第1話 私は自分から動こうと思えた
放課後、私は星奈と手を繋いで歩道を歩いていた。夕陽が斜めにアスファルトの道路に差し込み、私たちの影を細長く、やわらかく伸ばしていた。
授業後の些細な話をしながら歩き、時々笑いながら手をゆらゆらと振る、まるで恋人同士にしか通じない合図を送り合っているようだった。
ある角を曲がったその時。
「ぐぅ〜」
「ぐぅ〜」
私たちのお腹が、まるで示し合わせたかのように同時に鳴った。
私は一瞬ぽかんとしてから、思わず吹き出してしまった。
「なんかちょっとお腹空いたかも……」
星奈が私の方を向き、眉を下げながらも楽しそうに言った。
「え、私も!」
私はお腹を押さえながら、にへらと笑った。
「どっかで何か食べようよ?」
「最近、話題になってるパン屋さんがあるの。チョコクロワッサンとクリームあんぱんがめっちゃ美味しいらしいよ」
彼女の瞳がきらきらと輝き、どれだけ楽しみにしているかがすぐに伝わってきた。
でも、私は首を横に振った。
「でもパンって気分じゃないんだよね」
「え? じゃあ、何食べたいの?」
私はほとんど考える間もなく、ぽんと口にした。
「カレーうどん食べたい!」
「ちょっと待って、私たち昼にお弁当食べたばっかだよ? おやつにうどんって……」
「大丈夫だってば!」
私は自信満々に言い放った。まるで信念を語るかのように。
「私にとって、ちゃんと食事って言えるのはご飯か麺がある時だけなんだよね」
「つまり……パンはノーカウント?」
彼女が半目になって、信じられないものを見るような目で私をじっと見た。
「パンはあくまでおやつ。魂がない。ご飯にはならないの!」
私は背筋を伸ばして、まるでグルメ討論会に出場しているかのように真面目な顔で語った。
「……完全に炭水化物依存症だよ、それ」
「なにそれーっ!」
私は抗議の声を上げたけれど、顔はもう笑いでいっぱいだった。
彼女も堪えきれずに吹き出して、目尻をほそめた。
「わかったわかった、じゃあうどんにしよう。おやつでがっつり食べるの、なんか新鮮だね」
そうして私たちは、路地裏にひっそり佇む小さなうどん屋さんに入った。木製の看板は年季が入っていたけど、店内に漂うカレーの香りが、私たちの空腹を一気に刺激した。
注文したアツアツのカレーうどんが運ばれてきた瞬間、湯気を立てる濃厚な香りに包まれて、心までとろけそうな幸福感が広がっていった。
「ほんとに全部食べきれるなんて、すごすぎる……」
星奈は、私が最後の一口のスープを飲み干すのを見て、まるで奇跡でも見たかのような声で言った。
「だって、ほんとに好きなんだもん!」
私は笑いながらスプーンを置き、あまりの満足感にゴロンと転がりたい気分になった。
「そういえば、妳って毎食必ずご飯か麺を食べてる気がする……でもそんなに食べて、カロリーどこに行ってるの?」
「わかんない、よく聞かれるけど。体質かな? それに普段、運動もしてるし」
「うーん……このまま一緒に食べ続けたら、絶対太っちゃうよ……チョコレート減らすしかないかも」
彼女はわざとらしくため息をついて、まるで人生の大決断でもしているような顔をした。
「じゃあ、私と一緒に運動すればいいじゃん」
私は笑って言った。
「ムリだよ、デートで運動して、うどん食べて、しかも太っちゃうなんて、私つらすぎでしょ~」
そう言いながら首を振る星奈。でもその口ぶりとは裏腹に、箸はしっかりと大きなうどんをすくっていた。
私は、文句を言いつつもすごく嬉しそうに食べている彼女の姿を見て、思わずふふっと笑ってしまった。そして小さく囁くように言った。
「ほんとはすっごく楽しんで食べてるくせに……」
彼女は顔を上げて、少し困ったような、それでいて笑っているような、そしてなによりも……優しさに満ちた目で私を見つめた。
その瞬間、なぜかちょっとだけ笑ってしまった。でもその笑いは、心の底からふわっと溢れ出た、軽やかな笑いだった。
