第2話 夢を手繰る入眠の声
夜はすっかり更け、窓の外では風がやさしく吹き抜けていた。月明かりの下、木々の影がそっと揺れて、まるで誰かが囁いているみたいだった。部屋の中には小さなナイトライトだけが灯り、あたたかな橙色の光が壁に斜めに映し出されて、やわらかく穏やかな輪郭を浮かび上がらせる。まるで時間さえも、ゆっくりと流れているようだった。
私はベッドの上に横になり、スマホを手に握っていた。画面には、見慣れた名前――星奈の名前が、まだ明るく光っている。
数秒間、キーボードの上に指先を止めたまま、それから一言だけメッセージを送った。
「……まだ起きてる?」
ほとんど瞬間的に、スマホが微かに震えた。
「眠れない」
「だから……ちょっとだけ、君の声が聞きたくなった」
「今日……少しだけ電話、してもいい?」
次の瞬間、着信画面がふわっと現れた。あの馴染み深いアイコンが跳ねて、私の心臓が少しだけ跳ねる。
一瞬、躊躇したけど、すぐに応答ボタンをスライドさせた。耳に届いたのは、微かに鼻にかかった、少し眠そうな彼女の声だった。
「……遙」
「いるよ」
私はそっと答えた。
彼女は少し黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「君の声って……本当に催眠みたいだよ」
私はくすりと笑った。
「私、睡眠アプリかな?」
「違うよ。『彼女限定』の、特別なやつ」
ちょっと甘えたようにそう言う彼女の声は、綿あめみたいにふわふわしていて、私の胸の奥にやさしく落ちていった。
頬が思わず熱くなる。電話越しでよかった……この顔は、今は見られたくない。
「今日は、どうして眠れないの?」
私は声を落として、まるで彼女の気持ちを壊さないように、そっと訊いた。
電話の向こうで、数秒間の沈黙が流れる。窓の外では、細かい雨がガラスを叩く音がして、夜の静けさにそっと彩りを添えていた。この世界が、まだ完全に止まったわけじゃないと、知らせてくれているみたいだった。
「……別に、大したことじゃないんだけどね」
ようやく彼女が口を開いた。声は、まるで夜を起こさないようにと願うかのように、静かで小さかった。
「ただ……部屋の電気を消して、ベッドに横になった瞬間、ふいに昔の記憶が浮かんできちゃって。部屋が暗くなると、世界がすごく静かで、すごく空っぽに思えて……なんにもなくなっちゃったような気がして……」
彼女の言葉が一度止まる。その語調は、何かに引き止められているようで、かすかに、今にも消えてしまいそうだった。
「今の私は、ひとりにももう慣れたけど……それでも、怖いの、いつか、あの頃の毎日がまた戻ってくるんじゃないかって。目が覚めたら、全部消えてるんじゃないかって」
星奈の声には詰まるような響きはなかった。でも、その言葉は私の喉をきゅっと締めつけた。泣き声ではない、だけど……泣くことさえ、もうやめてしまったような、そんな深い痛みがそこにあった。
私は何を言えばいいのかわからなくて、ただスマホをぎゅっと握りしめた。もっと強く握れば、私の声がこの距離を越えて、少しでも彼女の心に届く気がした。
「……星奈、私はここにいるよ」
私は小さく、でも確かにそう言った。
「ずっと、ここにいるから」
電話の向こうからは、しばらく何の返事もなかった。静かな夜に、彼女の微かな呼吸だけが聴こえてくる。それが、少しずつ私の耳に染み込んでいった。そして、彼女はひとつ、深く息を吐いた。長くて、安堵の混ざったような吐息。
「うん、わかってる」
その声は風みたいに静かで、やわらかかった。けれど、その奥には、言葉にしきれない何かが隠れていた。
「でもさ、ほんの少しだけでも……もし、ある日突然、私がいなくなったら、遙は……どう思う?」
その言葉は冗談みたいには聞こえなかった。どこかで探っているような、それとも、本当はずっと怯えているような——そんな響き。
私は一瞬、固まってしまった。知らず知らずのうちに眉をひそめていた。
「どうして急にそんなことを?」
「ただ、答えが知りたくなっただけ」
彼女は少し笑った。でもその笑いに、本物の笑みは感じられなかった。
