第6話 その努力は、すべて君の笑顔のために
ブラインドの隙間から差し込む陽の光が、保健室の真っ白なシーツの上にやわらかく広がっていた。
私はゆっくりと目を開けた。まぶたは鉛でも貼りついているかのように重くて、頭はぼんやりしていて、喉は風に焼かれたみたいにひどく乾いていた。
「……目、覚めた?」
それは星奈の声だった。
振り向くと、彼女がベッドの横に座っていた。すでに開けられたスポーツドリンクの缶を手に持っていて、いつものように落ち着いた目で私を見つめていた。けれど、その眉間のわずかな皺が、彼女の奥にある感情を隠しきれていなかった。それは長いあいだ押し込められていた何かが、今にもあふれそうな気配。
「……私……どうしたの……?」
かすれた声でそう聞いた。自分でも驚くほど、崩れそうな声だった。
彼女はすぐには答えなかった。ただ、そっと飲み物を私の手元に差し出して、静かすぎるほどの低い声で言った。
「教室でいきなり倒れたんだよ。熱は39.2度もあって、息もすごく荒くて……」
彼女は一度言葉を切り、まっすぐ私の目を見つめた。まるで、その奥にずっと隠されてきた何かを見つけようとしているかのように。
「どうして、ここまで来るまで何も言ってくれなかったの?」
私は視線を落とし、手をそっと動かして、シーツの端をぎゅっと握りしめた。喉の奥に、酸っぱくて重たいものがつかえていた。
「こんなに……ひどくなるなんて、思わなかったから……」
「思わなかったんじゃなくて……言うのが怖かっただけじゃないの?」
彼女の声が急に早くなった。感情の層が一枚一枚はがれていくように、その声には抑えきれないものが滲んでいた。
「最近の遙、明らかにおかしかった。食べる量も減って、寝てる様子もなかった。なのにずっと、あんな……必要以上に完璧なお弁当や資料、お菓子まで……」
その声は震えていた。それはただの心配じゃなかった。——どこか遠くへ押しやられてしまったような痛み。近づこうとしても、気づかないうちに私が築いてしまった壁に、彼女がぶつかっていたのかもしれない。
「それって……『必要以上』のことだったの……?」
私は反射的に問い返していた。声は小さくて、でも苦くて重かった。
「私はただ……ただ、星奈に笑ってほしかっただけなの……」
視線を落とし、まつ毛がかすかに震えた。その声は、まるで何かを壊さないように、そっとささやくようだった。
「ねえ……もしかして、私に隠れて……いろんなこと、してたの?」
彼女の声は低くて静かだった。でもその中には、隠されていたことへの苦しさがにじんでいた。それは、私に問いかけるようでありながら、自分自身にも向けられた問いのようでもあった。
「また、無理してたの? 全部……私のために、だけで……」
私は、小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間、彼女の顔に浮かんだのは、複雑な感情が渦巻くような表情だった。胸の奥で何かが弾けたようで、それをどう受け止めたらいいのか分からない——そんな、戸惑いと痛みが混ざったような顔。
私はようやく顔を上げて、彼女の瞳を見つめた。ひとつひとつの言葉を丁寧に、けれど重たく、ゆっくりと口にした。
「私……もっと、ちゃんとした自分に見せたかっただけ……星奈に、『釣り合わない』って、思われたくなかった……」
その言葉を口にした瞬間、喉の奥がきゅっと締めつけられて、呼吸がふたつ、三つと、震えながら途切れた。
彼女の目を見る勇気はなかった。ただ、布団を抱きしめるように、強く握りしめた。力を込めすぎて、指先が白くなっていた。手の甲が、かすかに震えていた。
「星奈は、そんなこと一度も言ったことないのに……でも私が勝手に……考えちゃうんだ……比べたりしちゃうの」
私の声は、今にも壊れそうだった。
「星奈には、私にないものがいっぱいある……すごくて、きれいで……全部、私より上で……」
「だから、怖いの」
「いつか星奈が気づいちゃうんじゃないかって……私なんて、思ってたほどの人じゃなかったって……好きになるほどの価値なんて、なかったって……」
言い終えたあと、部屋の中は静寂に包まれた。
