第6話 私の笑顔は君だけのもの
昼休みの陽射しが斜めに教室へ差し込み、ガラス窓を通って整然と並ぶ机の上に柔らかな光のグラデーションを落としていた。空気にはお弁当の香りと気怠い空気が漂い、机に突っ伏して居眠りする人、数人で集まって楽しそうに話す人。教室には静かで穏やかな日常の音が満ちていた。
私は自分の席に座り、弁当の蓋を開けたところだった。箸を取る前に、見慣れた人影が近づいてくるのが見えた。高橋先輩だ。手にお弁当を持って軽やかに歩み寄る動きは、いつも通り自然で親しげだった。
「遙、今日もお弁当?」
先輩は笑顔で腰をかがめ、私の机の端にお弁当を置いて、何事もなかったかのように軽やかに声をかけてくる。
「うん、今日は玉子焼きと野菜ロール」
私も頷いて、笑顔で返した。
「えー、すごく美味しそう! 一口もらってもいい?」
「いいよ。先輩は今日は……?」
私たちは以前と同じように会話を続けた。まるで特別なことなんて何もなかったみたいに自然な口調で。ただ、視線の端で教室のドアの方を何気なく見たとき、廊下に立ってこちらをじっと見つめる、あの見慣れた姿が目に入った。
星奈だった。
窓の向こうに真っ直ぐ立って、何も言わずにこちらを見ていた。その姿は教室の中の世界から切り離されたようで、まるで遠い風景を眺めているみたいだった。
星奈の表情は静かだった。口元には微笑さえ浮かんでいた。でも——あのいつも輝くような目の光は、そこにはなかった。
彼女はただ黙って私と先輩の会話を見つめて、それから風のように静かに身を翻した。何の音も残さずに去っていったのに、私の胸には細い棘のような痛みが残った。何か柔らかいのに冷たいものが心臓を掴むような感覚。
私は反射的に弁当を閉じた。言葉も早口になる。
「先輩、ごめんなさい、ちょっと用事を思い出して……!」
「ん? あ、いいよ。また今度一緒に食べようね」
先輩は少し驚いたように目を見開いたけれど、すぐに穏やかな笑みで私を送り出してくれた。
私は教室を飛び出し、廊下の奥まで駆けた。星奈はそこにいた。壁に寄りかかって腕を組み、まるで私を待っていたかのように立っていた。
「……先輩とすごく楽しそうだったね」
先に口を開いたのは星奈だった。その声は穏やかだったのに、私の息を止めさせた。
「ただの普通の会話だよ……」
私は小さな声で答えたけれど、その声色には自分でもわかるくらいの後ろめたさが滲んでいて、まるで自分ですら信じきれていない言葉だった。
「そう?」
星奈はゆっくりと一歩近づいてきて、声を少し低く落としながら、じっと私を見つめた。
「でもさ、すごく甘い顔で笑ってたじゃん」
「そんな笑顔、私の前じゃ見たことないんだけど」
「星奈……」
名前を呼ぶのがやっとだった。口を開いたのに、何も言い返す言葉が出てこなかった。
星奈はふっと笑った。その笑顔はいつものように明るくて眩しかった。でも、どこか切なくて、私の胸をきゅっと締め付けた。
「私、ちょっとヤキモチ焼いた方がいいのかな?」
星奈は首をかしげて、わざと軽い調子でそう言った。まるで何でもない風を装っているみたいに。
でも、その瞳の奥に滲んでいた感情は隠し切れていなかった。温かくて、でもちょっと切ないものが、滲み出してしまっていた。
私はほとんど本能のように手を伸ばした。繋ぎたい、埋め合わせたい、何かを返したい。けれど彼女はひらりと身をかわして、逆にもう一歩近づいてきた。
そして私の耳元に身体を寄せてくる。その唇が、私の耳の縁をかすめた。風みたいに柔らかくて、でも火みたいに熱かった。
「その笑顔……私だけにちょうだい?」
私はその場で固まった。頬が一気に熱くなって、耳まで真っ赤になっていくのが自分でもわかった。
「……そ、そんなことない……私、私だって……ちゃんと星奈に笑うもん……それにその笑顔は、全然違うんだから……」
私はうつむいて慌てたように答えた。声はかすかでほとんど聞き取れないほど小さくて、自分でもはっきりとは口に出せない、壊れそうなくらい弱い告白みたいだった。
星奈はじっと私を見つめた。見極めるように、でもちゃんと聞いてくれるように。その自信に満ちた瞳が、少しだけ柔らかくなって、水面が風で揺れるみたいにきらきらと光った。
それから、そっと私の頬を指先でつまんだ。
「わかってるよ。ただ……ちょっと気になっただけ」
声はすっかり柔らかくなって、ふわっと落ちてくる雲みたいだった。
「私もだよ」
私は小さな声で返した。
「ん?」
「私だって……気になるもん……誰かが星奈に優しくしたり、星奈が他の人に優しくしたりすると、なんか……モヤモヤして」
制服の裾をきゅっと掴む指先に、勇気を込めるようにぎゅっと力を入れる。
「だって……好きだからだよ、すごく」
星奈はすぐには返事をしなかった。代わりに、いきなり腕を伸ばして私を抱き寄せた。その動作は素早くて、そしてしっかりと強くて、まるで私をもう一度彼女の世界へ引き戻そうとするみたいだった。
「私も同じ。信じなきゃって思ってても、全部独り占めしたくなる」
耳元で囁く声は、風みたいに優しくて、でもどうしようもなく心に触れてくる。
私たちはそのまま廊下の角に立ち尽くしていた。まるで交わることのなかった二本の軌道が、この静かな午後についに重なったみたいに。彼女の抱擁はとてもあたたかくて、不安も嫉妬も全部、言葉にできないほど親密なぬくもりに変えてしまうようだった。
「次は、もっとたくさん笑ってあげる」
私は星奈の肩に顔を埋めたまま、小さく呟いた。
「ダメ」
彼女は突然返事をして、わざと私を見上げさせるような声を出した。
「私が欲しいのは笑顔だけじゃない。……遙の心を、独り占めしたい」
思わず笑ってしまったけど、そんな風に何も隠さずに欲しがってくれる彼女の言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。
恋って、きっとこういうものなんだろうな——いつもキラキラしているわけじゃなくて、優しいだけでもなくて。嫉妬も、不安も、ちょっとした酸っぱさも、相手を心ごと閉じ込めたくなるわがままもあって。それでも、そういう気持ちがあるからこそ、私たちは本物になれるし、もっと近づけるんだ。
その日の昼休み、私たちは手をつないで廊下を歩いた。陽射しはちょうどよくて、風は穏やかで、私たちの顔にはようやくまた笑顔が戻っていた。