「遙はきっと、簡単には私のそばを離れないって信じてる。でも、私はまだ怖いの。私がいなくなったら……遙はもう、私を待たなくなるんじゃないかって」
私は静かに唇を噛んだ。胸の奥がきゅっと締めつけられて、少し苦しくなる。そしてそっと答えた。
「……もし、ある日突然星奈がいなくなったら、私はきっとスマホを握って、一日中ずっと待ってると思う。たとえ一通のメッセージも届かなくても、私はきっと、それでも待ち続ける」
「前に言ってくれたよね。今の私が好きだって。私が――この世界で初めて、全部の警戒心を解いてもいいと思えた相手だって……だから、私はずっと、君のことを想い続けるよ。帰ってくるのを、どれだけでも待ってる」
電話の向こうから、再び静寂が戻ってきた。聞こえてくるのは、かすかな息遣いだけ。私は体を横にして、顔を枕にうずめた。胸の奥にこみ上げてくる、名前もつけられないような、切なさと温かさが入り混じった感情。
しばらくして、彼女がようやく口を開いた。風に乗って消えてしまいそうな、ほんのわずかな声で。
「……本当に、遙のことが大好き」
その瞬間、心臓が一際大きく跳ねた気がした。
私はそっと答える。枕に吸い込まれそうなほど、小さな声で。
「私もだよ」
それは言葉にしきれない想いだった。たったひと言で、心の奥底にある本当の気持ちがすべて溢れ出すような、そんな響き。
「ねぇ……今夜、いっしょに眠ってくれない?」
彼女の声は、甘えるようでいて、どこか祈るようでもあった。
私は思わずふっと笑った。その声は羽のように柔らかくて、静かに夜に溶けていった。
「もちろん、いいよ」
「ありがとう」
彼女の声には、どこかほっとしたような安らぎが滲んでいた。
「こんな夜に、遙の声が聞けるだけで……少し、ひとりじゃないって思えるの」
私は体を横にして、頬を布団にくっつけた。声も自然と、やさしく柔らかくなる。
「もしできるなら……これからも、こんな夜は全部、私がそばにいたいな」
「電話だけじゃなくて……星奈がひとりじゃないって、ちゃんと伝えたい」
電話の向こうで、くすっと小さな笑い声が聞こえた。鼻に少しだけかかったその声には、ほんのりと眠気も混ざっていた。
「……うん、じゃあちょっとだけ、わがまま言ってもいい? 今夜は……もっと遙と一緒にいたいの」
彼女が今、布団にくるまって、まつげをふるふる震わせながら、うるんだ瞳で話している姿が、まぶたの裏に浮かぶ気がした。
「いいよ」
「じゃあ……お話、聞かせてくれる?」
「うん……じゃあ、簡単なお話をしてあげるね」
私は声を落とし、まるで眠りに落ちかけている子どもをあやすように語りはじめた。
「月の話。森の話。そして、手をつないだふたりがね、遠い遠い道をいっしょに歩いていくの。風に打たれ、雨に濡れ、いろんな景色を通り抜けながら……でも、決して手を離さなかった、そんなふたりの物語」
彼女は何も言わなかった。ただ、静かに、耳を澄ませていた。私はわかっていた。彼女はずっと、私の声に耳を傾けてくれていた。
電話越しに聴こえてくる彼女の呼吸が、ゆっくり、ゆっくりと穏やかになっていく。その音は、まるで寄せては返す波のようにやさしくて、私の心の奥に残っていた不安や緊張を、少しずつ洗い流してくれた。
私たちはもう、何も言葉を交わさなかった。ただ、互いの存在を、静かに確かめ合っていた。
ときどき、彼女が小さく尋ねる。
「まだ、いる?」
私は微笑んで返す。
「いるよ」
するとまた、彼女のくすっとした笑い声が返ってくる。
時間はゆっくりと過ぎていった。スマホの画面には、まだ通話中の表示が灯っている。私はそのまま耳を澄ませながら、彼女の呼吸がさらに安らかになっていくのを感じた。ようやく、安心して眠りに落ちていく音。
私はスマホに顔を寄せて、そっと囁いた。
「おやすみ、星奈。いい夢を……夢の中でも、ちゃんと私に会ってね」
やがて、ぼんやりとした「うん……」という声が聴こえてきた。まるで、夢の中でも私の言葉が届いているようだった。
私はそっとスマホに顔を近づけて、目を閉じた。そのぬくもりが、この夜を特別なものにしてくれた。
今、私はちゃんと、彼女の夢の中で、手をつないでもらっている。




