第7話 君がいてくれるだけで、十分だから
学年の終わりまで、あと七日。
校内にはもう期末試験の空気が満ちていた。黒板に貼られたカウントダウンカレンダーは、毎日クラスメイトがカラーペンで可愛い落書きをしていく。雪だるまやホットココア、果ては先生のちびキャラまで……。教室での話題は少しずつ「高二では誰と同じクラスになるんだろう」に変わっていく。
そんな中で、私は最近……笑いすぎている気がする。
「遥、最近ちょっと……変わったんじゃない?」
放課後、私は黒羽と一緒に図書館の窓際に座っていた。斜めに差し込む陽射しが本のページや机の上に落ちて、まるで春が少し早く訪れたみたいにあたたかい。私たちはノートをめくりながら、制服のポケットに隠してきた小さなお菓子をこっそりつまんでいた。そんなとき、彼女がふいに問いかけてきた。いつものからかう調子ではなく、どこか本気の好奇心を含んだ声で。
「え? どこが?」
私はクッキーを噛みながら首をかしげ、気恥ずかしさを隠すように問い返す。
「うーん……前より自然に笑うようになったかな。前はね、人と話すのをちょっと怖がって、話し終えるとすぐに自分の殻に戻っちゃう感じがあったんだ」
彼女は顎に手を添えて、口元に微妙な弧を描く。
「でも最近の遥はさ……なんというか、『外に出ようとしてる』ように見えるんだよね」
「……そうなのかな」
視線を落とし、指先でお菓子の袋の端をそっといじる。でも心の奥で、小さな声が黒羽の言葉にうなずいていた。彼女の言う通りだ。今の私には、守りたいと思える大切な関係がある。ただその人のことを思い浮かべるだけで、自然と口元がほころんでしまう。
数秒間の迷いのあと、私は深く息を吸い込み、机の下でそっとスカートの裾を握りしめた。
「その……実はね……」
唇を噛み、耳にも届かないほどの小さな声で告げる。
「私……星奈と、付き合ってるの」
その瞬間、心臓が一拍止まったみたいに感じた。呼吸さえも止まり、今まで味わったことのない緊張が指先から胸の奥まで押し寄せてくる。
黒羽は目を大きく見開いた。しばらく反応が追いつかないようで、口をわずかに開いたまま、私の言葉をゆっくり咀嚼するみたいに沈黙していた。数秒経ってから、ようやくまばたきをひとつして、ふわりとした声でつぶやく。
「……二人って、付き合ってるの?」
私は小さく頷き、不安を隠せずに彼女を見つめた。
「……変、かな?」
見透かされたような羞恥が胸に込み上げ、私は彼女の目をまともに見られなかった。けれど、黒羽はふいに笑った。その笑みはいつもの皮肉めいたものではなく、驚くほど優しかった。
「そんなことないよ」
彼女は髪を揺らし、ためらいのない声で言う。
「ちょっとびっくりしただけ。でも、よく考えてみれば別に不思議じゃないかも。前から思ってたんだ……二人の関係って、ただの友達以上でしょ?」
「え……」
思わず固まって、頬に熱が差す。
黒羽は顎に手を添えて、ぱちりと瞬きをした。
「だってさ、最近の遥って本当に光ってるんだよ。その感じはまるで……ようやく陽の当たる場所に歩き出した人みたいで」
少し首をかしげ、じっとこちらを見つめる。その声は一陣の風のようにやわらかく、胸の奥にそっと触れる。ひと呼吸おいてから言葉を重ねた。
「それってね、人を好きになったときの顔なんだよ」
私は呆然と彼女を見つめる。その言葉は小石のように心の湖に落ちて、静かに波紋を広げていく。頬が一気に熱くなり、俯いて制服の胸元をぎゅっと握りしめた。心臓が暴れ出し、何かがこぼれ落ちそうなほどに震えて止まらない。
「……ありがとう、黒羽」
本当にありがとう。こんな世界の中で、こんなふうに言ってくれる人がいることが——何よりも大切だった。
「でもね——気をつけたほうがいい」
黒羽はふいに笑みを引っ込め、声を低めた。瞳には警戒の色が宿っている。
「神崎さんの周りには……もともと注目している人が多いから」
私は一瞬きょとんとして顔を上げ、問い返そうとした。そのとき、図書館の外の廊下から押し殺した声が聞こえてきた。
「ねえ、あの佐藤さんと神崎さん……最近ちょっと親密すぎない?」
「この前、屋上で二人が肩を寄せて座ってるの見たよ。完全にカップルっぽかった……」
「マジで? 本当に付き合ってるんじゃない?」
呼吸が一気に詰まった。指先は反射的にスカートを握りしめ、布がぐしゃぐしゃになるほど力を込める。それでも足りない。胸の奥で心臓が重く打ちつけられ——もう私たちは誰かの視線にさらされていた、と告げてくる。
黒羽の表情がすっと引き締まった。何も言わずに立ち上がり、ためらいのない足取りで扉の方へ向かう。
「言いたいことがあるなら、正面から言いなよ。影でコソコソ言うんじゃなくて」
その声は冷たく、圧を帯びていた。数人の生徒は動きを止め、互いに視線を交わすと、気まずそうに笑い合い、そそくさと立ち去っていった。
廊下の声が遠ざかり、図書室は再び静けさを取り戻す。黒羽は何事もなかったかのように私の隣へ戻り、平然とした口調で言った。
「気にしなくていいよ。あの子たち、口が軽いだけだから」
私はうなずいたけれど、喉は塞がれたように乾いていた。指先はなおもスカートの裾を強く握りしめ、視線を上げることができない。だって、あれが初めてだったから。誰かにこんなふうに言われるのを、はっきりと耳にしたのは。冗談でもなく、ただの憶測でもなく、どこか好奇と軽蔑を混ぜた響きで。
——もしこの関係が、もっと多くの人に見られ、囁かれ、評価されるようになったら……私たちはこれからも、今のままでいられるんだろうか。
その日の帰り道、私は机に向かいながら、星奈が耳元で読み上げてくれた言葉を思い出していた。
「物語のヒロインにはね……私がずっと守りたいと思う瞳があるんだ」
目を閉じて、心の中で静かに言い聞かせる。彼女のことをそう思える限り、私は逃げない。たとえ理解されなくても、たとえこれからが険しくても——たった一人でも、私の隣に立ち、支えてくれる人がいるなら。それだけで前へ進む力になる。




