが決まりになった。そして、そこから一緒に通勤することも。
実際のところ、もう一緒に住んでもいいと二人は思っているのだが、エマの住んでいるアパートの更新が秋にあるので、本格的に一緒に住むのはそれからにしようということになったのだ。
ちなみにエマの家で過ごさないのは、ヴァイスの体が大きすぎてエマの家にあるシングルサイズのベッドに収まりきらないからである。
「じゃあ行きましょうか」
「おん」
玄関を開けて二人は外に出る。太陽の光が燦々と降り注ぐ。季節はすっかり夏へと移り変わっていた。
エマはレースの日傘を広げる。小さな日陰ができて、少し暑さが和らいだ。
「ええなあ。僕も買おかな、日傘」
「今日のヴァイスさんは特に暑そうですもんね」
「せやねん。ホンマ勘弁してほしいわ」
今日のヴァイスは明るいネイビーのスーツを着用している。通勤中の今はさすがにジャケットを脱いでワイシャツも腕まくりをしているが、普段ネクタイをしていない分、首周りが詰まっていて暑そうに見える。
「領主様がお見えになるんでしたよね」
昨年、家督を継いだばかりの領主様だ。
まだ二十二歳という若き領主様だが、優秀な人物だと聞いている。今日はそんな領主様が朝から冒険者ギルドの視察に来ることになっていた。
ふと、エマはヴァイスの返事がないことに気がつく。
日傘を避けて、そちらを見上げれば思いきり顔をしかめたヴァイスがいた。
「ヴァイスさん、どうかしましたか?」
「……いや、なんも。どうせ別邸のある港町に行く前に寄るだけやろうし、午前中には終わるやろ」
この街よりも海辺にある港町には領主様の別邸がある。領主様は夏の間そこで過ごすのが慣例だった。
その町には冒険者ギルドの支所もあり、たしかヴァイスはギルド長として毎年視察に行っていたはずだが。
ちらり、とヴァイスを見る。やはり顔をしかめている。
「ヴァイスさんも言った通りすぐ終わりますよ」
「……せやなあ」
きっと領主様の視察が面倒なのだろう。そう思ってエマはヴァイスを励ましたのだが、残念ながらあまり響かなかったようだ。
ここはもう思いきって話題を変えよう。
「そういえば、今日から食堂で新しい味のシャーベットが発売されるらしいですよ」
「えっホンマに?」
ヴァイスの弾んだ声が返ってきた。
これで甘いもの好きを隠しているつもりなのだから本当に可愛い人だ。エマはくすくすと笑う。
「どないしたん?」
「いえ、なにも」
揺れるヴァイスの尻尾の風を感じながら、エマはまた笑った。
「わたし領主様の視察って初めてなんですけど、結構かかるんですね」
ギルド長の執務室を眺めていたクラリッサがエマにそう耳打ちした。
時刻はもうすぐ十二時。視察はまだ終わっていなかった。
「いえ、去年まではそうでもなかったわ」
エマも執務室の方を見て首を振る。
今日はギルドを訪れる冒険者が少なかった。時間があると余計なことを考えてしまう。クラリッサもそのようだった。
「なにか問題があったんでしょうか」
「さあ……でも、私たちは私たちの仕事をしましょう」
「はい!」
ぱちん、と手を叩いてクラリッサの意識を切り替えさせる。受付の仕事は少ないが、依頼の整理などやることはあるのだ。
エマも冒険者名簿を整理しようと名簿に手を伸ばした。
「エマさん、少しよろしいですか」
そんなとき聞こえてきた声に振り返ると、副ギルド長のジェラルドがいた。なんだか困った顔をしている。
たしか副ギルド長も視察の対応で執務室にいたはずだけれど。
首を傾げながらエマは頷いた。
「はい。どうかされましたか?」
「申し訳ありませんが、一緒にギルド長の執務室に来てください」
エマはまばたく。
受付である自分がなぜ。そう思うけれど上司の言葉に逆らう気はない。クラリッサに後を任せて、ジェラルドに着いて執務室に向かった。
肩口で切り揃えられたプラチナブロンドにアイスブルーの瞳を持つ美しい人。この地を治める領主様、エリオット・アスター子爵だ。
装飾過剰な服を着ているが、美しい顔のおかげで違和感はない。エマはなぜか執務室でそんな領主様と対面していた。
「貴女がエマ嬢ですね」
「はい、冒険者ギルド受付のエマです」
エマは深々と頭を下げた。そして頭を上げる。
頭を上げると執務室のソファーに腰掛けていたはずの領主様が目の前にいてぎょっとした。
そうして領主様の美しい手に両手を取られるとブンブンと上下に勢いよく振られる。
「いやいやいや、やはり先生の婚約者! 聡明そうな女性ですねぇ」
「あ、あの」
「ああ、先生とオレの関係ですか? いいでしょうとも、いいでしょうとも。ぜひとも語りましょうとも。あれはオレが十歳のころでっ痛い!」
「いつまで人の婚約者にベタベタ触っとんねん」
呆れた顔をしたヴァイスが領主様の頭を叩いていた。それを見たエマは顔を青くさせる。
不敬だと、ヴァイスは処罰を受けるのではないだろうか。
