第14話 初めてのキスのあとのおはよう
翌朝は天気がよく、陽射しが街を明るく照らしていたのに、私の心は少しも晴れなかった。学校へ向かう道を歩く足取りは、いつもよりずっと遅く、そして妙に緊張していた。肩に背負った鞄は、まるで誰にも言えない秘密を詰め込んでいるかのように重かった。
表面上は普段と変わらないふりをしていたけれど、自分だけは知っている。私の心は、目を開けた瞬間から落ち着くことを忘れていた。だって今日は、また彼女に会うのだから。昨日、私にキスをした――神崎星奈に。
そのことを思い出すだけで、全身が一気に熱を帯び、まるで沸騰したやかんみたいに耳まで熱くなる。きっと顔は真っ赤だ。まるで肌までもが、あの夜の感触を覚えていて、手放したくないと言っているみたいに。
教室に入った瞬間、私は思わず踵を返して、彼女に気づかなかったふりをしたくなった……けれど、もう遅かった。
星奈は窓際に立っていた。私が毎朝、教室に入って最初に視線を向ける場所。窓から差し込む陽射しが、彼女の髪と肩に降り注ぎ、淡い金色のヴェールを纏わせている。
彼女がこちらを振り返り、視線がぴたりとぶつかる。その瞬間、心臓を強く叩かれたみたいに跳ね上がり、時間が何秒も止まった。
星奈はほんのり目尻を下げて、朝の光みたいに柔らかな笑みを浮かべた――けれどそこには、私が一番苦手な、あの小悪魔みたいな光も宿っていた。彼女は何も言わなかった。ただ、視線だけで囁くみたいに「おはよう」と。
私は慌てて俯き、早足で自分の席へ向かった。鞄を開けて中を探るふりをしながら、どうにも落ち着かない心臓を持て余す。指先はペンケースや教科書を無作為に弄り、まるで現実から逃げる道を探しているみたいだった。
席に着いて間もなく、背後から聞き慣れた足音が近づいてくる。目を閉じていてもわかる足取り――軽やかで、でも真っ直ぐに近づいてくる音。
そして、朝の光よりもやさしい声が、耳元に落ちてきた。
「おはよう、遙」
私はおそるおそる顔を上げ、星奈を見た。彼女は私の席のすぐ横に立ち、いつもの柔らかな笑みを浮かべている。その笑顔にはやさしさだけじゃなく、どこか確信めいた自信が宿っていた。まるで昨夜のキスの余韻が、まだ消えずに残っているかのように。
「……おはよう」
私は小さく返す。喉の奥から絞り出すような声で、視線を長く合わせることはできなかった。
でも、やっぱり我慢できなくて……つい何度か視線を盗んでしまった。今日の星奈の髪の毛先は、なんだか少し跳ねている。朝の風が強すぎたせいだろうか。それとも、私と同じで昨夜は何度も寝返りを打って、あまり眠れなかったのかな。唇の端がいつもより柔らかく弧を描いていて……もしかして、私が何か言うのを期待している?
だけど、結局何も言えないまま。俯いて教科書をめくるふりをしながら、指先だけがページの上をさまよい、心臓はもう朝の静けさを破るほど高鳴っていた。
一時間目の授業なんて全然頭に入らず、ノートに何を書いたのかも覚えていない。チャイムが鳴ると同時に教室は一気に賑やかになり、飲み物を買いに行く子や、窓際で集まって話し込む子の声があちこちから響く。
ほっと息をついたのも束の間、星奈が突然私の目の前にやってきた。いつものように私の机の横に寄りかかり、身体を少し前に傾けて、視線を合わせてくる。けれど今日は……その距離が、ほんの少し近い。私の瞳の奥まで覗き込むみたいに、その視線がまっすぐ突き刺さってきた。
「昨日の放課後のこと、遙は覚えてるよね?」
一瞬、息が止まった。
彼女はぱちりと瞬きをして、くすっと笑うような声で言った。
「私はね、ちゃんと覚えてるよ。遙の、あの可愛すぎる顔」
「せ、星奈……!」
思わず目を見開き、顔が一気に茹で上がったトマトみたいに熱くなる。
「今みたいに慌ててる遙も好きだけど」
星奈は声を落とし、わざと意地悪く挑発するような響きを忍ばせる。
「でも――もっと楽しみにしてるんだ。遙が、自分から私を見てくれるとき」
その言葉を残し、星奈は軽くウインクしてから席へと戻っていった。足取りはいつも通り軽やかで、まるで何事もなかったかのように。
私はといえば、その場で呆然と固まり、顔が燃えるように熱くなっていくのをどうすることもできなかった。耳の奥までじんじん熱くなりながら、頭の中では「もっと楽しみにしてるんだ。遙が、自分から私を見てくれるとき」という台詞が何度も何度もリピートされる。
私は椅子の背にもたれ、顔を教科書にうずめた。まるで穴を探して潜り込みたいハムスターのように。心臓は暴走し、頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、思考はすっかり絡まってほどけない。
神崎星奈、あんたって人は……本当にずるい。でも私……こういうあんたのことが、やっぱり嫌いになれそうもないんだ。




