第4話 もっと完璧なら、彼女は私を好きになったことを後悔しない
あの日、スイーツショップでの出来事は、表面上はそれで終わったように見えた。
彼女はそっと私の手を握り、穏やかでありながら揺るぎない声で言った。
「私が欲しいのは、本当の遥であって、いつも私に合わせてくれる遥じゃないの」
その瞬間、ガラスのように脆い私の心が、音を立ててひび割れた気がした。今にも泣き出しそうだった。でも、泣かなかった。ただ唇をかみしめて、無理に笑ってうなずいた。
「うん……頑張るよ」
「自分らしくあれ」と言われたけれど、私の胸の奥に響いたのは、まったく別の声だった。
——だからこそ、もう彼女を失望させちゃいけない。
それが彼女の好きになった私なのだとしたら、私は本当に「好きになってもらうに値する自分」にならなきゃいけない。もう、あの日のように見透かされてはいけない。もう、迷ったり、後ずさりしたりする姿を見せてはいけない。私の「足りなさ」で、彼女を悲しませたり、戸惑わせたりするなんて、絶対に。
そう思って、私は必死に「完璧」になろうとし始めた。
夜になると、寝る前に「彼氏彼女弁当レシピ特集」のページをめくって、ひとつひとつの工程をノートに書き写した。彼女が「これ好き」と言っていた味は、全部漏らさずメモした。玉子焼き、オムライス、フォンダンショコラ……ちょっと口にしただけの「これ、美味しそうだよね」ってお菓子でさえ、大事に記録しておいた。
毎朝、彼女のためにいつもより一時間早く起きて、お弁当を作った。玉子焼きがうまく巻けなかったときは、何度もやり直して、きれいな形になるまで繰り返した。
「割れた玉子焼きなんて、見せられない」
その思いは、十五分多く寝ることよりも大切だった。まるで音の鳴らないアラームのように、私を「もっと良い私」へと急かしていた。
服のコーディネートも勉強した。以前は「普通すぎる」としまい込んでいた服を、ひとつひとつ鏡の前で試着した。鏡に映る自分は、まるで「認められるのを待つキャラ」に成りきっているようだった。
「これ、子どもっぽくないかな? 暗すぎない? 彼女、こういうの嫌いじゃないかな?」
「こんな私、彼女に釣り合ってる?」
「彼女、私を見たとき……綺麗って思ってくれるかな?」
ナチュラルメイクも練習した。指先でファンデーションをとって、青春の跡をそっと撫でるように塗り重ねていった。唇の荒れさえ見逃さず、黒羽に「普段何使ってる?」と聞きに行ったこともある。彼女と手をつないで歩くとき、胸を張って笑える私でいたかったから。
ある週末の朝、私は早々に目を覚ました。窓の外はまだ太陽が昇りきっておらず、夜の冷たさが少しだけ残っていた。ふと、昨日渡したお弁当箱を洗い忘れたことを思い出し、そっとキッチンへ向かった。黄ばんだ照明の下で、見慣れた弁当箱を丁寧に洗っていたときのことだった。
手が滑って、スプーンがシンクに「カラン」と落ち、水しぶきがぱっと跳ねた。顔をしかめながら水滴を拭くと、壁際の鏡に、ほんのり腫れた自分のまぶたが映っていた。それは、夜更かししたあとの独特な顔——焦点の合わないまなざし。でも、今日こそは外せない予定がある。
もちろん、彼女に内緒であの限定チョコレートを手に入れようとしていた。特別なパッケージに繊細なデザイン――毎年発売されるたびに即完売する、あのチョコレートだ。本当にチョコレート好きな人しか知らないような、今日の早朝にひっそりと店頭販売が始まることも、私は調べて知っていた。彼女は去年、それを手に入れられなかったことで、ちょっとだけ落ち込んでいた。
