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冴えない私が輝く星と出会った  作者: 雪見遥
第12章 昨日より、もう少しだけ君が好き

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第12話 星空の下、初めてのキス

 学校を出たあと、私たちは学校近くの路地をゆっくり歩きながら、あちこちで足を止めていた。夕暮れの街はまるで温かなオレンジ色のフィルターがかかったようで、街灯はまだ灯っておらず、残照が静かに軒先や露店のパラソルを照らしていた。


 いくつかのかわいい雑貨が並ぶお店に立ち寄り、入り口の風鈴の音の中で笑顔を交わした。やがて角の移動カフェで足を止め、私たちはホットココアを二つ買った。紙コップからはほんのり甘いミルクの香りとココアパウダーの香ばしさが漂い、指先から心の奥まで温かさが染み込んでいくようだった。


 空が少しずつ暗くなりはじめ、私たちは川沿いをゆっくり歩いた。街の喧騒が遠のいていき、水面はほのかに光を反射し、遠くの水鳥たちは静かに岸辺に羽を休めていた。やがて私たちは石段に腰を下ろし、肩を寄せ合いながら、空の雲がやさしい橙色に染まっていくのを眺めていた。それはまるで今にも溶けそうな果実のジャムのようだった。


 夜風が吹き抜け、水の香りと春先の冷たさを含んで肌を撫でていったけれど、不思議と寒くは感じなかった。それどころか、私の手のひらは緊張で汗ばみ、服の裾をそっと握りしめていた。鼓動は夕陽の落ちるリズムと共に乱れていた。


 沈みゆく夕陽が星奈の横顔を斜めに照らし、その輪郭は光と影のあいだで柔らかく浮かび上がっていた。まつげには光がきらきらと宿り、それはまるでこの世に降りた星の粒のように思えた。あの瞬間の彼女は、息を呑むほど美しくて、思わず声を飲み込んだ。


「遥、今日はずっと一緒にいてくれてありがとう」


 彼女は静かにそう言いながら私の方を向き、口元にやさしい微笑みを浮かべた。その瞳には、夕陽に照らされながら無数の星屑が輝いているように見えて、一瞬で私の胸の奥が熱くなった。


 私は慌てて視線を逸らし、自分の足元ばかりを見つめた。頬が熱くて仕方なかった。


「い、いえ……そんな……」


 声は風のようにか細く、頼りなく揺れていた。


 その瞬間、空気の中に広がっていたのは、今までとは違う静けさだった。気まずさでも、沈黙でもない。まるで薄い霧のようにふんわりと漂う曖昧な空気、淡いピンク色の泡がそっと私たちの間に浮かび上がって、交差していく。それはまるで、誰も先に破ることのできない夢のようだった。


 この雰囲気……あの日の雨を思い出す。星奈は信号の前に立っていて、その顔がとても近くにあった。瞳の奥に、私には読み取れない感情が潜んでいた。それは我慢にも、迷いにも見えた。あのとき、彼女の指先が私の頬をなぞった温もりを、今でもはっきりと覚えている。あの瞬間、私はキスされると思った。でも、彼女はしなかった。ただ静かに微笑んで、私の手を引いて歩き出した。何も言わずに、何もせずに。


 私はずっと、あれは自分の勘違いだったと思っていた。けれど、今の星奈の目は、あのときとまったく同じだった。


 鼓動はさらに乱れ、指先が震えて、呼吸も浅く速くなる。存在を意識しすぎて、香水のかすかな香りさえも鮮やかに感じ取れてしまう。私はつい、こっそりと彼女を見上げた。そして次の瞬間、視線が真正面からぶつかった。


「……!」


 心臓が何かに撃ち抜かれたように跳ね上がり、私はあわてて顔をそむけた。でも、彼女のきらめく瞳は、もう頭の中から離れなかった。


「……遥、今日ずっと、こっそり私のこと見てたでしょ?」


 星奈の声には笑みがにじんでいて、それでいて逃れられないほどやさしかった。


「そ、そんなことないよ……!」


 私は慌てて否定したけれど、声はひどく震えていて、耳の先まで真っ赤に火照っていた。スカートの裾をぎゅっと握りしめ、不安と動揺を隠そうとするように。


 星奈は小さく笑った。その笑い声はいつものようなおちゃめさではなく、どこか恥じらいと真剣さが混じっていて、まるでそっと耳元を撫でる春風のように優しくて、心が溶けそうだった。


「私も、ずっと遥のこと見てたよ」


 彼女はそっとそう言った。その声は何かを壊さないように気遣うような、やわらかく包み込むような響きだった。


「今日の横顔、夕陽の中でキラキラしててさ……見てるうちに、また少しだけ遥のことが好きになっちゃった」


 ひとつひとつの言葉があたたかくて、胸の奥をそっと叩かれたようだった。


 星奈の視線は、まるで火照るようなほど優しくて、それでいてとても慎重で、繊細だった。まるで、大切な宝物をそっと両手で包み込むような、そんな眼差し。そして、彼女はゆっくりと私に近づいてきた。その瞳には、もはや信号の前で見せた抑えきれない迷いはなかった。そこにあるのは、静かな願いと、確かな決意だけだった。


