第1話 付き合ってからの劣等感
私たちが付き合って、もうすぐ一ヶ月になる。登下校を一緒にして、一緒にお昼を食べて。たまに放課後の夕陽の中で、彼女は私の手をそっと握りながら、小さく問いかけてくる。「今日は、私のこと……ちょっとは考えてくれた?」その声は、まるで風のように優しかった。
それは、私が今まで経験したことのない幸福だった。彼女と付き合って、初めて実感した――恋って、こんなにも甘くて、こんなにも心を安心させてくれるものなんだって。彼女はいつだって、私の好きなものも、苦手なものも覚えていてくれる。言葉に詰まっているときは、優しく待ってくれる。自信が持てないときは、肩にそっと手を添えて、「私は信じてるよ、きっと大丈夫だから」って、魔法みたいに囁いてくれる。
彼女は本当に……素敵すぎる恋人だ。だからこそ、時々一人になると、心の奥から小さな声がふいに湧き上がってくる。その声は、じわじわと膨らんで、私を不安で包み込む――私は本当に、彼女にふさわしいの?
ある日の昼休み、私はひとりで校舎の脇にある小道を歩いていた。昨日の練習でサッカー部に忘れてきたシンガードを取りに行くところだった。角を曲がったところで、ちょうど前方にいた何人かの上級生の先輩たちが話しているのが耳に入った。
「ねえねえ、最近の神崎星奈って、なんかめっちゃ人気上がってない?」
「超わかる!あのオーラ、あの成績、あの顔立ち……まさに理想の彼女って感じじゃん!」
「ほんとにさ、ああいう子が恋愛するなら……相手も絶対、すっごく上品で、お似合いな感じの人なんだろうね~」
私は足を止めた。胸の奥が、細い針でちくりと刺されたように痛んだ。ふと自分の姿に目を落とす。まだ部活の体操服のままで、シャツには汗のにおいが少し残っている。髪も乱れていて、今朝は時間がなくて、ゴムで適当に束ねただけ。靴の端には泥がついていて、朝の雨で濡れたグラウンドの跡がそのまま残っていた。
もし彼女たちが、星奈の恋人が私だと知ったら……きっと驚くだろうな。もしかしたら、こう思うかもしれない、釣り合ってない、って。
夜、家に帰ってから、私は鏡の前に立った。鏡の中に映る自分は、どこか頼りなげな目をしていて、肌も少しくすんで見える。前髪は額に張りついていて、なんだか冴えない。ブラシを手に取り、髪をアップにしてみたり、いつもと違うアレンジを試してみたり。でも、どうやっても似合わない気がした。
クローゼットを開けて、普段出かけるときの私服をいくつか取り出して合わせてみる。ただのTシャツとジーンズなのに、思わず眉をひそめてしまう。
「……こんな格好じゃ、彼女に恥をかかせちゃうんじゃない?」
「あんなに輝いてる彼女の隣に立つ私は、ただ浮いてるだけなんじゃない?」
そんな自己否定の声が、水のように隙間から染み出して、私の心の一番脆い場所に染み込んでいく。
私は焦った。こんな私が、あの手を握って隣に立っていていいのかな?
寝る前、私はスマホを開き、星奈から今日届いたメッセージがないか確認した。何気なく彼女のSNSアカウントを開き、最近の投稿を見てみる。イベントに参加したときの写真だった。幕の前に立つ彼女は、制服をきっちり着こなし、観客席の方へ横顔を向けていた。その笑顔はまるで、スポットライトを浴びる自信に満ちた星のように輝いていた。
投稿のコメント欄には称賛の言葉が並んでいた。
「星奈先輩、美しすぎる!」
「オーラがすごい」
「学園のヒロインそのもの!」
私は写真を一枚ずつめくっていった。そして、ある集合写真に辿り着いた――その中に私も写っていた。でも、それは最後列の端っこ。カメラを見ていない上に、どこか表情もこわばっていた。
私は呆然とその写真を見つめていた。彼女はあんなに眩しくて、私は……ただの背景、たまたまフレームに収まっただけの存在みたいだった。
心のどこかで「コトン」と音がして、何かが沈んだ。悔しさ、不安、無力感がいっせいに押し寄せてきて、濃霧のように私の視界を覆った。彼女は何も悪くない。それでも私は……どうしても、泣きそうになってしまった。
スマホを脇に置き、布団に潜り込んで、枕を抱きしめた。まるで、そうすることで不安を胸から押し出して、布団の奥に閉じ込められるような気がした。
「考えすぎないようにしなきゃ……」
私は小さな声で、自分に言い聞かせた。
……でも、この言葉を何度自分に言ってきたんだろう?
