第8話 光が影を抱きしめた
数日後、私はすっかり回復していた。今日は、放課後に一緒に帰ろうって、約束してた日だった。
私はリュックを背負いながら、ゆっくりと階段を下りていた。踊り場の角を曲がったとき、遠くに星奈の姿が見えた。彼女の周りには、見たことのない数人の女子がいた。きれいで、姿勢が良くて、自信に満ちていて、きちんとした服装で、笑うとその瞳が星のように輝いて見えた。
彼女たちはあまり近くには立っていなかったけれど、言葉を交わすたびに視線が絡み合っていて、それだけで──彼女たちが知り合いで、しかもそれなりに親しいのが分かった。
私は階段の踊り場で立ち止まり、無意識に歩みを遅らせた。まるで、胸の奥を何かにそっと噛まれたようだった。
……ああいう子が、彼女にふさわしいんじゃないかな。
友達と話していただけだって、ちゃんと分かってるのに。だけど、ああいう場面を見るたびに、私はいつも思ってしまう、彼女は、ただの気まぐれで私に惹かれただけなんじゃないかって。いつか、後悔するんじゃないかって。
星奈が私のことを好きだって、信じていないわけじゃない。病気のとき、彼女がどれだけ必死に看病してくれたか、私はちゃんと覚えてる。好きじゃなきゃ、あんなこと絶対にできないって分かってる。
でも、それでも、私はつい比べてしまう。疑ってしまう。
「彼女はこんなに輝いているのに」って思う一方で、「私は彼女の隣にいる資格なんてない」って思ってしまう。私はただの普通すぎる存在で、学校でもほとんど目立たない。彼女はあんなにも眩しいのに、私は……
その瞬間、喉が何かで詰まったように苦しくなって、声が出なくなった。
結局、私は彼女を待たずに、そっと背を向けて歩き出した。
だけど、数歩も進まないうちに、背後から聞き覚えのある急ぎ足の音が聞こえた。
「遥──待って!」
私は足を止めた。でも、振り返ることはできなかった。
「どうして突然帰っちゃうの? 今日、一緒に帰ろうって約束したのに……」
彼女は追いつき、少し息を切らしながらそう言った。
私はうつむいたまま、しばらく黙っていたけれど、やっとの思いで口を開いた。
「……さっきの友達、すごい人たちだったね」
「えっ……ああ、先輩たちのこと? 以前、校内イベントで一緒に活動したんだ。今日は部活のことで相談があって……」
「うん、分かってる……大丈夫だよ」
私は視線を落とし、そっと指先で制服の裾を握りしめた。
空気がふいに重くなった。夕暮れの光が私たちの間に落ち、涼しい風がそっと吹き抜ける。彼女が深く息を吸う音が聞こえた。
「一緒に帰ろうって、約束したのに……遥は何も言わずにいなくなった」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「……じゃあ、私のこと……重いって思ってた?」
私ははっとして、思わず顔を上げた。
「ち、違うの……私、ただ……」
言葉が喉で詰まって、それ以上が出てこなかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、自分でも何を思っているのか分からない。ただ、間違ったことを言って彼女を傷つけてしまうのが怖くて、本音が言えなかった。
「遥って、いつもそうだよね」
彼女は小さな声で言った。怒っているわけじゃない。でも、その声には、ずっと我慢してきた何かがにじんでいた。
「何かあっても何も言わないで、『大丈夫』の一言で私を遠ざける。別に無理に話してほしいわけじゃない。ただ……ただ、遥が何を思ってるのか、知りたいだけなのに。どうして、それすらも教えてくれないの?」
その言葉が、胸の奥に何かを深く刺した。息が詰まりそうなくらい、苦しかった。
私はずっと思っていた。恋人って、ちゃんとしてなきゃいけないって。大人っぽくて、思いやりがあって、我慢強くて、わがまま言っちゃいけない、不安なんて見せちゃいけない──そうやって、頑張っていれば、きっと、ずっと一緒にいられるって。
だけど、私は気づいてなかった。そんなふうにしていたからこそ、少しずつ、彼女を遠ざけていたのかもしれないってことに。
私は顔を上げた。声は震えていたけれど、今までになく素直に言葉がこぼれた。
「ただ……ああいう人たちと話してるのを見ると……私が近づいていったら、場違いに見えちゃうんじゃないかって……」
「……言いたくなかったんじゃなくて、言うのが怖かったの……」
「言ったら、星奈が嫌な気持ちになるんじゃないかって……私の感情が重すぎて、うんざりさせちゃうんじゃないかって……だから、何もないふりして、全部飲み込んでた……」
「でも、無関心だったわけじゃない。信じてないわけでもない。ただ……本当に怖かったの。間違ったことを言って、足りない私のせいで……星奈が、もう私のことを好きじゃなくなっちゃうんじゃないかって……」
最後の言葉は、夕焼けにかき消されそうなほど小さな声だった。
彼女はすぐには何も言わなかった。ただ静かに、数秒間私を見つめていた。そしてそっと手を伸ばし、私の冷たい指先を包むように握った。
「遥」
そのとき、彼女の声が私を呼んだ。まるで一筋の光が、そっと差し込んでくるように。
「完璧に話してほしいわけじゃない。最初からうまく言えなくたっていい。弱いところがあったってかまわない。ただ……本当の気持ちを知りたいだけ」
「たとえどもっても、ぐちゃぐちゃでも、私はちゃんと聞くよ」
「だって私が好きなのは、今のそのままの、君だから。他の誰かの影じゃなくて、君が無理して演じてる姿でもなくて」