 私は全身が固まってしまって、頭の中が真っ白になった。ただ、彼女を見つめることしかできなかった。体のどこも動かせなくて、呼吸さえ忘れていた。


 星奈の手が、私の膝の上に置かれていた手の甲を、そっと包み込んできた。その掌の温もりは、まるで春先の雪解けのように、少しずつ、少しずつ、私の胸の奥まで染み込んでくる。彼女は何も急がず、言葉を挟むこともなく、ただ静かに私を見つめ続けていた。彼女の吐息さえも、頬をかすめるほど近くに感じた。


 こんなにも近い距離。ほんの少し、もうほんの少し前に傾けば――きっと、私たちは心で触れ合うことができる。


「ほ、星奈……」


 私は、ほとんど呟くように彼女の名前を呼んだ。あまりにもかすかな声で、まるでこの夢のような時間を壊さないようにと、祈るように。


 星奈は何も答えず、ただそっと身を寄せてきた。次の瞬間、私がまだ何も反応できないうちに、唇にふわりと、あたたかくてやわらかな感触が触れた。


 それはとてもやさしいキスだった。確かめるように、でも壊してしまわないようにと、そっと――羽根が心の上を撫でていくような、星の光が湖面に落ちて、細やかな波紋を広げていくような、そんなキスだった。


 心臓が、一瞬止まった気がした。身体は固まり、呼吸すら忘れてしまっていた。目を大きく見開いたまま、どうしたらいいのか分からなくて、手の置き場さえも分からなかった。頭の中には、たったひとつの情景しか残っていなかった。まつげがすぐ目の前にあること。息遣いが私のそれと重なっていること。そして、やさしさが、私の全身を包み込んでくれていること。


 まるで、あの雨の日に密かに残された伏線が、いまここでようやく回収されたような、そんな気がした。あのときの星奈は、ただ笑って「もうすぐ、雨やみそうだね」なんて言って、何もせずに歩き出した。でも今回は違う。星奈はもう迷わない。退かない。ただ、私の唇に、どんな言葉よりも深く、確かな答えを刻んでくれた。


 キスが終わったときには、もう顔が真っ赤になっていて、耳の後ろまで熱くなって、今にも湯気が立ちそうだった。


「……ぁ……」


 それは、ほとんど聞き取れないほど小さな囁きだった。何かを言おうとして、けれど喉の奥でつかえてしまい、結局はほんの微かな吐息になって、私たちのあいだに漂った。


 私は慌ててマフラーに顔をうずめた。まるで自分を隠そうとする小動物みたいに、誰にも見つからない場所へ逃げ込みたくなった。


 星奈は少しだけ身を引いて、普段は見せないような照れくさそうな表情を浮かべた。でも、口元の微笑みは隠しきれずに残っていた。


「……その反応、可愛すぎ」


 彼女はそっと微笑んだ。その声は風のように軽く、まだ熱の残る私の耳先をふわりと撫でていった。その語り口には、まるで甘えるような優しさが滲んでいて、まるで私だけに向けられた秘密の囁きのようだった。


 私は何も言えず、真っ赤になった顔を慌てて両手で覆った。でも、指の隙間から彼女の顔をこっそり覗かずにはいられなかった。心臓が、小さな太鼓を打つ鼓手のように、胸の中でめちゃくちゃに暴れている。世界中にこのドキドキが聞こえてしまいそうなほどに。さっきの、あの羽のようにふわりとした、だけど胸の奥を震わせる温度を思い出すだけで、さらに顔が熱くなっていった。耳もまるで火がついたように熱くて、空気まで甘すぎて、息をするのも怖くなる。


「……もう一回、してもいい?」


 星奈がふいにそう言った。その声は、ちょっと意地悪なからかいが混じっていて、でも、どこまでも優しくて、真剣だった。


 私は、ほとんど迷うことなく、こくこくと頷いた。小鳥のように、素早く何度も。


 星奈はぱちりと瞬きをして、月明かりのように柔らかく微笑む。そしてまた、そっと、ゆっくりと私に近づいてきた。今度の私は、さっきよりもほんの少しだけ積極的だった。体を彼女の方へと傾け、緊張でスカートの裾をぎゅっと握りしめながら、目を閉じた。唇はかすかに震えていて、それでも、あのぬくもりを、ただただ待っていた。


 それは、さっきよりも深くて、真剣で、それでも変わらず優しいキスだった。まるで、二つの魂がそっと触れ合いながら、このときめきを確かめ合うようなキス。彼女の心音が伝わってきた。掌の温度が伝わってきた。そして、そこにあるのは何も隠さない、真っすぐで誠実な想いだった。衝動でも、試すようなものでもない。ただ静かに、二つの心が重なった。


 星奈がそっと唇を離したとき、私たちは見つめ合って、そして微笑んだ。そのまなざしの中で、言葉なんていらなかった。すべてが伝わっていたから。


 夜の帳が静かに降りて、空には一つ、また一つと星が灯っていく。それはまるで、私たちの想いを見届けてくれているかのようだった。川辺の風は変わらず優しく吹き、水面は静かに流れていた。でも、私は知っている。この夜に、私たちの距離は――静かに、確かに、少しだけ近づいたのだと。


 このキスも、この夜も、このときめきも、すべてが私と神崎星奈だけのもの。きっと、これが「恋」の始まりの味なのだろう。青くて、やさしくて、真っすぐで、胸の奥に、ずっとしまっておきたくなるような。

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