昔の私は、いつも星奈に釣り合わないって思ってた。頭も良くないし、気も利かないし、完璧なんてほど遠くて……ちょっとでも間違えたら、彼女にとって私はいらない存在になるんじゃないかって。
でも今の私は、こうやって「カレーうどん食べたい」って自然に言える。「パンはごはんじゃないよ」って鼻を皺めて言える。自分のお腹の声を代弁して、堂々とあつあつの幸せを一杯、手に入れられるようになった。
もしかしたら──そんな一口一口から、私は少しずつ変わってきたのかもしれない。
完璧じゃなくていい。誰かの期待に応える必要もない。ただの「私」でいられたらいい。彼女の隣にいられるなら、それだけで十分。
私たちは最後のカレーうどんを食べ終えて、私はまだ名残惜しそうにスプーンの端をぺろっと舐めた。口元にちょこんと、カレーのスープがついていた。
それを見た星奈は、迷わずティッシュを取って、そっと私の口元を拭ってくれた。その仕草はとてもやさしくて、まるで大切な宝物に触れるみたいだった。彼女の目には、やわらかな笑みが浮かんでいた。私は、顔を上げるのが怖かった。だって、顔が真っ赤になって、湯気が出ちゃいそうだったから。
そのとき、店の奥からおばちゃんが笑顔でやってきた。手には小さな白い皿を載せていた。
「これ、今日煮たばかりのお豆腐よ。ちょっとだけだけど、よかったら食べてみてね」
私は一瞬ぽかんとして、あわててスプーンを置いて、慌てながらお礼を言った。
「えっ? あっ、ありがとうございます……!」
星奈もにっこりと自然な笑顔で受け取りながら言った。
「わあ〜おいしそう。ほんとにいいんですか?」
おばちゃんの笑顔は、午後の陽に熟れた稲穂みたいだった。やわらかくて、ほんのりあたたかい光をまとっているような。
「いいのよ。お二人さん……すごく雰囲気がいいわね。見てるだけで幸せな気分になるもの。特別なもの、サービスしなくちゃね」
その言葉は控えめだったけれど、まるで何気なく、私たちの恋をそっと祝福してくれているようだった。
私は瞬間的に顔が真っ赤になって、あわてて水を飲むふりをして俯いた。目も泳がせたくなくて、呼吸のリズムまでおかしくなった気がする。
でも星奈はまったく動じず、むしろ私の方をちらりと見て、口元をほんの少しだけ持ち上げた。それから、私にしか聞こえないくらいの小さな声で、ふわっと言った。
「うん、たしかに……すごく楽しく食べてたしね」
その声は風のように軽かったけれど、語尾にはちょっぴり甘さが混じっていて、私の心臓をこっそりキュッとつまんでくるようだった。
おばちゃんが背を向けて離れていったあと、私は小さくぼそっと言った。
「もしかして……ほんとにバレた?」
「ん~どうかな~」
星奈はわざとらしく語尾を伸ばして、トボけた口調で返しながら、箸を取って白くて柔らかい豆腐を一切れ、私の器にそっと入れてくれた。
「でも、別に隠すことでもないでしょ? だって……この雰囲気、隠しきれないし」
彼女が入れてくれた豆腐をひとくち食べた。味はすごくあっさりしているのに、さっきの濃厚なカレーよりも、なぜか甘く感じた。
窓の外は少しずつ暗くなってきて、路地の先にある街灯がぽつりぽつりと灯り始めていた。ちょうちんのように、柔らかく静かに光っている。空気の中には、カレーと出汁の香りがほんのり漂っていた。
私たちは、それ以上何も言わなかった。ただ静かに、最後の豆腐とタレの一滴まで、大切に食べていた。
だけどその静けさは、ぜんぜん気まずくなんかなかった。あたたかくて、満ちていて、まるで毛布みたいに二人のあいだにふわりと掛けられていた。
こんな午後には、カレーがあって、うどんがあって、こっそりの恋が祝福された小さな奇跡があって。
私たちの恋は、時々このカレーうどんみたい──あつあつで、濃くて、ちょっぴりスパイシー。食べ終わったあと、ふっと思うの。
……ああ、幸せだなって。
シンプルなのに、ちょうどいいくらいに幸せな恋。




