第13話 帰宅してから、あのキスの余韻が消えなかった
星奈は私を家の近くの分かれ道まで送ってくれて、そこで別の方向へと歩き出した。
けれど帰り道の私の足取りは、まるで雲の上を歩いているみたいにふわふわしていて、どうにも地面に着く気がしなかった。頭の中で何度も繰り返されるのは、さっきの初めてのキスの余韻だった。
風は相変わらず冷たくて、夜特有のひんやりした空気を運んでくる。街灯が一つ、また一つと灯って、オレンジ色の光が歩道に降り注ぎ、私の歩みに合わせて優しく揺れていた。まるで、今の私の不安とときめきが混ざった心みたいに。
私はマフラーの端をぎゅっと握りしめた。指先にはまだ星奈の感触が残っている――あのキスのあと、彼女がそっと私の指を取ってくれた、その温もりが、今も掌の奥でじんわりと熱く残っていた。
もう「またね」って言って別れたはずなのに、彼女の体温はまるで私の身体に縫い付けられたみたいで、いくら歩いても離れていってくれなかった。
……私、本当に、星奈とキスしたんだよね。
夢じゃないよね? 頭の中でぐるぐるしてた少女漫画の妄想でもなくて、映画の中のパラレルワールドでもなくて、ちゃんと現実に起きたこと。今日、この星が瞬く夜、風が水面を揺らしていたあの河川敷で。
私は冷たい空気を深く吸い込んだ。でも、喉が少し締め付けられる感じがした。部屋のドアをそっと開けて、見慣れた空間に足を踏み入れた瞬間、胸の奥に隠してた感情が今にもあふれ出しそうで、「カチッ」と閉まったドアの音さえも、心をかき乱すような気がした。
制服を脱いで、バッグを置いて、ベッドの端に腰を下ろす。動きは夢遊病みたいにぼんやりしてるのに、頭の中だけがやけに冴えていた。最後には、枕を抱きしめて、顔を赤らめながらぼんやりしていた。
「どうしよう……全然落ち着けない……」
枕に顔を埋めて、くぐもった声が漏れた。そんな自分の声さえ、いつもの自分じゃないみたいだった。
頭の中では、あの子の瞳ばかりが繰り返し浮かんでいた。あのとき、彼女が私を見つめていた視線は、まるで月の光のようにやさしくて……それでいて、抑えきれない感情の波が、そこに静かに揺れていた。そして、あの一言。
「見てるうちに……なんか、またちょっと好きになっちゃったかも」
ああ、また心臓が跳ねた。まるで誰かにいたずらでつつかれたみたいに、「ドクンッ」と大きく一度、跳ね上がる。
私は思わず布団にくるまり、顔だけ出して天井を見上げたまま、頭の中ではパニック状態だった。
「ちょっと好きになっちゃった」って、どういうこと!? もう十分すぎるくらい心臓がバクバクしてるのに、それ以上って……どうなっちゃうの!? あのとき、本当に気絶しそうだったのに、星奈は気づいてたのかな……?
でも……戸惑いよりも、もっと大きかったのは、この気持ちをどこに置けばいいかわからないくらいの「会いたい」という思いだった。
また、会いたい。ほんのさっき別れたばかりなのに、もう星奈の声が恋しくなってる。あの笑顔が浮かんで、手の甲に触れたときの、あの人を溶かしてしまいそうな体温まで、思い出して。
私はこっそり心の中で願っていた。もし、今、星奈からメッセージが届いたら。私はきっと……また少し、彼女のことが好きになっちゃうんだろうな。
スマホを手に取ると、画面がふわっと光った。まるで、何かを予感していたかのように。通知欄に、一通の短いメッセージが表示された。
「もう家に着いた?」
また、心臓が跳ねた。
その一行を、私はしばらくじっと見つめていた。たったそれだけの言葉なのに、そこに彼女の声が聞こえてくる気がした。そっと問いかけるようでいて、どこか言葉にできない期待がにじんでいるような、そんなメッセージ。
……ううん、私もまったく同じ。
慎重に、すごくすごく悩んで、何度も打っては消して、また打っては消して。だって、さっき私たち……キス、したばかりなんだもん。今さらどんな口調で返せばいいのかわからない。あまりにも普通すぎたら、なんだかよそよそしく思われちゃうかもしれないし。かといって、あまりにもストレートすぎたら、引かれちゃうかも……私がどれだけ恥ずかしがってるか、バレバレになっちゃいそうで、こわい。
指先で画面をそっとなぞる。文字を打ちかけては止めて、ためらって、やっとの思いで、自分なりにいちばんやさしくて、でもちゃんと気持ちが伝わると思える言葉を打ち込んだ。そして、送信ボタンをタップしたその瞬間、心のどこかがギュッと掴まれたような、そんな痛みと震えが走った。
メッセージを送ったあと、私はスマホをそっと胸の上に置いて、目を閉じた。自分の心音が、耳元ではっきりと聞こえてくる。彼女のたった一言で、私の鼓動はもう止まらないくらい高鳴っていた。
……そう、きっと今夜の私はこうして枕を抱いて、ゴロゴロ転がって、頭の中は星奈のことでいっぱいで、朝まで眠れないんだろうな。
枕に顔を埋めたまま、無意識に指先が唇に触れていた。あの柔らかい感触が、まだそこに残っている気がする。それはまるで、私だけの秘密の印みたいで――「これは、星奈のキスなんだよ」って、そっと囁かれているみたいだった。
また顔が熱くなる。耳までぽかぽかして、まるで熟れたさくらんぼみたいに真っ赤になってる気がする。こんな顔、絶対に鏡なんて見られない。ベッドの上でゴロゴロ転がっては、またゴロゴロ。まるで幸せに押し倒された子猫みたいに、どうしても収まらない、この跳ね回る心をどうにかしたくて。
――神崎星奈。
あの、優しくて、でもいつだって真っ直ぐで、私が迷ったときはそっと背中を押してくれて、河川敷で星空を見ながら「好きだよ」って言ってくれたあの子。
その名前が、今、ゆっくり、じわじわと、私の世界をまるごと染めていく。
きっと今夜の私は、ぜったいに穏やかに眠れっこない。でも、それでもいい。この胸の鼓動こそが、私の人生でいちばん綺麗で、いちばんやさしくて、いちばん不思議な「初めて」だから。




