第11話 君の気持ちを知りたくて
数日後のある午後、長い廊下の窓から斜めに射し込む陽ざしが、柔らかな橙色の光を床に落としていた。風がそよいで木々の梢を揺らし、葉の影が床に揺れている。それはまるで、水彩画がゆっくりと流れているかのように、静かに空気の中へと温もりと穏やかさを染み込ませていた。
「数学の授業、ようやく終わった〜。ほんとにもう……脳みそがとろけそうだった……」
私はぐったりと机に突っ伏しながら、溶けかけのゼリーみたいに小さく愚痴をこぼした。声には少しの疲れが混ざっていて、どこか甘えるような気の抜けた感じがして、頭の中で繰り広げられたあの高難度の論理戦に、ようやくピリオドが打てた気がした。
身体を丸めたまま、前髪が額にぴたりと張りついている。私は腕のあいだからそっと顔を上げ、ふとした拍子に視線が星奈の席の方へと向かった。
彼女はまだ教室を出ていなかった。斜め後ろの席で、ひとり静かに腰掛けている。体を少し横に向け、両手を机の上に重ね、ぼんやりと窓の外の空を見つめていた。
陽の光がその頬にやわらかく降りそそぎ、彼女の輪郭を繊細に浮かび上がらせていた。長いまつげが頬に落とす影までが美しくて、まるで一枚の静止した写真のよう。空気すらも、彼女の静けさを壊さないように気を遣っているようだった。
だけど――今日の星奈は、どこか少しだけ違って見えた。
彼女の瞳は、いつもどこか光を湛えていた。まるで湖面にきらめく陽の反射のように、揺らぎながらも鮮やかだった。だけど今は風がやんだあとの湖のように、静まり返っていて、それがかえって脆く見えた。
それは本当の「静けさ」なんかじゃない。ただ感情を押し込めた果ての沈黙。水面の下で静かに立ちのぼる何か重たいものが、ほんのわずかだけ顔を覗かせているような……そんな、氷山の一角にも似た危うさがあった。
彼女はまだ笑っていた。声のトーンも、いつも通り優しくて柔らかい。だけど、私は気づいてしまった。その笑顔の奥に隠されていた、ほんの少しの……誰にも気づかれていない、静かな疲れを。
それははっきりとした「悲しみ」じゃない。けれど、見えないひびがずっとそこに在ると、直感で分かってしまうような、そんな感覚だった。
私は小さく息を吸い込んで、額の前髪をそっと耳にかけた。そして、とうとう立ち上がる。胸の奥にほんの少し迷いを残しながら、それでも足は自然と彼女のほうへ向かっていた。戻りたい気持ちも、確かにあった。けれど、それ以上に「進みたい」という想いが勝っていた。
足音に気づいたのか、星奈はふと現実へと浮かび上がるように振り返った。口元には淡い笑みが浮かんでいて、目の奥には「いつもの自分」に戻ろうとする意志が揺れていた。
「あ……遥。どうかした?」
その声は、いつも通りやさしかった。でも、そこには言葉にできない戸惑いと、微かな疲労が滲んでいた。
私は彼女の机のそばで立ち止まり、少しだけ視線を落とす。逆光に照らされた彼女の瞳が、いつもより深く見えた。
「……ちょっとだけ、一緒にいてもいい?」
星奈は一瞬、目を見開いた。まさかそんな言葉が返ってくるとは思っていなかったのだろう。けれど、その一秒後、彼女はそっと頷いた。まるで、私の一言にやさしく撫でられたみたいに。けれど視線はまた、静かに窓の外へと戻っていった。まだ、自分の沈黙から完全には戻れないままでいる。
私は近くの椅子を引き寄せて、彼女の隣に腰を下ろした。何も言わず、ただ静かに、隣り合って座る。
半開きの窓から風がそっと吹き込んできて、ひんやりとした空気が流れ込む。風は彼女の耳元に垂れ下がる髪を優しく揺らし、その髪を整えることなく、彼女はそのままにしていた。
その一瞬、彼女の横顔はあまりにも儚くて、まるで、少しでも強く触れたら夢のように壊れてしまいそうだった。
私はついに我慢できなくなって、小さな声で問いかけた。
「星奈……なんか、ちょっと元気ないんじゃない?」
星奈は振り向かず、ただ窓の外の青空を見つめ続けていた。聞こえなかったふりをしているのか、それとも返事をするか迷っているのか、判別できない沈黙だった。
「なにか……私に話してくれること、あるかな?」
知らず知らずのうちに、声がもっと小さくなっていた。まるで、彼女が必死に隠そうとしているものを脅かしてしまわないようにと、空気の重さをはかりながら言葉を選ぶように。
彼女の指先がわずかに震えながら、机の縁を握りしめた。関節が白く浮かび上がるほどの力で、それはまるで、心の奥に押し込めた何かを必死にこらえているようで、でも――どこから話し始めればいいのか分からないような迷いにも見えた。
しばらくして、ようやく星奈の声が届いた。風が耳元をかすめるような、かすかな囁き。
「……昨日、また両親に言われたの。すごく……言い合いになって……」
彼女の声はかすかに震えていた。けれど、その震えを押し隠すように、必死で冷静さを保とうとしているのが分かった。まるで、指の隙間からこぼれ落ちそうな砂を、懸命に握りしめているみたいに。
「また言われたの。そんな『現実的じゃないこと』はやめて、妹みたいにちゃんと勉強して、まともな学校に行って、将来は立派なお医者さんになれって……親戚の前で恥をかかせるなって……」
