表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冴えない私が輝く星と出会った  作者: 雪見遥
第12章 昨日より、もう少しだけ君が好き

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

78/115

第2話 夢を手繰る入眠の声

 夜はすっかり更け、窓の外では風がやさしく吹き抜けていた。月明かりの下、木々の影がそっと揺れて、まるで誰かが囁いているみたいだった。部屋の中には小さなナイトライトだけが灯り、あたたかな橙色の光が壁に斜めに映し出されて、やわらかく穏やかな輪郭を浮かび上がらせる。まるで時間さえも、ゆっくりと流れているようだった。


 私はベッドの上に横になり、スマホを手に握っていた。画面には、見慣れた名前――星奈の名前が、まだ明るく光っている。


 数秒間、キーボードの上に指先を止めたまま、それから一言だけメッセージを送った。


「……まだ起きてる?」


 ほとんど瞬間的に、スマホが微かに震えた。


「眠れない」


「だから……ちょっとだけ、君の声が聞きたくなった」


「今日……少しだけ電話、してもいい?」


 次の瞬間、着信画面がふわっと現れた。あの馴染み深いアイコンが跳ねて、私の心臓が少しだけ跳ねる。


 一瞬、躊躇したけど、すぐに応答ボタンをスライドさせた。耳に届いたのは、微かに鼻にかかった、少し眠そうな彼女の声だった。


「……遙」


「いるよ」


 私はそっと答えた。


 彼女は少し黙ってから、ぽつりとつぶやいた。


「君の声って……本当に催眠みたいだよ」


 私はくすりと笑った。


「私、睡眠アプリかな?」


「違うよ。『彼女限定』の、特別なやつ」


 ちょっと甘えたようにそう言う彼女の声は、綿あめみたいにふわふわしていて、私の胸の奥にやさしく落ちていった。


 頬が思わず熱くなる。電話越しでよかった……この顔は、今は見られたくない。


「今日は、どうして眠れないの?」


 私は声を落として、まるで彼女の気持ちを壊さないように、そっと訊いた。


 電話の向こうで、数秒間の沈黙が流れる。窓の外では、細かい雨がガラスを叩く音がして、夜の静けさにそっと彩りを添えていた。この世界が、まだ完全に止まったわけじゃないと、知らせてくれているみたいだった。


「……別に、大したことじゃないんだけどね」


 ようやく彼女が口を開いた。声は、まるで夜を起こさないようにと願うかのように、静かで小さかった。


「ただ……部屋の電気を消して、ベッドに横になった瞬間、ふいに昔の記憶が浮かんできちゃって。部屋が暗くなると、世界がすごく静かで、すごく空っぽに思えて……なんにもなくなっちゃったような気がして……」


 彼女の言葉が一度止まる。その語調は、何かに引き止められているようで、かすかに、今にも消えてしまいそうだった。


「今の私は、ひとりにももう慣れたけど……それでも、怖いの、いつか、あの頃の毎日がまた戻ってくるんじゃないかって。目が覚めたら、全部消えてるんじゃないかって」


 星奈の声には詰まるような響きはなかった。でも、その言葉は私の喉をきゅっと締めつけた。泣き声ではない、だけど……泣くことさえ、もうやめてしまったような、そんな深い痛みがそこにあった。


 私は何を言えばいいのかわからなくて、ただスマホをぎゅっと握りしめた。もっと強く握れば、私の声がこの距離を越えて、少しでも彼女の心に届く気がした。


「……星奈、私はここにいるよ」


 私は小さく、でも確かにそう言った。


「ずっと、ここにいるから」


 電話の向こうからは、しばらく何の返事もなかった。静かな夜に、彼女の微かな呼吸だけが聴こえてくる。それが、少しずつ私の耳に染み込んでいった。そして、彼女はひとつ、深く息を吐いた。長くて、安堵の混ざったような吐息。


「うん、わかってる」


 その声は風みたいに静かで、やわらかかった。けれど、その奥には、言葉にしきれない何かが隠れていた。


「でもさ、ほんの少しだけでも……もし、ある日突然、私がいなくなったら、遙は……どう思う?」


 その言葉は冗談みたいには聞こえなかった。どこかで探っているような、それとも、本当はずっと怯えているような——そんな響き。


 私は一瞬、固まってしまった。知らず知らずのうちに眉をひそめていた。


「どうして急にそんなことを?」


「ただ、答えが知りたくなっただけ」


 彼女は少し笑った。でもその笑いに、本物の笑みは感じられなかった。


「遙はきっと、簡単には私のそばを離れないって信じてる。でも、私はまだ怖いの。私がいなくなったら……遙はもう、私を待たなくなるんじゃないかって」


 私は静かに唇を噛んだ。胸の奥がきゅっと締めつけられて、少し苦しくなる。そしてそっと答えた。


「……もし、ある日突然星奈がいなくなったら、私はきっとスマホを握って、一日中ずっと待ってると思う。たとえ一通のメッセージも届かなくても、私はきっと、それでも待ち続ける」


