第3話 お尻を触ったのは彼じゃない
――わぁ、本当に幽霊がでそう……。
思わずゴクリと唾をのむと、オルフェルが片手を差し出してきた。
「……手つなぐ?」
「大丈夫。いこう」
気恥ずかしさが先に立ち、慌てて即答してしまう。
けれど、塔の入り口の扉をくぐると、すぐに少し後悔した。
外の冷たさとは違う、不気味な冷気が漂っていたのだ。
また不気味な音が響いてきて、背筋にぞくっと悪寒が走った。
――怖すぎる……。なんか視線みたいなの感じるし……。だれかに見られてるのかな……?
「やっぱり、手つなぐ? 迷うとあぶねーだろ」
「別に、迷わないもん……」
私は拳を握りしめて、キョロキョロと周りを見回しながら、慎重に一歩踏み出した。
オルフェルは不満そうに頭を掻きながら、私の後ろをついてくる。
幽霊塔の内部は真っ暗だけど、所々に魔法ランプがあった。
オルフェルが小さな火炎球を飛ばして火をつけると、ほのかな光を放ちはじめる。
思いのほか部屋数が多く、複雑な造りだ。
入り組んだ通路沿いに、「○○実験室」とプレートのついた扉が並んでいる。
魔法研究の分野は多岐にわたるため、専門やチームごとに部屋が分かれているのだろう。
「幽霊、いないね……」
「噂では塔に近づいただけで脅かされたらしいけどな」
「時間が遅すぎたのかな……?」
幽霊が生徒のいたずらだとすれば、すでに犯人は寮に帰っているかもしれない。
少しだけ気を抜いた瞬間、背後から冷たい感触に手首を掴まれた。
反射的に「きゃ!?」っと声が漏れる。
振り返ると、オルフェルが目を丸くして立ち尽くしていた。
「手はつながないって言ったでしょ? びっくりするからいきなり触らないで」
「え? 触ってねーよ?」
「腕掴まれたもん」
「俺じゃねーし」
私が怒りながら見あげると、オルフェルはますます不満げに顔をしかめた。
口が思い切りへの字に曲がっている。
少し冷たく言いすぎただろうか。だけどここには、オルフェルしかいないのだ。
「いたずらはやめて。遊びにきてるんじゃないんだよ」
バクバクする心臓をなんとか鎮めて、また数歩前に進むと、今度はお尻を撫でられた。ゾワゾワっとした感覚が全身に走る。
「やだっ!」
思わずお尻を押さえて飛びあがる私。恥ずかしさと怒りで、顔がカッと熱くなった。
「ちょっと! もう!」
「なん!?」
「お尻触られた!」
「お、お尻!? 俺じゃねーよ!?」
涙目になった私を見おろして、オルフェルがなぜかオロオロしている。
だけどさすがに、これはオルフェルの仕業じゃない。
それによく考えたら、さっき私の手首を掴んだ感触は冷たかった。
オルフェルは子供のころから、いつも体温が高いのだ。
どうやらここに、イタズラの犯人がいるようだ。
――お尻を触るなんて……! ただのイタズラだとしても、許せない!
怒りながらキョロキョロしていると、またスカートが引っ張られた。
――やっぱり、オルフェルじゃない。
彼は私の前にいるから、後ろから私のスカートを引っ張ることはできない。
――犯人は後ろね!
そう思って振り返ると、そこには白く浮かびあがる女性の顔が……!
「きゃーーーーーーーっ!」
――うふふふふふふ……――
大声をあげて目をつぶると、どこからか笑い声が響いてきた。
血が上っていた頭から、急激に血の毛がひいていく。
――もうだめ、怖すぎる!
――あれ? オルフェルはどこいったの?
