第2話 放課後、こっそりと手をつないで
始業式の日、午後の陽射しが斜めに教室へ差し込み、まだ片付けられていない教科書の上にそっと降り注いでいた。私は無意識のうちに前の席の星奈に目をやった。彼女は横顔をこちらに向けたまま、隣のクラスメイトと静かに会話している。けれど、その視線の端が、かすかに、私の方へと流れてきた気がした。
心臓が、不意に一拍跳ねた。
クリスマスの日に告白してから、実はそれほど時間は経っていない。けれど「友達から恋人へ」というその距離は、まるで私を温室に閉じ込めたみたいで――ぽかぽかと暖かくて、けれどどうしていいかわからなくなるほど、戸惑いを呼ぶ。
チャイムの音が鳴り、クラスの生徒たちは次々と教室を出ていった。廊下の賑わいが徐々に増していく中、私はのろのろと鞄をまとめながら、彼女の席を盗み見た。ちょうど彼女も立ち上がり、視線が交わった瞬間、私たちはどちらも小さく息を呑んだ。
「一緒に帰ろっか?」
彼女はいつものように自然な笑顔でそう言った。でも、その言葉の裏に、ほんの少しだけ照れたような気配が混じっていた。
「う、うん……いいよ。」
校門を出る頃には、空がもう夕焼けに染まり始めていた。風は少し冷たいけれど、刺すほどではない。むしろ、それは誰かの温もりをそっと求めさせるような、そんな優しい冷たさだった。
並んで歩く私たちの影が、地面に長く伸びている。近いようで、遠いようで、でもたしかに昨日の「おはよう」「おやすみ」とは違う空気が、そこにはあった。
「今日は……どうだった?」
星奈が優しく尋ねてくる。その声はいつものように軽やかで、それでいて、どこか様子をうかがうような慎重さがあった。
「うん……ちょっと、変な感じ……かな。」
「変な感じ?」
彼女は小首を傾げ、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「その──付き合ってるって、意識しちゃう感じの『変な感じ』?」
「そ、そんなことないよ!」
私は即座に否定したけれど、顔が熱くなっていくのがわかった。
彼女はくすっと笑った。その笑い声は、まるで風鈴のように、優しく耳元で響いた。
「顔、赤いよ。」
「……赤くないもん!」
私たちは学校の裏手にある細い路地へと入った。人通りも少なくて、静けさが心地よい場所。壁沿いの草むらが風に揺れ、まるでふたりだけに許された静寂が、そこにあった。
夕陽が斜めに射して、影がさらに長く、寄り添うように地面を這っていく。
歩いている途中、ふと手の横に、何かがかすかに触れた気がした。それは、彼女の指先だった。偶然のようでいて、どこか確信めいた触れ方。
私は彼女を見られず、ただ歩調が、自然と少しだけ遅くなった。
そして次の瞬間――
彼女の手が、そっと、ゆっくりと、私の指に重なった。
ほんの少しの触れ合いだったけれど、全身が一瞬で硬直する。胸の奥がふわりと熱を帯びて、呼吸が少しだけ乱れていく。
「……帰り道、こうやって手を繋いでも……いいかな?」
囁くような声が、耳の奥に届いた。
私はそっと彼女を見上げた。彼女もまた、まっすぐに私を見ていた。そこにはいつもの茶目っ気もなければ、からかうような笑みもない。ただ、淡く静かな優しさが、夕陽の中で滲んでいた。
「……うん、いいよ。」
私はほとんど囁くようにそう返し、そっと指を絡め返す。ぎゅっと、彼女の手を握りしめた。
その瞬間、言葉はいらなかった。
ただ手を繋いで、長い路地を歩いていく。二つの影が、夕暮れ色にゆっくりと重なっていく。
――この距離は、もう友達じゃない。友達より少し近くて、そして、胸が高鳴るくらい、特別なもの。
握りしめた手を見下ろす。まだ鼓動は速いまま、耳まで赤くなっているけれど。
でも私は、知っている。この日を境に、私たちの関係が静かに、確かに変わり始めたことを。「おはよう」と「おやすみ」の間にあるやりとりから、本物の、恋人としての絆へと。




