第7話 屋上での夢うつつ
昼休みに屋上で一緒にお弁当を食べること。それは、私と星奈の間でいつの間にかできた小さな約束だった。
昼休みのチャイムが鳴るたび、私はこっそりと二つのお弁当をバッグから取り出して、上着の下に隠すように抱えて屋上へ向かう。別に、ふたりの関係を隠したいわけじゃない。ただ、こうしてふたりだけの秘密にしておくことが、何よりも大切に思えたから。
今日は空が晴れていて、陽射しが白いフェンスと古びた木製ベンチに降り注ぎ、斑模様の影を落としていた。風も穏やかで、午前中の疲れを優しく吹き飛ばしてくれるようだった。
今日は特別に早起きして、ふたり分のお弁当を作った。中には、彼女の好きな卵焼きと、私の得意なオムライスのミニロールを詰めた。見た目はまだまだだけど、一生懸命盛りつけた。彼女がそれを食べて、少しでも気持ちが伝わればいいなって。
「遥」
聞き慣れた声が横から聞こえてきて、ベンチにはすでに星奈が座っていた。制服のスカートが風に揺れていて、髪がほのかに光をまとっている。彼女が振り返って微笑んだその瞬間、私の心臓はやっぱり、こっそり一回分跳ねた。
「今日のお弁当も、卵料理だよ……」
私は少し照れながら、お弁当をそっと彼女の前に差し出した。
「わあっ、大好きな卵料理だ〜!」
星奈は蓋を開けるなり目を輝かせた。
私はうつむいて、小さな声でつぶやいた。
「うん……この前、好きだって言ってたから」
「遥って、ほんと優しいよね」
そう言って、彼女はためらうことなく卵焼きを口に運び、まるで子供みたいに笑った。
「めちゃくちゃ美味しい〜!」
「わあ……本当に気持ちこもってるね」
星奈はそう言いながら自然に私の肩にもたれてきて、そっと囁くように続けた。
「遥、そんなことされたら……どんどん離れられなくなっちゃうじゃん」
私は顔が一気に熱くなって、小さくオムライスのミニロールをかじることしかできなかった。返事をする勇気はなくて、ただ俯いたまま。それでも、彼女のそばにいると、もっと頑張りたいって思ってしまう。ただ、私の手作りを食べてほしくて、笑ってほしくて……それだけで、自分が誰かに必要とされているような気がした。
私たちは並んで座って、屋上のフェンスの向こうに広がる風景を眺めていた。雲間から射す光が、校舎の裏手にある小さな丘をやわらかく照らしている。
「遥」
彼女がふと口を開いた。
「うん?」
「私さ……最近、またちょっとだけ、何か書いてみようかなって思ってるんだ」
彼女のその声は、私に向けられたものでもあり、自分自身への呟きでもあるように聞こえた。
私はそっと彼女の横顔を見つめた。彼女の視線は下を向き、指先がベンチの縁をゆっくりなぞっていた。まるで何かを確かめるように……あるいは、何かを躊躇っているように。風が前髪をそっと揺らし、まつげに落ちた光が、あまりに柔らかくて、思わず手を伸ばして撫でたくなるほどだった。
「前のことは知ってる。でも……もし本当に書きたいなら、きっと大丈夫だよ」
私は小さな勇気を振り絞って、その言葉を口にした。声は風にさらわれそうなくらい小さかったけど、言葉の芯にはいつもとは違う強さがあった。
「それに……この本の主人公のひとりって、星奈がモデルなんじゃない?」
私はうつむく彼女の横顔を見つめながら、声がほんの少し震えた。
「星奈と出会ってから、その気持ちが前よりもっと分かるようになったんだ。主人公って、あんなにきらきらしてて、なんでもできるように見えるけど……その裏にある孤独が、すごく深くて……。読んでると、まるでその子の気持ちが伝わってくるみたいで……」
私は目を伏せて、ぎゅっと握った自分の手を見つめた。
「きっと星奈は、書くことで……口にできない気持ちを、少しずつ外に出してたんだと思う。もし、それで心の中に溜まったものが少しでも軽くなるなら……私は嬉しい。心から、ずっと書き続けてほしいって思ってる」
言葉に詰まりながらも、私は彼女の目を見られなかった。でも、その声には確かな思いが込められていた。たどたどしくても、その「大切に想ってる」という気持ちは、もう隠しきれないほどだった。
彼女が顔を上げて、私を見つめる。その瞳は、午後の湖面に陽が差し込んだように、あまりに優しくて──涙がこぼれそうになるくらいだった。
「遥がそばにいてくれるなら……なんだか、本当にもう一度やってみたくなるかも」
彼女は笑った。雪解けのあとに咲く、春一番の花みたいに。
私も笑った。嬉しさが溢れて、目元まで光で満たされていくようだった。
──もし彼女が、もう一度夢を追いかけてみたいと思ってくれるなら。私は、何も言わずにその背中を支え続けたい。結果がどうであれ、彼女が振り返ったとき、そこに私がいられるように。
お昼を食べ終えたあと、彼女は気持ちよさそうに伸びをして、まるで猫みたいにゆっくり私の方へもたれてきた。
「ちょっと……横になってもいい?」
彼女は私の膝を指さして、ほんの少し甘えるような声でそう言った。
「あ……うん」
私はうなずいて、頬が自然と赤く染まっていくのを感じた。
彼女はそっと頭を私の膝の上に乗せてきた。黒髪が私のスカートにさらりと落ちてきて、少しくすぐったかったけど、動けなかった。ただ静かに視線を落として、彼女の横顔を見つめる。
陽の光がまつげに降り注いでいて、一本一本がくっきりと見える。それは、まるでさっき雲の隙間を通り抜けた風のようで──私はそっと数えてみた。一本、二本、三本……。
彼女の呼吸がだんだん落ち着いてきて、口元には微かな笑みが浮かんでいた。眠ったのかな、と思ったそのとき、不意に彼女が小さく呟いた。
「……遥……いかないで……」
心臓が、ふっと揺れた。その声はかすかで、耳を澄まさなければ聞こえないほどだったのに、羽根のように私の胸のいちばん柔らかい場所に触れた。
私は息を止めたまま、彼女の顔を見つめていた。今、少しでも動いたら、この夢のような瞬間が壊れてしまいそうで。
彼女は、夢の中でも私のことを想ってくれているのかな?