そこで彼女の声は少しだけ途切れた。目の色も、少し陰りを帯びる。
「小説を書くなんて、時間の無駄な妄想だって」
陽の光はまだ彼女の顔を照らしていた。けれど、それはもう彼女の瞳には届かない。まるで薄い靄がかかってしまったように、光を跳ね返すこともなく、ただ静かに沈んでいた。
「応援してくれないなんて……最初から分かってたよ」
彼女は声を潜めるようにして、まるで誰かに聞かれないように、けれど……きっと、もう抑えきれなくなったんだろう。ようやく、ぽつりとこぼした。
「でも……それでも、やっぱり……書きたいの」
その声は独り言のように小さくて、それでいて、深く水の底に沈んでいた願いがようやく浮かび上がってくるような、そんな震えを帯びていた。
「ほんの一瞬でもいい……誰にも読まれなくたって、頭の中にある物語を、書き出してみたいの……」
その最後の一言には、どこか壊れかけた音が混ざっていた。笑おうとしているのに、うまく笑えていない。口元は確かに微笑んでいたけど、そこにいつもの明るさはなくて──ただひたむきなまでの意地と、そっと滲み出る痛みだけが、静かにそこにあった。
私の胸の奥が、きゅうっと痛くなった。まるで、見えない何かにそっと掴まれたように。私は彼女を見つめながら、そっと言葉を紡いだ。
「……だったら、書けばいいよ」
星奈はわずかに目を見開いて、私のほうを振り返った。その瞳には、一瞬だけ戸惑いの色が浮かんだ。まるで、そんなふうに、何の疑いもなく言ってくれる人がいるなんて、まったく想像していなかったように。
私は息を吸い込み、喉の奥で震える声をどうにか押し込めながら、心臓の音よりも強く聞こえるように、精一杯まっすぐな声で言葉を続けた。
「たとえ誰にも応援されなくても……少なくとも、私はするから」
声はまだかすかに震えていたけれど、私は彼女の瞳から一瞬たりとも目を逸らさなかった。
「私に何ができるかなんて分からないけど……でも、私はずっとそばにいる。ずっと、支えたい。だって、星奈の『好き』っていう気持ちが、私にとっては守りたいものだから」
その言葉を口にした瞬間、自分の心臓の音がはっきり聞こえた気がした。静まり返った教室の中で、鼓動がひとつひとつ、空気に響いていく。
また風がそっと吹いてきた。少し冷たさを含んだ風が、私の頬を撫で、前髪をふわりと揺らす。顔を上げると、彼女もこちらを見ていた。星奈の瞳は柔らかくなっていて、まるで陽の光を映した水面のように、あたたかく揺れていた。
教室にはもう誰もいない。放課後の光が窓から斜めに差し込み、静かな金色に染められたこの空間は、まるでふたりだけを包む優しい結界のようだった。
私は深く息を吸い込み、それから思い切って手を伸ばし、星奈の指先をそっと取った。
彼女は小さく目を見開き、視線を落として私たちの繋がった手を見つめる。次の瞬間、彼女はふわりと微笑んだ。その微笑みは淡くて控えめで、それなのに胸がぎゅっと締めつけられるほど優しかった。まるで融けはじめた雪、あるいは春の最初のそよ風のようで、固く閉ざされていた心がほんの少しだけ解けていく、そんなかすかな強さが宿っていた。
そして星奈は、そっと、でもしっかりと私の手を握り返してくれた――十指を絡めて。
彼女の手のひらはほんのり温かくて、そこに宿る体温や鼓動が、ゆっくりと、私の呼吸や感情に重なっていく。言葉はいらなかった。もう、私たちはお互いの気持ちをちゃんと分かっていた。
「なんか……すごく変わったね、遥」
星奈は小さく笑って、午後の陽だまりのように穏やかな瞳で私を見つめる。その声は、風が指先をかすめるようにやさしくて、くすぐったかった。
私はそっと視線を落とした。胸の鼓動が速すぎて、まるで今にも飛び出しそうな気がした。掌から伝わってくる温もりはまだ燃え続けていて、その感触があまりにも現実的で、そして夢のようでもあったから、強く握り返すことすら怖くなってしまう。
「いつからかは、よく分からないけど……ずっと、もっと星奈のことを知りたいって思ってた」
私は小さな声でそう呟いた。震えるような声だったけど、その一言一言は、心の奥底から少しずつ湧き上がってきた湖の水のように、確かで真っ直ぐな気持ちだった。
「君の好きなもの、昔の夢、怖かったこと……全部、知りたい」
声の大きさは変わらないけど、勇気だけは一つずつ積み重ねていった。
「前の私だったら、こういうとき、ただ黙って下を向いてただろうな……でも今日は、星奈の手を握った」
私はそっと視線を上げた。彼女がまだ私の手をしっかりと握ってくれているのが見えた。
「……もしかしたら、私、本当にちょっとだけ……勇気が持てるようになったのかもしれない」
ただ、星奈だから。だからこそ近づきたいと思った。誰にも見せないその心の奥、たとえそこに影や傷が潜んでいても、私は一緒に見て、一緒に乗り越えたいと思った。彼女が望むなら、私はここにいる。たとえ世界がその夢を否定しても、私は彼女と一緒に見届けたい、書き上げたい。
私たちはこれから、一歩ずつ近づいていくんだ。心の奥底を理解し、受け入れ合う存在へと。ただの恋人なんかじゃない。お互いの世界の中で、自分らしさと勇気を取り戻せる──唯一無二の存在になるために。




