第3話 彼女が近づきたいのは、どの私
週末、私たちは駅近くに新しくできたショッピングモールに出かけた。
星奈は最近SNSで話題のスイーツ店が気になるらしく、その声には隠しきれないワクワクが混じっていた。歩くスピードも、いつもよりほんの少し早い。彼女は振り返って私に笑いかけながら、まるで「一緒に小さな冒険へ行こうよ」と誘ってくるみたいだった。
「うん、いいよ。行きたいところに行こう」
私はこくんと頷いて、風のように軽い声で返した。それは無意識の反応だった——慎重な優しさの形であり、癖のように染みついた譲歩の姿勢だった。
ガラスケースの前に並んで立ち、カラフルなケーキたちを眺める。宝石みたいに輝いていて、まるで夢の中のショーウィンドウだった。
星奈の視線はすぐに、三層のチョコレートとろけるケーキに引き寄せられていた。瞳の奥で光がきらきらと弾けて、まるでプレゼントを開けるのが待ちきれない子どものようだった。
「これ、めっちゃ美味しそう! 遙はどれが食べたい?」
そう言って、星奈は笑顔で私の方を振り返った。
私はショーケースを一瞥して、思わず口にした。
「なんでもいいよ、星奈が決めて」
彼女はほんの少し眉をひそめて、不満げな表情を浮かべた。
「でも、私は遥がどれ食べたいのか知りたいの」
私はぎこちなく笑って、そっと答えた。
「ほんとに……どれでもいいよ。星奈が選んでくれたの、食べられるだけで嬉しいから」
本当は、抹茶パフェが気になってた。数週間前、この店の前を通ったときからずっと。濃い緑の層が美しくて、盛りつけも繊細で。ほろ苦さと甘さが交わる味を、私は何度も頭の中で想像していた。でも、その想いは喉の奥で飲み込んだ。
子どもっぽく見られたくなかった。わがままだとか、めんどうだとか、幼いって思われたくなかった……「手がかからない恋人」でいたかった。
彼女に近づきたい。でも、いざその瞬間になると、私はいつも一歩引いてしまう。さっきのエスカレーターのときもそう。
本当は、手をつなぎたかった。けれど、彼女がスマホでメッセージを打っているのが見えた。真剣な表情で、何か大事なことをしているようだったから、私は、そっと伸ばしかけた指を引っ込めた。そのとき、私の手は彼女の袖口にほんのわずか触れただけで、触れたとは言えないほど儚くすれ違った。
——邪魔しちゃダメ。これでいい。欲張っちゃダメ。
駅に戻った私たちは、ホーム脇のベンチに腰を下ろした。夕方の風が地下鉄の通風口からそっと吹き抜けてきて、空気の中には少しひんやりとした静けさが漂っていた。
星奈がふいに口を開いた。声は少し低く、まるでずっと胸の中で熟していた言葉をようやく吐き出すかのようだった。
「遙、最近……あんまり自分から『どこ行きたい』とか、『何したい』って言わなくなったよね」
私は一瞬固まって、指先がこわばる。反射的に答えた。
「そんなことないよ。ただ……星奈の気持ちを大事にしたいだけで……」
彼女はすぐに返事をしなかった。ただ静かに私の方を向いて、その瞳はいつもの柔らかい冗談交じりではなく、どこか真剣で——少しだけ、切なさを含んでいた。
「でも、私は……遙がただ私に合わせるだけなんて、望んでないんだ」
その声はとても静かだったのに、心の奥深くまで鋭く刺さった。こんなに痛い言葉だなんて、知らなかった。
「私は、本当の遙が知りたいの。ずっと我慢して、合わせてばかりの遙じゃなくて」
私は視線を落とした。胸の奥がじんと痛んで、息が詰まりそうだった。やっぱり……気づかれてたんだ。
「ごめん……ただ、私……わがままになったら、星奈に嫌われる気がして。迷惑かけるのが、怖くて……」
彼女は私を見つめながら、優しく、でも確かな意志を込めた表情で、そっと私の手を取った。その指先の温もりが、じんわりと私の凍りついていた心に染み込んでいく。
「それって、遙が自分で決めつけた答えでしょ? 私が言ったわけじゃないよ」
その瞳は、私の中の何かを静かに守ってくれているようで。同時に、私をこの心の檻からやわらかく引き出そうとしてくれているようだった。
私はぽかんと彼女を見つめた。目の奥がじわっと熱くなる。彼女は責めもしない、否定もしない。ただ、そこにいてくれる。まるで、「もうそんなに頑張って隠さなくていいんだよ」って、そう言ってくれているみたいだった。
「私はね、完璧な彼女が欲しいんじゃない。『遙』が欲しいの」
彼女はやわらかく言った。
「嬉しい遙も、怒る遙も、失敗する遙も……そして、『抹茶パフェ食べたい』って言ってくれる遙も——全部」
私はやっと笑えた。その笑みは、目尻を濡らしながらも、心の底に長いあいだ沈んでいた石が、ようやく落ちたような安堵を含んでいた。
「じゃあ……頑張ってみるね。今度は……ちゃんと、自分の気持ちを言えるように」
彼女は笑った。
「うん、遙が話してくれるなら、私はちゃんと聞くよ」
再び、ホームに風が吹き抜ける。彼女の髪を揺らして、私の心の霧まで、少しずつ吹き払ってくれた。
私は下を向いて、彼女が握ってくれている自分の手を見つめる。その瞬間——ずっと後ろに下がろうとしていた自分が、少しずつ、彼女の手に引き戻されていくのを感じた。
……だけど、それでも。心の奥では、まだ消えきらない声があった。
——どうしたら、彼女をがっかりさせずにいられるんだろう?