風がそっと吹いて、冬の匂いを運んでくる。私は彼女の髪に手を伸ばし、やさしく撫でながら、小さく呟いた。
「……私は、ずっとここにいるよ」
たとえ彼女に聞こえなくても──私は、伝えたかった。
時間が止まったようだった。私は屋上のベンチに座って、胸に感じるのは彼女の穏やかな寝息。目の前には、だんだんと傾いていく太陽。彼女の無防備な寝顔を見つめながら、この瞬間に立ち会えることが、たまらなく愛おしかった。
言葉は交わしていないのに、すべてがこの沈黙の中で静かに伝わっていた。
私の目に映る彼女は、いつもどこか予測できない星みたいで──私はその光を追いかけるだけの、ただの平凡な人間。でも今、彼女は私のすぐそばにいて、私の膝に顔を預けて眠っている。この距離こそが、恋というものの証なんじゃないかって思えた。
風がそっと吹いて、フェンス越しに陽射しが斑に差し込む中、私はただじっと動かずに座っていた。彼女が、もう少しだけ気持ちよく眠れるように。
十分かそこらが経った頃、星奈が小さく身じろぎした。まつげがぴくりと震えて、夢から戻ってくるように目をこすりながら、ぼんやりと顔を上げて──そして、ちょうど私と目が合った。
「……え?」
彼女はぱちぱちと瞬きをして、まだ完全には目が覚めていないようだった。
「さっき……寝言、言ってたよ」
私はそっと告げた。その声は、まるで風に紛れさせるように静かだった。
「私、何か言った?」
彼女はぱっと目を見開いて、勢いよく起き上がった。頬がふわりと赤く染まっていく。
「ま、まさか……変なこと言ってないよね!?」
私は小さく笑って、首を横に振った。
「変なことじゃないよ。……ただ、私の名前を呼んで、『行かないで』って」
彼女は固まったまま、顔の赤みがじわじわと濃くなっていった。
「うぅ……うそ、そんな……そ、それ夢の中の話だからっ……」
彼女は視線を逸らして、唇をぎゅっと結んだ。耳たぶまで真っ赤に染まっていて、まるで熟れたさくらんぼみたいだった。
私はその慌てる姿を見つめながら、言葉にできないほどの甘い気持ちが胸に広がっていくのを感じた。
「私は、どこにも行かないよ」
私はそっと答えた。彼女の夢の中の声に、現実でちゃんと返すように。
星奈は一瞬目を見開いたあと、ふわりと笑った。ようやく私の方へと視線が戻ってくる。
「……なら、よかった」
彼女は小さな声でそう言った。その響きは甘えるようで、でもどこか安心したようでもあった。そして次の瞬間、彼女は私の横にある手を取って、そっと握りしめた。
「じゃあね、これからは勝手にいなくなっちゃダメだよ。夢の中でも、絶対に」
「うん……ちゃんと、ここにいるから」
私たちは肩を寄せ合って、午後の屋上でそのまま静かに座っていた。風は変わらずやさしく吹いていて、空気の中には、彼女の寝言の余韻がまだ少しだけ残っている気がした。
私は分かっていた。これから先、きっと風も雨もあるだろうし、分かり合えない瞬間もあるかもしれない。でも──彼女が私の隣で、こうして目を閉じてくれるなら、私はそのやさしさを守りたいと思う。今のように、静かに、穏やかに、そばにいることを選びたい。
恋というものの本当に美しいところは、きっと大げさな告白じゃなくて……こうして何気ない時間を、誠実に過ごしていけることなのだと思う。
あの午後、私は確かに思った──私は、本当に、彼女のことが好きだと。