「前に言ってくれたよね。今の私が好きだって。私が――この世界で初めて、全部の警戒心を解いてもいいと思えた相手だって……だから、私はずっと、君のことを想い続けるよ。帰ってくるのを、どれだけでも待ってる」


 電話の向こうから、再び静寂が戻ってきた。聞こえてくるのは、かすかな息遣いだけ。私は体を横にして、顔を枕にうずめた。胸の奥にこみ上げてくる、名前もつけられないような、切なさと温かさが入り混じった感情。


 しばらくして、彼女がようやく口を開いた。風に乗って消えてしまいそうな、ほんのわずかな声で。


「……本当に、遙のことが大好き」


 その瞬間、心臓が一際大きく跳ねた気がした。


 私はそっと答える。枕に吸い込まれそうなほど、小さな声で。


「私もだよ」


 それは言葉にしきれない想いだった。たったひと言で、心の奥底にある本当の気持ちがすべて溢れ出すような、そんな響き。


「ねぇ……今夜、いっしょに眠ってくれない?」


 彼女の声は、甘えるようでいて、どこか祈るようでもあった。


 私は思わずふっと笑った。その声は羽のように柔らかくて、静かに夜に溶けていった。


「もちろん、いいよ」


「ありがとう」


 彼女の声には、どこかほっとしたような安らぎが滲んでいた。


「こんな夜に、遙の声が聞けるだけで……少し、ひとりじゃないって思えるの」


 私は体を横にして、頬を布団にくっつけた。声も自然と、やさしく柔らかくなる。


「もしできるなら……これからも、こんな夜は全部、私がそばにいたいな」


「電話だけじゃなくて……星奈がひとりじゃないって、ちゃんと伝えたい」


 電話の向こうで、くすっと小さな笑い声が聞こえた。鼻に少しだけかかったその声には、ほんのりと眠気も混ざっていた。


「……うん、じゃあちょっとだけ、わがまま言ってもいい? 今夜は……もっと遙と一緒にいたいの」


 彼女が今、布団にくるまって、まつげをふるふる震わせながら、うるんだ瞳で話している姿が、まぶたの裏に浮かぶ気がした。


「いいよ」


「じゃあ……お話、聞かせてくれる?」


「うん……じゃあ、簡単なお話をしてあげるね」


 私は声を落とし、まるで眠りに落ちかけている子どもをあやすように語りはじめた。


「月の話。森の話。そして、手をつないだふたりがね、遠い遠い道をいっしょに歩いていくの。風に打たれ、雨に濡れ、いろんな景色を通り抜けながら……でも、決して手を離さなかった、そんなふたりの物語」


 彼女は何も言わなかった。ただ、静かに、耳を澄ませていた。私はわかっていた。彼女はずっと、私の声に耳を傾けてくれていた。


 電話越しに聴こえてくる彼女の呼吸が、ゆっくり、ゆっくりと穏やかになっていく。その音は、まるで寄せては返す波のようにやさしくて、私の心の奥に残っていた不安や緊張を、少しずつ洗い流してくれた。


 私たちはもう、何も言葉を交わさなかった。ただ、互いの存在を、静かに確かめ合っていた。


 ときどき、彼女が小さく尋ねる。


「まだ、いる?」


 私は微笑んで返す。


「いるよ」


 するとまた、彼女のくすっとした笑い声が返ってくる。


 時間はゆっくりと過ぎていった。スマホの画面には、まだ通話中の表示が灯っている。私はそのまま耳を澄ませながら、彼女の呼吸がさらに安らかになっていくのを感じた。ようやく、安心して眠りに落ちていく音。


 私はスマホに顔を寄せて、そっと囁いた。


「おやすみ、星奈。いい夢を……夢の中でも、ちゃんと私に会ってね」


 やがて、ぼんやりとした「うん……」という声が聴こえてきた。まるで、夢の中でも私の言葉が届いているようだった。


 私はそっとスマホに顔を近づけて、目を閉じた。そのぬくもりが、この夜を特別なものにしてくれた。


 今、私はちゃんと、彼女の夢の中で、手をつないでもらっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