「君は変わらなくていい。完璧にならなくていい。私を繋ぎとめようとして、自分をすり減らす必要なんて、どこにもないんだよ」
私は呆然と彼女を見つめ、目頭がじんわりと熱くなるのを感じた。
彼女は一歩近づいて、私をそっと抱きしめた。
「……話してくれて、ありがとう」
その声には、言葉にできないほどのやさしさがあった。
「私はここにいる。ずっと一緒にいるよ。だから……泣きたくなったり、話したくなったりしたときは、もう一人で抱え込まないで。ね?」
私は小さくうなずいて、彼女の肩に顔を埋めた。ずっと抱えていた自分への疑いを、ようやく少しだけ手放せた気がした。
私たちはただ静かに、互いを抱きしめ合っていた。夕暮れの風がそっと私たちの間を通り抜けていった。少しだけ、張り詰めていたものが溶けていき、やさしい静けさだけが残った。
しばらくして、彼女が静かに口を開いた。その声は、まるで大切な気持ちを驚かせないようにするかのように、そっと優しく響いた。
「遥、私が初めて人を好きになったの、いつだと思う?」
私は顔を上げて、その真剣な光を宿した瞳を見つめた。
「それはね……誰かの前で、『完璧じゃなくてもいい』って思えたときだったの」
彼女の声は、午後の教室に差し込む陽だまりのように穏やかで、でもまぶしすぎない。その言葉一つひとつが、光の粒になって、私の心に静かに染み込んでいく。
「私は小さい頃からずっと『すごいね』『しっかりしてる』『完璧だね』って言われてきたけど……本当は、一度だって、強くなくていいとか、誰かをがっかりさせてもいいとか、そう思えたことなんてなかったんだ」
「でも、遥は違う。強がったりしない。自信をなくしたり、ためらったり、自分を疑ったりする……それでも遥は、勇気を出して、私に近づいてきてくれた」
「その瞬間、私には遥が……誰よりも勇敢に見えたんだ」
私は彼女を見つめたまま動けなくなっていた。心臓が速く脈打って、何かを言おうとしても、彼女の優しさに塞がれて言葉が出てこなかった。
彼女はそっと私の手を取り、その指先から、いつものあたたかな体温が伝わってくる。それは、心の奥にある震えや不安をなだめるような、やさしいぬくもりだった。
「私はずっと、『完璧じゃなきゃ、人を好きになっちゃいけない』って思ってた」
その声は風にさらわれそうなくらい小さくて、それでも真実だけが残るような透明さを持っていた。
「でもね、遥が教えてくれた。私だって、ありのままの自分で……好きになってもらえるって」
私は唇をかんで、全身の勇気をかき集めて、ずっと胸の奥にしまっていた問いをようやく言葉にした。
「……それで、星奈は、私のどこが……好きなの?」
彼女は少し驚いたように固まったあと、ふわりと口元をゆるめた。その瞳は夕陽に染まった湖のように、やさしくきらめいていた。
「いっぱいいるよ」
彼女はそっと顔を近づけ、小さな声で、でもひとつひとつの言葉を丁寧に、心に落とすように話し始めた。
「笑ったときに目尻がふわっと下がるところ。緊張するとスカートの裾を無意識に引っ張るクセ。普段は静かだけど、誰かが困ってるときには、そっと寄り添うところ……」
彼女の声は風に溶けそうなほどやわらかくて、今にも消えてしまいそうだった。
「それから……遥の目に宿る光。怖がりながらも、ちゃんと私を見つめようとする、あの勇気」
喉がきゅっと締めつけられたようになって、何も言えなくなった。心の奥が、やさしいぬくもりにそっと包み込まれていくのがわかった。
彼女の言葉はあまりにも穏やかで、でもその中には、微塵の迷いもない、確かな想いが込められていた。
「遥は、自分のことを『普通で目立たない』って思ってるかもしれないけど……私にとっては、この世界で初めて、心の鎧を脱げた相手なんだよ」
私は彼女を見つめたまま、思わず目頭が熱くなった。
そうか、彼女の中で私は、いてもいなくてもいい存在なんかじゃなかったんだ。むしろ、仮面を外して、素直に近づける、安心できる場所だったんだ。
「……ありがとう。まさか……私が、そんなふうに見えてたなんて」
うつむきながら、震える声でつぶやく。
「だって、星奈はいつも落ち着いてて、人気者で……人混みの中でもキラキラ輝いて見えるから、私なんかじゃ釣り合わないって……つい思っちゃうんだ。遠すぎるって。手が届かないって」
「ばか。なんでそんなふうに、自分を下に見るの?」
彼女はそう言って、優しい目で私を見つめながら、そっと頬をつまんだ。その笑顔は、柔らかくて、壊れてしまいそうなほど優しかった。
「じゃあさ、一緒に帰ろっか?」
目に涙を浮かべたまま、私は少し甘えるように彼女を見上げて、小さく尋ねた。
「もちろん!」
彼女は何の迷いもなく笑って、まるでそれが当然のように手を差し伸べてくれた。その手を握ると、彼女はそっと私の手のひらをきゅっと一度だけ強く握り返してくれる。
「放課後に彼女と一緒に帰らないなんて、ありえないでしょ? 家まで送るよ」
私は涙で目を赤くしながら、でも思わず笑ってしまった。その笑顔には、涙のきらめきと、少しずつふくらんでいく幸せが、確かに混ざっていた。
彼女の手は、ぎゅっと私の手を握りしめていた。この世界でいちばんやわらかくて、いちばん抱きしめてほしかった場所を、まるごと包んでくれるように。
夕暮れの風がそよそよと吹き抜け、空気にはまだ日差しの余韻が残っている。世界は何も変わっていないはずなのに、私はもう、自分の影が怖くない。
だって今、私の手を握ってくれる人がいる。彼女が、私の隣に立ってくれているのだから。




