第9話 キス一つ分の距離
コンビニの前から駅までの道なんて、ほんの数百メートルしかないのに。でも、降り続く雨に引き伸ばされたみたいで、一歩一歩が雲の上を歩くようにふわふわとしていた。
私は何度か、こっそりと星奈の横顔をうかがった。彼女はもう何も話さず、ただ静かに私の隣を歩いていた。ときどき肩が触れる。その距離感が、いつもの冷静で落ち着いた星奈らしくなくて、不思議な気持ちになった。
何か言いたかったのに、言葉は喉の奥で溶けて消えてしまった。雨はまだ降っていたけれど、少しだけ弱くなっていた。傘に落ちるしとしととした音が、まるで薄い霧のように私たちの間に静かに降り積もって、飛び出しそうな鼓動の音を優しく覆い隠してくれる。
私たちは並んで歩いていた。腕はまだ絡めたままなのに、なんだか星奈がずっと私を見ているような気がしてならなかった。
そして、次の信号で足を止めたとき。街角の軒下で雨宿りしていたそのとき。彼女がふいに体を少しだけ傾けて、私の方を見つめてきた。
その一瞬で、私の呼吸は止まった。まるで誰かに喉をぎゅっと掴まれたみたいに。
顔が、近い。びっくりするほど。彼女のまつ毛についた水滴まで見えるくらい近くて、その瞳の奥に揺れていたのは――私が今まで一度も見たことのない光だった。
もがくような光。押し殺すような、そんな……。
星奈は何も言わなかった。ただ、じっと私を見つめていた。その光景は、あの日の続きを見ているようだった。
ゲームが終わったあと、星奈が私の胸に寄りかかったあの日。絨毯の上で座っていた、あの何かが起きそうになったけれど、ドアのノックに遮られた瞬間。
あの時と同じまなざしだった。ふざける時のいたずらっぽさでもなく、甘える時の優しい依存でもない。もっと深くて、もっと激しくて……私にはまだうまく言葉にできない感情。それはまるで、あふれそうな洪水のようで、彼女が必死にせき止めているように見えた。
私は、どうしたらいいのかわからなくなった。頭の中が真っ白になって、ただひとつ思ったのは――彼女が、近すぎる。
そして、次の瞬間。星奈がそっと手を伸ばしてきた。指先が、私の頬に触れる。残っていた一粒の雨を、やさしく拭うように。
「……遥って、ほんとにすぐ濡れちゃうよね」
星奈は小さくそう呟いた。いつものからかうような調子じゃなくて、むしろ私がまだ知らないような、かすれた声だった。それは、崩れそうなほど優しくて、どこか抑えきれない感情が滲んでいた。
私たちの距離は、もうほんの数センチしかなかった。星奈の吐息が、頬をかすめるほど近くて。私はその一瞬、本気で思ってしまった。
――キス、されるかもしれないって。
私は、今まで恋なんてしたことがなかったし、恋人同士って、こういうとき……こんなことをするものなのかも、わからなかった。
目を見開いたまま、彼女を見つめていた。心臓が、まるで熱湯の中に投げ込まれたみたいにバクバクと煮え立つように跳ねて、顔全体が信じられないほど熱くなって、唇まで微かに震えていた。
だけど、星奈はただ、ふっと笑った。それは小悪魔的ないたずらっぽい笑みじゃなくて……何かを言わずに飲み込んだ、ちょっとだけ切ない笑顔だった。
「……もうすぐ、雨やみそうだね」
そう言いながら、星奈はまた傘をしっかり開いて、まるで何事もなかったかのように、私の手を取って歩き出した。
私は、どうしていいかわからなくて、ただ彼女に引かれるまま、濡れた街路に一歩一歩ついていった。
恋って、まだよくわからない。でも、この震える心臓を抱きしめるように、星奈の手をぎゅっと握った。今は、それだけで十分な気がした。少なくとも、彼女のこの優しさだけは、どうしても見逃したくなかった。
結局、私たちはキスをしなかった。それでも私はわかっていた、あの一瞬のときめきが、私たちの間に、きっと消えない何かを残していたってこと。傘の下の湿った空気みたいに、服の裾に残る雨の跡みたいに、それは、聞き取れなかったけど確かに感じた星奈の心の声──「ねえ、キス……したいかも」って、そんな気がした。




