第2話 私たちはだんだん恋人みたいになっていく
二月の風はまだ冷たかったけれど、午後の日差しはちょうどいい温もりを帯びていた。
その日、放課後の教室に残って掃除をするのは私と星奈の担当だった。ほかのクラスメイトたちが次々に帰っていき、教室は次第に静けさを取り戻していく。窓の外で木々の葉が揺れる音と、机や椅子を動かす小さな物音だけが残った。
私は箒を手に教室の前方を黙々と掃いていた。俯いた拍子に前髪が視界を覆い、無意識に手を伸ばそうとした、その瞬間——温かな掌がそっと額に触れ、私の髪を耳の後ろへとかき上げてくれた。
「せ、星奈……?」
私は一瞬固まり、頬が一気に熱を帯びる。
「髪、もう目に入りそうだったよ。全然気づかなかったの?」
星奈は優しく言い、指先が耳元の髪にそっと触れて、一瞬だけ留まった。その感触はくすぐったくて、胸の奥まで波紋を広げた。
「ありが、と……」
私は慌てて俯き、掃除に集中するふりをした。けれど心臓はもう滅茶苦茶に乱れていた。昔からずっとそうだ。ほんの小さな仕草や一言でさえ、彼女は私の鼓動を何倍にも速くしてしまう。
昼休みには、私たちはいつも窓際の席に並んで小説を読んでいた。たいていは私が持ってきたお気に入りの本で、星奈は私の隣に座り、肩を寄せ合いながら同じページを見つめる。
ときどき彼女がふいに顔を近づけて「遥、この一文どう思う?」と聞いてくる。そのたびに私はまだ文字を追いきれないまま、あまりに近い横顔に心臓を跳ねさせられるのだった。
「わ、私はいいと思うけど……」
緊張で言葉が詰まりながら答えると、星奈はくすっと笑い、人差し指で私の頬をつついて「また照れてる」とからかう。
ちょうど今みたいに。
「また顔赤くなってるよ」
星奈は指先で私の頬をつんつんと突き、少し意地悪そうな声を出す。
「そんなの反則だなあ。私まで本に集中できなくなっちゃう」
「そ、それは星奈の方が反則だよ……!」
私は羞恥で顔を本に埋めたくなり、小さな声で反論した。
そんな私の姿を見て、星奈はさらに楽しそうに笑う。こうした昼休みの時間は、ただの日常のはずなのに、彼女が隣にいるだけで特別で、何より温かいものになっていた。
ある日の休み時間、星奈はいつものように私の席にやって来て、次の授業のポイントを小声で教えてくれていた。私は仰ぎ見るように彼女の言葉に耳を傾けていたが、そこへ通りがかった女子が足を止め、からかうような声を上げた。
「ねえねえ、二人ってさ、最近すごく仲良くない? もしかして付き合ってたりして~?」
その一言に、周囲の数人がくすくす笑いながらこちらを振り返った。
星奈はいったん目を丸くしたものの、すぐに笑顔を取り戻した。
「そうかな? 私たち、もともと仲いいんだよ。もしかして羨ましかった?」
彼女の軽やかで自然な口調が、場の空気をあっという間に和ませ、周囲は笑い合ってそれぞれに散っていった。けれどその瞬間、私の胸は見えない手にぎゅっと掴まれたように締めつけられていた。何気ない冗談で、相手に悪意がないのも分かっている。なのに、どうしても心が落ち着かなかった。
その日を境に、私は妙に敏感になってしまった。クラスメイトたちが、以前よりも頻繁に私と星奈のことを気にしているように思えたのだ。彼女がふと肩を寄せてきたり、私の頭を撫でたり、頬をつついてきたり、休み時間に手を繋いで廊下を歩いたり——そんな些細な瞬間でさえ、誰かの視線がちらりとこちらを追っている気がしてならなかった。
そこに敵意はなかった。けれど、それでも私には不安をかき立てるのに十分だった。
***
「……星奈」
放課後の帰り道、私は小さな声で呼んだ。
「ん?」
「私たち……最近ちょっと目立ちすぎてない?」
星奈は足を止め、首を傾げて私を見た。眉の間には小さな困惑が浮かんでいた。
「……気にしてるの?」
「ち、違うの……ただ……」
私は唇を噛み、少し迷ってから首を振った。
「ちょっとだけ、不安なだけ」
星奈はそっと手を伸ばし、私の頭をやさしく撫でた。
「考えすぎだよ。私たち、何も悪いことしてないんだから。だから、周りの目なんて気にする必要ない」
「……うん」
私は頷いたけれど、胸の奥はまだざわついていた。ふと気づいたのだ。
——もしかしたら私たちの関係は、誰にでも受け入れられるものではないのかもしれない。これから向き合うことになるのは、冗談や好意的なからかいだけでは済まないのかもしれない。
そう思った瞬間、私は無意識に星奈の袖を強く握りしめていた。指先が白くなるほどに。星奈はその動きに気づき、私の震える手に自分の手のひらを重ねてくれた。掌のぬくもりが静かに伝わってくる。
「大丈夫。私はずっと、遥のそばにいるから」
その声はとてもやわらかくて——なのに、不意に涙がこみ上げそうになった。
「……うん、ありがとう」
不安が消えたわけではなかった。けれど少なくともこの瞬間だけは、その言葉のおかげで少しだけ心を落ち着けることができた。
——けれど私は知らなかった。このかすかな不安が、やがてもっと重くのしかかる未来の種になっていることを。今の私たちは、まだそのことに気づいていないだけだった。