やっぱり手をつないでもらいたくて、私はオルフェルの姿を探した。
だけどそこに、いるはずのオルフェルの姿がない。
「どこなの? オルフェルーー!?」
恐怖に震える私の声が、静かな廊下に吸い込まれるように消えていった。
△
――ここ、どこなのぉ……。
あれから何分経っただろうか。
一人で幽霊塔を歩き回った私は、すっかり自分の居場所を見失っていた。
何度も幽霊に脅かされ、そのたびに尻もちをついて、いまではお尻をさすりながら歩いている。
さっき思い切り転んだときには、うっかり足もくじいてしまった。
じんじんと痛む足とお尻に、涙がじわりと滲んでくる。
――はぁ……。こんなことなら、最初からオルフェルと手をつないでおくんだったよ。
――素直じゃなくてごめんね、オルフェル……。やっぱり私、方向音痴だったかも……。
本当にオルフェルは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
何度も名前を呼んでみたけど、彼からの反応はまったくなかった。
一歩一歩と進むたび、足の痛みが増していく。
どこへ向かえばいいのかもわからず、私はただ彷徨っていた。
――でも大丈夫。あれはただのイタズラだよ。ここは魔法学園なんだから。
――あんな幽霊っぽい演出くらい、私にだってできるんだからね。
さっき相談ブースで、オルフェルが言っていたことを思い返す。
この学園の生徒たちは、みんな優秀な魔導師だ。
幻覚魔法とか浮遊魔法とか、幽霊を再現する術はいくらでもある。
さっきのもきっと、私とオルフェルを引き離すために、だれかが仕掛けたことだろう。
それはそれで怖いけど、本物の幽霊よりはいくらかマシだ。
――くじけてる場合じゃない。たとえ一人でも、こんなことをしている犯人を突きとめなくちゃ。
気を取りなおして前を見ると、廊下の先、螺旋階段の下に、月明かりにぼんやりと照らされる白い姿が浮かびあがった。
女性の影は淡く揺らめき、消えたり現れたりを繰り返しながら、私を誘うように手招きしている。
「待って……!」
私は足を引き摺りながら、スーッと飛んでいくその姿を追いかけた。
冷たい石壁に手を突いて、必死に螺旋階段を登っていくと、すぐに呼吸があがりはじめる。
痛みを気にする余裕はなかった。
登りきったところで、人影が消えた角を曲がる。
目の前に現れたのは、どっしりとした鉄製の扉だ。
『氷結封印実験室』と書かれた古びたプレートが目に入った。
ためらいながらも扉を押し開けると、そこはがらんとした空間だった。
戸棚や机が並んでいるものの、道具類はすっかり運び出されている。
そして部屋の奥には、さっきの白い女性が浮かんでいた。
「あなたはだれ? どうしてこんな、いたずらを……」
声を震わせながらも問いかけて、私は恐る恐る部屋のなかへ。一歩足を踏み入れた、その瞬間――。
「いたっ!」
突然何かに頭をぶつけて、私はギュッと目を閉じた。
思わず後ろへ身を引くと、すぐ後ろにも壁がある。
恐る恐る目を開けてみると、目の前に半透明の魔法障壁が浮かびあがっていた。
白い冷気をまとったそれは、じわじわと四方から迫ってくる。
空間がどんどん狭まって、息苦しさが増していった。
障壁にそっと手を触れると、鋭い冷たさが指先を刺す。
「氷結の、封印……?」
全身にゾクゾクと悪寒が走る。
これはアリアが閉じ込められ、命を落とした封印魔法だ。
慌てて回りを見回したけれど、逃げ場がないのは明らかだった。
外から声が響いてくる。
「ふふふ。いい気味。冷たいあなたにピッタリね。真面目ないい子のふりをして、平気で人を傷つけるクソ女」
その言葉は尖った氷塊のように、私の心に突き刺さった。
どこか聞き覚えのある声だ。
まさかと思って顔をあげると、そこにいたのは……。
「エ……エリシアさん……?」
彼女は相変わらず長い髪で顔を隠している。だけどその隙間から覗く口元は、明らかにエリシアさんのものだった。
彼女の口角がにまりと持ちあがるのを見て、私はなんとなく、いまの状況を理解した。
これは私をここにおびき寄せるため、彼女が仕組んだ罠なのだろう。
幽霊騒ぎで噂を広めれば、だれかが私に相談を持ち込む。
それが彼女の狙いだった。
そして見事に、私はここに来てしまったのだ。
「ひどい……」
「酷いのはあなたでしょ? 自分がどれだけ偽善者か、あなたは少しも気付いてないのよ」
「うまく対応できなかったのはごめんなさい! でも、こんなことするなんて間違ってるよ! おねがい、いますぐ封印を解除して!」
「えー? 封印解除? そんなのやり方も知らないわ」
エリシアさんはおどけたような声でそう言って、「うふふ」と楽しげに笑い声を漏らした。
本当に、解除方法を知らずに封印したのだとしたら、これは殺人事件だろう。
この氷結封印は魚を冷凍するためのもので、人は半時間も生きられないのだから。
――私って、憎まれて殺されるほど冷たいの?
――もしかしてオルフェルも、怒って帰っちゃったのかな。 私が思い切り疑ったから……。
絶望で目の前が暗くなる。
だけど私は、まだ終わるわけにはいかなかった。
学生がこんな場所で死ぬなんて、許されていいはずがない。
きっと私の周りの優しい人たちが、たくさん悲しむに決まっているのだ。
それに私には、この学校で学ぶべきことが、やるべきことが、たくさんある。
入学早々、死んでなんていられない。
なにか助かる方法はないかと、私はもう一度周りを見回した。
――あれは……!
部屋のなかの不自然な位置に、四つのランプが封印を囲んで等間隔に配置されている。
それはほのかに冷気を放つ、魔法生成されたランプで、方角を指し示すコンパスのような装飾がなされていた。
脳裏に浮かぶのは、あの日記に書かれていた断章だ。
あの方角の順に炎を灯せば、この封印を解除できるのかもしれない。
――でもだめだ。方角わかんないし、火もないし……。
だいたいあの断章の解釈は、正しいなんて確証もない。
しかもあれは断章で、まだ続きがあるはずなのだ。
封印解除は手順を間違えると、なにが起こるかわからない。下手をすれば、この塔ごと消し飛んでしまう可能性もある。
封印の冷気はさらに強まり、容赦なく身体を凍りつかせた。
ジリジリと迫ってくる魔法障壁。視界が霞み、思考もだんだん鈍くなる。寒さも恐怖も限界に近い。
「たすけて、お願い……」
私が震える声を漏らすと、またエリシアさんの口角が持ちあがった。