「おっと、失敬失敬。すみません、いつまでもレディーの手に触れるべきではありませんね。それも先生の婚約者殿に!」
しかしエリオットは笑ってエマの両手を解放するだけだった。
エマはヴァイスの身に何も起こらずほっとする。
「あの領主様、よろしいでしょうか」
おずおずとエマが挙手をする。それを見たエリオットは首を傾げながら頷いた。さらさらとしたプラチナブロンドが揺れる。
「先ほどから、その、先生というのは?」
「よくぞ聞いてくれました、エマ嬢! 先生とはこの偉大な冒険者、ヴァイス先生のことですよ。そう、オレと先生の出会いは遡ること十二年前」
「長い長い。あともう僕は冒険者ちゃうし」
「……ひとまず、エリオット様はお座りになってはいかがですか?」
ジェラルドの言葉にエリオットはまばたくと、何事もなかったかのように優雅にソファーへと腰掛けた。それを見たヴァイスもその向かい側へと腰掛ける。
そしてジェラルドは扉付近で待機。エマは迷った末にジェラルドの隣に立つことにした。
「すみませんねぇ、つい先生のことになると自分を忘れてはしゃいでしまいまして」
「自分を思い出せてよかったな。ほなさっさと帰りや」
「ひどい! オレは先生と語らうために朝から視察の予定を入れたんですよ?」
「僕は語らうことないから視察は終わりやな」
きゃんきゃんと子犬のように吠えるエリオット。それを見てエマの脳裏にとある言葉が過る。領主様は残念な美形だと。
そして二人のやりとりを見ていて、気になったことがあった。
「あの、副ギルド長……ギルド長の言動は、その、かなり不敬かと思うのですが、いいのでしょうか」
小声でエマはジェラルドに話しかける。ジェラルドは小さく頷いた。
「ギルド長は過去にエリオット様に護身術の指導をしていたらしく……そのためエリオット様はギルド長のことをかなり慕われているようですね」
「ああ、だから先生なんですね」
「ええ、そのようです」
先生の謎は解決した。だが、なぜ自分はこの場に呼ばれたのだろうか。
エマは再びジェラルドに話しかけた。
「副ギルド長、なぜ私は呼ばれたのでしょうか?」
「エリオット様がギルド長の婚約者を見てみたい、と……ギルド長は断っていたのですが、エリオット様が婚約者を見るまで帰らないと仰るので、エマさんには申し訳ありませんが私の判断でこちらに」
「ああ、それは……お疲れ様です」
エリオットとヴァイスの板挟みになっていたであろうジェラルドを思うとエマも胃が痛くなる。よく見るとジェラルドも胃の辺りをさすっていた。
「だから、一緒に行きましょう!」
「仕事があんねん。行かへん言うてるやろ」
「支所の視察をすれば良いいいじゃないですか」
「今年の視察は冬の予定やねん」
ジェラルドと話している間にエリオットとヴァイスの会話が白熱していた。
一体なんの話をしているのだろう。
そう思って二人を眺めていると、エリオットと目が合った。エリオットのアイスブルーの瞳が輝く。
そしてエリオットの長い人差し指がエマを指した。
「エマ嬢と一緒ならどうですか?」
「はあ?」
「輝くオレと太陽、海そしてエマ嬢! 港町で婚約者と過ごす夏の思い出、素晴らしいとは思いませんか?」
「……お前はいらんけど、まあ、それはそうかもしれへんな」
エマの登場でなにやらエリオットが優勢になったらしい。
隣のジェラルドを見る。額に手を当てて首を振っていた。どうやら話はよくない方向に進んでいるようだ。
「私、止めましょうか?」
「いえ、あれはもう止まりませんよ。それよりどう犠牲を少なくするかです」
そう言って顎に手を添えて考え込むジェラルド。
エマは邪魔にならないようにエリオットとヴァイスを眺めることにした。
「せやけどお前の別邸には泊まらへんで」
「そんな! 先生と夜通し語り合うというオレの計画は?」
「お前も領主の仕事あんねやろ」
「そんなもの先生を前にすれば些事!」
「……ホンマに領主の自覚あるんか?」
エリオットの別邸にヴァイスが招かれているのだろうか。そして、おそらくはエマも。それはさすがに遠慮したいところだが。
そのとき、考えがまとまったらしいジェラルドが動いた。白熱した議論を交わすエリオットとヴァイスに近づく。
「視察の予定を冬から夏へずらしましょう。ですが、出発は二日後。支所への連絡もありますし、まずは今ある仕事をきちんと終わらせてからです」
「おお、副ギルド長は話がはやくて助かります」
「ですが、視察の期間は三日。視察ですから宿泊は港町のホテル。エマの同行は彼女の意思次第です。お二人とも、それでよろしいですか?」
有無を言わせぬ迫力があった。ジェラルドの言葉にエリオットもヴァイスもおとなしく頷いている。
エマは心の中でジェラルドに喝采を送っていた。副ギルド長への信頼が増した瞬間である。
そうしてその二日後、エマはヴァイスと一緒に駅にいた。




