第9話 いつもよりあたたかい手つなぎ
夕暮れ時、風はひときわ冷たかった。私たちは肩を並べて校門を出ていく。周囲から聞こえていた生徒たちの足音や笑い声も次第に遠ざかり、世界にはまるで私たち二人の影だけが残されたように、夕日に引き伸ばされて静かに道に寄り添っていた。
オレンジ色の斜陽が街に降り注ぎ、校舎のまわりにある建物や木々の影を柔らかな光で包み込む。いつも見慣れた電柱や横断歩道でさえ、この光の中では特別に優しく映る。
私はマフラーを少し持ち上げて、冷たい風に赤くなった頬を隠そうとした。でも、耳も手もやっぱり冷え切っていて、まるで何か秘密めいた感情に溶けてしまいそうだった。
そのときだった。私の手が何かにそっと握られた気がした。
「ん……?」
顔を向けると——星奈だった。
彼女が、そっと私の手を握ってくれていた。
指先は少し冷たかったけれど、掌は意外にも温かかった。そのぬくもりは、暖房のような機械的な熱さではなくて、彼女自身の体温だった。ちょっと不器用だけど、思わず頼りたくなるような、そんな「ぬくもり」だった。
「こんなに冷たいのに、なんで手袋してないの?」
彼女は眉をひそめて言った。その声には少し叱るような響きがあったけれど、怒りの色はなくて、むしろ呆れと……少しの優しさが滲んでいた。
「朝、急いでて……忘れちゃったの」
私は気まずそうに小さな声で答えた。
彼女はそれ以上何も言わず、ふいに立ち止まった。
そして、握っていた私の手をそっと引いて、自分のコートのポケットに押し込んだ。
「えっ、えっ……!?」
反応する間もなく、掌は彼女のポケットの中に収まっていた。そこには彼女の体温が満ちていて、内側の裏地は柔らかくて心地よくて、まるでほんのり温かい毛布のようだった。安心できるその感触に、思わず心まで包まれた気がした。
ふわりと漂う香り——彼女の服に残っていた洗剤の匂い。そこに、ほんの少しの日差しの香りと、彼女自身の匂いが混じっていた。
一瞬で、私はこのあたたかい小さな隠れ家に、まるごと包み込まれてしまった。
「こんなに冷たくなってるのに何も言わないなんて……ほんと、バカ」
彼女は横を向きながら、ぽつりと呟いた。責めるような言い方だったけれど、その横顔にはほんのりと赤みが差していて、耳たぶまで恥ずかしそうに染まっていた。
私はぽかんとして、指先すら動かせなかった。でも、彼女は手を離さなかった。むしろ、握っていた手をさらにぎゅっと包み込んで、掌と掌を密着させるようにしてくれた。まるでそのぬくもりを、私の身体の奥にまで届けようとしてくれているみたいだった。
私たちの手は、彼女のポケットの中で寄り添っていた。二人の体温が、そっとその場所で交わっていた。
二人で一つのポケットを使っていた。
手袋でも、カイロでもない。彼女が私のためだけに作ってくれたぬくもりの要塞——私だけの、秘密の空間だった。
風は相変わらず冷たくて、空気には冬特有の薄い霧と、恋の匂いが混じっていた。街を行く人影はまばらだったけど、私はまるで一杯のホットミルクに浸かっているみたいだった。
世界が柔らかくなって、甘くなって、ちょっとだけ、いや、かなり幸せすぎるくらいだった。
「……手、すごくあったかい」
私はそっと呟いた。まるで秘密を抱えた子猫みたいな声で、ふわりと、やわやわと甘えるように。その声には少しの驚きと、少しの頼りなさ、そしてたくさんの不安が混ざっていた。でも、それらは彼女の優しさに包まれて、少しずつ安心へと溶けていった。
「じゃあ、大人しく温められてて。逃げちゃダメだからね」
彼女も静かに返してくれた。まるで、私がこのまま逃げてしまうんじゃないかって思っているかのような声で。少しの照れと、少しの甘え、そしてどうしても隠せない優しさを混ぜながら。でもその柔らかさの奥には、まるで運命に誓うような、そんな決意が、静かに秘められていた。
まるで、そのほんの少しの体温で、「本当に、好きだよ」って、私に伝えようとしてくれているみたいだった。
私はこっそりと顔を上げて、彼女を見た。
夕陽がちょうど彼女の横顔を照らしていて、全身をオレンジゴールドの優しい光で包み込んでいた。彼女は私を見ていなかった。でも、まるで私が見ているのを最初から知っていたかのように、穏やかで優しい表情を浮かべていた。
その瞬間、私はこれまで一度も見たことのない彼女の表情を見た。
揺るぎない想いと、柔らかな優しさ。それが、彼女の瞳の中で同時にきらめいていた。
そうして私は、片手を彼女のポケットに入れたまま、彼女と並んで家路を歩いた。遠くの空は静かに茜色に染まり、ゆっくりと夜が近づいてきていた。
私たちは何も話さなかった。ただ静かに歩いた。それだけなのに、夕暮れの街は、もうとっくにあたたかくなっていた。
***
今の私は、きっとまだ迷っているし、自分を疑うこともあるし、怖くなるし、自信が持てない時だってある。こっそり「私なんて目立たない存在かも」って思うこともある。
それでも、彼女が「好きだよ」って言い続けてくれるなら。まだ私の手を握ってくれているなら。それだけで私は、もう少しだけ頑張れる気がする。少しずつ、彼女の隣に並べるようになれる気がする。
だって、私が手を繋いでいるその人は——私に、もう一度「自分を信じる」ということを、少しずつ教えてくれる女の子だから。「彼女に釣り合わない自分」なんて思わなくてもいいって、そう思わせてくれる人だから。
私は彼女にとって、たった一人の、かけがえのない存在なんだって——そう信じさせてくれるから。




