第3話 彼女に満たされる思考
「……神崎さん、神崎さん!」
耳元で先生の苛立った声が響いて、私ははっと我に返った。気がつけば、今は数学の授業中——本来なら一番好きで、一番得意な教科のはずなのに、今日はまるで別人のように気が散っていた。
「は、はい……!」
慌てて立ち上がり、黒板に書かれた問題を一瞥したけれど、頭の中は真っ白だった。
先生はため息をついて、首を振りながら言った。
「授業中は集中しなさいよ」
「……すみません」
気まずそうに小声で謝って、そっと席に腰を下ろした。
隣の席からくすくすと笑い声が聞こえたけれど、気にする余裕なんてなかった。だって、私の頭の中は、もう別の誰かでいっぱいだったから——佐藤遙。
昼休み、ただ喧騒から少し離れて、のんびりご飯を食べたいだけだったのに。たまたま佐藤さんが屋上へ向かう姿を見かけて、気づいたら体が勝手に動いていた。
屋上の入り口に立つと、彼女がひとり、隅っこでお弁当を広げて座っているのが見えた。その背中は少しだけ寂しげに見えた。
思わず「ここで食べてるの?」と声をかけたとき、彼女はびくりと肩を震わせて、驚いたようにこちらを見た。唇が微かに震え、どう返事をすればいいのか迷っているようだった。
最終的に、彼女は小さく、そしてどこか戸惑いがちな声で「え、うん……たぶん」と答えた。
その反応が、たまらなく可愛く思えて、私は思わず笑いそうになった。
普段、私に話しかけてくる人たちは、どこか媚びた態度だったり、必要以上のテンションで迫ってきたりして、正直疲れることが多い。でも、彼女は違った。あの素直で、戸惑いながらも精一杯言葉を探しているような姿が、思いがけず私の心を優しく揺らしたのだった。
席に戻ったあとも、私の心は再び屋上へと舞い戻っていた。あの角、雲の切れ間から差し込む陽光の中で、風に揺れる彼女の髪……その何気ない光景が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。何でもないはずの一瞬なのに、どうしてだろう、胸がぎゅっと締めつけられるように高鳴っていた。
いったい、これは何なの?
図書館で初めて自分から彼女に話しかけて以来、気づけば何度も彼女のことを思い出していた。理由なんてわからない。ただ、どうしても彼女に話しかけたくて、気がつけば近くにいたくて仕方がない。きっと、彼女が持っている何かに、私は惹かれてしまっているのだろう。
彼女の前だと、私は不思議と仮面を外せる気がした。誰かの期待に応えようとしなくてもいい、自分を完璧に見せようと気を張らなくてもいい。そんな感覚、これまでの私にはなかったものだった。
図書館で見かけたときの彼女は、静かに本を読んでいて、その眼差しはどこか遠くを見ているようだった。まるで世界と切り離された存在のように、静かで、でも確かにそこにいる。あの瞬間、ふと思ったのだ、もし相手が彼女なら、私はこの疲れる仮面を一時でも脱ぎ捨てて、本当の自分でいられるのかもしれない、と。
もっと彼女のことを知りたい。たとえそれが、今の関係をどう変えるのか分からなくても。少なくとも、彼女と一緒にいるときだけは、私は「完璧な神崎星奈」じゃなくて、「ただの神崎星奈」でいられる。
「もっと……自分から話しかけてみようかな」
小さくつぶやいた言葉に、自分でも驚くくらい自然と笑みがこぼれていた。窓の外には柔らかな陽射しが差し込み、教科書の数字にそっと影を落としている。数学の授業はまだ続いていたけれど、私の心はもう遠く、あの屋上の風景へと飛んでいた。
……この微妙な感情が、「好き」ってことなんだろうか?
そんなことを考えながら、やがてチャイムが鳴り響く。けれど、私の胸のざわめきは止まることなく続いていた。だって私は、もう気づいてしまったのだから——彼女の存在が、私の世界のすべてになりつつあることを。