昨日、彼女は「明日、デートする?」と訊いてきたけど、私は「ちょっと用事があって」と断った。彼女は少し驚いた顔をしてから、視線を落として「そっか、大丈夫だよ」と言った。その声は、まるで私を気遣っているみたいに静かで……でも、どこか少しだけ寂しさが滲んでいた。
本当は、彼女を驚かせたかっただけなのに。
正直、すごく疲れていた。計画を立て始めてから、何日もろくに眠れていなかった。販売開始の時間、店へのルート、購入制限、支払い方法、チョコの保存方法やラッピングまで、何度も確認した。どの細部も間違えたくなかった。なぜなら私は、彼女に「ちゃんと好きなものを覚えていて、心を込めて選んだ」って伝わるようにしたかったから。
そのチョコを手にして、彼女があの無邪気な笑顔を見せてくれる、その一瞬を思い浮かべるだけで、どんなにしんどくても「諦めよう」なんて思えなかった。
その笑顔は、まるで空にきらめく星のように――明るくて、儚くて、けれど確かに人の心を迷わせるほどの力を持っていた。長くは続かないけど、心の中に永久の余韻を残していく。私は信じていた。その瞬間に出会えたなら、すべての疲れも、苦労も、報われると。
朝ごはんも食べずに、冷たい牛乳を数口だけ飲んで、慌てて家を出た。販売時間に遅れたくなくて、髪もろくに整えず、パーカーを引っ掛けただけの格好だった。すでに列はいくつもの角を曲がるほど伸びていて、私はその中に立っていた。
額にはじんわりと汗が滲み、足元はまるで雲の上を歩くようにふわふわして、頭も少しぼんやりしていた。
それでも、私は歯を食いしばって立ち続けた。嵐の中の小舟のように、「信じること」だけを手綱にして、必死に踏ん張った。
「倒れちゃダメ」
私は心の中で、そう静かに自分に言い聞かせた。
「私さえ頑張れたら、彼女が喜んでくれるなら、彼女は……私を好きになったことを、きっと後悔しないでいてくれる」
その瞬間、私はもう「自分らしくあろう」としていた私ではなかった。素直で、愛されたいと願っていたあの私ではない。炎天下に立っていたのは、「絶対に彼女に好かれる存在」になろうと必死にもがく私だった。
――もはや、私自身でも見分けがつかないくらいに。
帰り道、私はその戦利品の箱を両手でしっかり抱えていた。まるで、何か大切な信頼の証を手にしているみたいに。チョコの箱は深いボルドーカラーに金のリボンが巻かれていて、まるでそのすべてが愛情で包まれているようだった。
でも私の足取りは、熱を帯びてひび割れたガラスの上を歩くように頼りなく、ひとつひとつがじわじわと痛かった。背中は汗でぐっしょり濡れていたけれど、それでも私は無意識に笑っていた。
その笑顔には、ほんの少しの苦さと甘さが混じっていて、まるで、そのチョコの味みたいだった。
私は今、「彼女に好かれるにふさわしい私」になろうとしている。ただひたすら、心を込めて、気遣って、大人らしくあろうと。そうすれば、彼女は自分の選択を疑わないんじゃないか。そうすれば、「もっといい人がいるんじゃないか」なんて思わせずに済むんじゃないか。
彼女はそんなこと、一度だって言ったことはない。そんな素振りすら見せたことはないのに。なのに、私は怖くてたまらなかった。
だから、誰よりも努力しなきゃって思った。たとえ、それがたった一箱のチョコのためだったとしても。
でも私は、気づいていなかった。
私の足取りは、昔よりもずっと遅くなっていたことに。まるで、巻きすぎてバランスを崩したゼンマイ人形みたいに。まだ動いてはいるけど、どこかふらついていて。私の中に張られた「無理して頑張る」弦は、もう限界まで引き絞られていて――誰にも見えないほどの細かい震えを走らせていた。
あとほんの少し、何かが重なったら、その弦は……ぷつん、と、切れてしまうかもしれなかった。