ブラインドの隙間から差し込む陽射しが、そっとベッドの端に斜めに落ちていた。それは何も語らない優しさのように、ざわつく私の心にそっと寄り添っていた。
私はそっと目を閉じた。彼女が怒るかもしれない。ため息をつくかもしれない。あるいは、何も言わずに黙り込んでしまうかもしれない。それでもいいと思った。
たとえどう返されても、少なくともこの瞬間の私は、もう逃げていなかった。心の奥に押し込めていた想いを、やっと、言葉にすることができたのだから。
窓の外では風がカーテンを静かに揺らしていた。光が床に、揺れる四角い模様を描いていく。耳元では、時計の針が「カチ、カチ」と時を刻み続けていて、それすらも、今はやけにゆっくりと聞こえた。
星奈はすぐに言葉を返さなかった。ただ静かに立ち上がり、まるで私を驚かせないようにそっと、保健室の端にある洗面台へ歩いていった。
コップに水を注ぐ音が、この張り詰めた空気の中でやけに鮮明に響いた。
彼女はベッドに戻り、その水を私の手元に差し出した。
「……まず、お水。ゆっくりでいいから」
私はそっと手を伸ばし、彼女の指に触れた。冷たくて、それでいて涙が出そうなほどあたたかかった。水をひと口飲むと、喉の奥が熱くて、火がついたような痛みが走った。——それだけ、私はずっと何も言わずに、苦しんでいたのかもしれない。
「……ほんと、バカだよね」
彼女がぽつりと口を開いた。その声は驚くほど穏やかで、責めるような色はどこにもなかった。それなのに——どんな叱責よりも、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
その声はまるで、やわらかい紙のようだった。そっと私の傷の上に重なって、ちくりと刺さることはないのに、今にも涙がこぼれそうになる。
顔を上げると、彼女がこちらを見ていた。その瞳には怒りなんて欠片もなくて、ただ、濃くて深い、曇り空のような哀しみが広がっていた。まるで、太陽をゆっくりと覆う雲のように、静かに、でも確かに私を包み込んでくる。
「遙が頑張ってくれたこと、嬉しくなかったわけじゃない……でも、そんなふうに自分を壊してまで無理してたって思うと……私は……もっと、自分を許せなくなるんだよ」
彼女はそう言って、眉をぎゅっと寄せたかと思えば、すぐにほどいた。その表情は、押し込めた感情が震えにならないように、必死で抑えているようだった。
そして次の瞬間、彼女はゆっくりと腰を下ろし、私と目の高さを合わせた。その動きはとても静かで、でも揺るぎないものだった。片手をベッドの縁に添えて、まっすぐに私の瞳をのぞき込む。
その眼差しは言っていた「私はここにいるよ。もう一人で背負わないで」って。
「私はただ……遙と一緒にいたいだけ。誰かになってほしいんじゃない。私に合わせてほしいなんて、一度も思ってない……」
「遙がしてくれたこと、ちゃんと気づいてたよ……」
その声はそっと耳に届いた。もし少しでも強く言われたら、私はきっと泣いてしまっていた。
「でも、教えてほしい。……私のせいで、遙は苦しかった?」
口を開きかけて、私は言葉を飲み込んだ。
答えは、ある。だけど……その言葉は喉の奥で重く固まって、どうしても出てこなかった。認めたくない感情と、彼女を傷つけたくない気持ちの間で、私は息を詰まらせた。
ただ俯いて、シーツの端をそっと握りしめた。指先にぎゅっと力を込めて、胸の奥に波立つ想いを、少しでも冷まそうとするみたいに。
私たちの会話は、そこでふっと途切れた。
私はそれ以上、何も説明しなかった。星奈も、無理に言葉を引き出そうとはしなかった。ただ静かに、私の隣に腰を下ろしただけ。離れもせず、詰め寄ることもなく。
その沈黙は、逃げるためのものじゃなかった。待つためのものだった。
彼女はとうの昔に気づいていたのかもしれない。私が笑顔の裏に隠してきた、脆さや弱さのすべてに。
でも、何も言わなかった。それは、待ってくれていたから。
私が、自分自身と向き合えるようになるまで。「足りない自分」を許せるようになるまで。
彼女は、ここにいてくれる。私が、自分の痛みや願いを言葉にできるそのときを、待ってくれている。
……だけど今の私は、まだその準備ができていなかった。