そして今夜は、なぜかまったく効かなくて。どうしても心が落ち着かず、眠りにつけなかった。
***
翌日、学校で。私は星奈と並んで廊下を歩いていた。授業の話をしながら、彼女は機嫌がよさそうに笑っていた。いつもより少しだけ、笑顔が多かった。
「星奈ちゃん」
前から、柔らかくも存在感のある声がした。顔を上げると、上級生の先輩が立っていた。とても綺麗な人で、まるで漫画のヒロインのような立ち居振る舞い。話し方にも自然な品があって、自信に満ちていた。
それ以上に気になったのは――彼女と星奈が、すごく親しそうに見えたことだった。
「最近よく会うね」
先輩は微笑みながら言った。どこか親しげで、慣れた感じのある声色。
「今度みんなで遊びに行かない? 前に話してた映画、まだ観に行ってないし」
「えっ? あ、うん~! 時間があったら連絡するね」
彼女は笑って答えた。その声も態度も自然で、まるでこういうキラキラした世界が彼女の日常の一部みたいだった。
私は横に立っていただけなのに、笑うこともできず、話に割って入ることもできず、ただ黙って彼女たちの自然な会話を見つめるしかなかった。ああやって人と交わる彼女は、やっぱりああいう場所が似合う。綺麗で、魅力的で、立ち居振る舞いにも隙がなくて……まるで誰もが憧れて近づきたくなるような、一条の光のようだった。それに比べて私は、ただその隣にいるだけの影でしかなかった。
彼女がそっと微笑んでくれているだけなのに、私は自分がどんどん小さく、目立たない存在に思えてきた。まるで、カラフルなポスターの横に貼られた、誰にも読まれないメモ用紙みたいに。気づかれもしない、そんな存在。
私は無理に笑おうとした。力いっぱいの笑顔で。そうすれば、心の奥でふつふつと湧いてくる不安や寂しさを隠せる気がしたから。
「星奈、おやつ買ってこようか? お昼、あんまり食べてなかったでしょ? きっとお腹空いてると思って」
「え? あ……そんなわざわざ──」
「大丈夫、すぐ戻るから!」
言葉を遮るように急いで返事をして、まるで何かをごまかすみたいに。明るく聞こえるようにと声の調子まで作って──返事も待たず、私は早足で購買部へ向かった。手のひらは汗びっしょりだった。
もっと頑張れば、もっと積極的になれば──彼女にも、私もちゃんと「頼れる存在」「好きになれる存在」だって思ってもらえる、そう信じたかった。
私は、彼女がいつも好きだと言っていたチョコレートケーキを選んで、ホットココアも添えた。ミルクフォームもお願いして加えてもらった。戻ったとき、彼女は笑顔でそれを受け取ってくれた。その顔は、確かに優しかったはずなのに──私の心は、ますますざわついていた。
その笑顔が完璧であればあるほど、私は空っぽになっていく気がした。
ついに我慢できなくなって、私は昨日から胸に引っかかっていた言葉をぽつりとこぼした。
「……前より、好きになった?」
彼女は瞬きをして、少し困ったような顔をした。いきなりの質問に、戸惑っているみたいだった。
「えっと……今の私のこと、前より……ちょっとは好きになったのかなって……」
声は小さくて、ほとんど独り言のようだった。
彼女は少しの間を置いてから、穏やかな声でこう言った。
「……遥、今日ちょっと変だよ」
責めるような言い方じゃなかった。だけどその言葉は、鋭い針のように私の脆い心の奥を突いてきた。
私はあわてて首を振って、作り笑いを浮かべた。
「なんでもないよ。ただ、星奈のことばっかり考えてて……」
軽やかに聞こえるようにしたその言葉も、その笑顔も、紙みたいに薄っぺらで。自分でも分かってた。それは本当の笑顔じゃない。ただの演技だった。
「いい彼女」になろうとすればするほど、私はまるで誰かを演じているみたいだった。気を遣って、優しくて、理解があって、決して相手を困らせない理想の彼女。
でも、やめられなかった。だって、私は彼女を失うのが怖かったから。
「一緒に幸せになろう」って約束したのに。今の私は、「不安だよ」って一言さえ言えない。ただ笑ってるだけ。こんなにも、疲れて、苦しくて、私らしくない笑顔で。
──こんなにも素敵な彼女の隣に、私はどうすればずっと、揺らがずに立ち続けられるんだろう。




