第3話 バレンタイン限定のラブレター
2月14日。もし昔の私なら、この日はただの平凡な学校生活の一日でしかなかったはず。だけど今は違う。だって、私には恋人がいるから。バレンタイン、その言葉は今ではもう別の温度と意味を持っている。
「せっかくだし……やっぱり手作りチョコ、挑戦しないとダメだよね……!」
調理部の活動室の前で、私は深呼吸をした。手のひらはじんわり汗ばんでいる。気合は十分、だけど、お菓子作りの腕前といえば……正直「自信ゼロ」としか言いようがない。挑戦というよりも、これはもう——人生初めての「恋人バレンタインチョコ」を賭けた決戦だった。
だから——。
「黒羽、お願い! バレンタインチョコの作り方、教えて!」
器具を片づけていた黒羽は一瞬きょとんとしたあと、眉を上げて私を見た。
「遥、誰にチョコ渡すつもり?」
「……と、友達」
小さな声で答える。蚊の鳴くような声だった。
「へぇ~、まさか神崎さんに渡すんじゃないよね?」
じっと探るような視線。
「正直に言いなさい。あんたたち、付き合ってるんでしょ?」
「ちょ、ちょっと待って! なんで黒羽までそんなに詮索するのよ……!」
一瞬で顔が熱くなり、耳まで真っ赤になる。
「わ、私、黒羽にも作ってあげるから! だから早く教えてよ、お願い!」
黒羽はとうとう吹き出して笑い、困ったように、けれど優しく言った。
「……ほんと、仕方ない子だね」
彼女の丁寧で厳しい指導のおかげで、私はどうにか……見た目はそこそこまともな手作りチョコを完成させた。形はちょっと歪んでしまったけれど、包装してみれば意外とそれらしく見える。
小さなギフトボックスに詰め、封をピンクのリボンで飾り、さらに手書きのメモを添えた。ペンを握る指は止まらず震え、文字は少し歪んでしまったけれど、それは私の一番真っ直ぐな気持ちだった。
「神崎星奈へ。いつもそばにいてくれてありがとう。気に入ってくれたら嬉しいです」
……ただそれだけの短い言葉なのに、書き終えたあと私は息が詰まりそうなくらい緊張していた。翌日の放課後、私はそっとそのチョコを彼女の机の引き出しに入れ、まるで泥棒みたいにコソコソと逃げ出してしまった。
緊張しすぎだよ、もう!
放課後すぐに、星奈からメッセージが届いた。
「受け取ったよ~。箱がすっごく可愛いし、メモもめっちゃ気に入った。甘々な感じで最高だね」
その瞬間、心臓がドクンと跳ねて一拍止まった気がした。……だめ、反則だよ、そんな言い方……。けれど、次に送られてきた一文で、私は顔から火を噴きそうになった。
「え~、もしかして私だけ? 実はね、超スペシャルなお返しを用意してあるんだよ?」
「えっ……スペシャルって……?」
「それはね、あとでのお楽しみ~」
彼女の声色が目に浮かぶように調子っぽくて、しかもどこか神秘的な響きを帯びていた。
そして実際に教室へやって来たとき、星奈は鞄の中から小さな白い箱を取り出し、私の手に差し出した。開けてみると、中に入っていたのはチョコではなく、丁寧に組まれた小冊子だった。
『遥へのラブレター』
タイトルは星奈らしい字体でシンプルに印刷されていて、それだけで私の指がぴくりと震えた。
「こ、これって……」
「私が遥に書いた物語だよ」
微笑みながら、星奈の瞳には見慣れた、でもいつも胸を温める光が宿っていた。
「バレンタイン限定、遥だけが読める特別版ね」
「えー、それなら私の目の前で開いて読んでくれない?」
彼女が不意に顔を近づけてきて、まるで甘えるように、でも同時にからかうみたいに言った。
私はあわてて箱を胸に抱きしめ、全身が燃えるように熱くなって首をぶんぶん振った。
「む、無理だよ……そ、それは……すっごく恥ずかしいんだから……!」
「えー? どうして~? だって私が遥のために書いたんだよ?」
小首をかしげてわざとらしく拗ねる仕草を見せつつ、口元は明らかに笑いを堪えている。まるで獲物を仕留めた猫みたいに。
「だ、だって……それ、ラブレターだもん……!」
俯いて小声でつぶやく。頬は熱くて、今にも湯気が立ちそうだった。
ふいに手を伸ばし、私の髪をそっと撫でた。その仕草は羽根が額をかすめるほどの軽さなのに、私は全身を固まらせたまま動けなかった。
「バカだなぁ。ラブレターもらって、泣きそうなくらい真っ赤になる子なんてどこにいるの?」
彼女は小さく笑いながら囁いた。
「な、泣いてないし……ただ……ただ……」
必死に否定しながらも、言葉の途中で視線はあの小冊子に吸い寄せられてしまう。
「じゃあ……今読んでもいい?」
私はかすかに声を震わせながら尋ねた。
星奈はこくりと頷いた。
「もちろん。横で作者が、遥の反応をちゃんとチェックするからね。今後の展開の参考にするんだ」
「えっ、それって……めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん……」
私はそう言いながらも、結局我慢できずに扉ページを開いた。
『遥へのラブレター』
最初の一文は、まるで私たち自身を映したような物語だった。
「主人公はちょっと鈍くて臆病だけど、笑顔を見るとどうしても守りたくなる女の子。彼女はまだ知らない。私が初めて出会ったその瞬間から、視線の先はずっと彼女だけだったことを……」
指先がかすかに震える。文章は簡潔で、語り口も穏やか。それなのに一文字一文字が、心臓の奥をそっと叩いてくるみたいだった。三ページ目に差しかかった頃、私は思わずこっそり顔を上げてしまう。
星奈は両手で頬杖をつき、私を見つめながら笑っていた。その瞳は、期待に満ちていて。
「……こんなの、反則すぎるよ……」
小さく呟いた。
「そう? じゃあ来年は、もっと反則っぽい一冊を書いてあげようか?」
「星奈……!」
風のように軽やかに笑いながら、彼女はそっと私の指先に触れ、そのまま優しく握りしめてくる。
「嬉しい?」
小さな声で尋ねてくる。
私は視線を落とし、そっと握り合った私たちの手を見つめた。手のひらはぽかぽかと温かく、指先はかすかに震えている。
「……うん、すごく嬉しい」
私は静かに答える。
同時に心の中で思っていた――バレンタインって、本当にこんなにも幸せなものなんだ。もしそれが君からのものなら、チョコでも、小説でも、たったひと言でも……私にとっては世界でいちばん大切な贈り物になる。
バレンタインは、もう他人のものじゃない。私と彼女、ふたりだけの約束の日なんだ。




