第1話 おはようとおやすみのあいだの距離
新年の行事が終わっても、街にはまだ祭りの余韻が残っていた。商店のショーウィンドウには福袋や年賀カードが並び、玄関にかけられたしめ縄は冬の風に揺れ、遠くの神社からは時折、鈴の音や太鼓の響きが微かに聞こえてくる――まるで、あの賑やかな時間にゆっくりと別れを告げているようだった。
空気にはあずき餅や焼き餅の香ばしい匂いが漂い、コンビニの棚には「お正月限定」と書かれたスイーツやドリンクがまだ並んでいる。それでも、街を行き交う足音は大晦日の頃のような喧騒とは違い、年の香りが少しずつ薄れていく中、静けさと余韻だけが、この冬休みの終わりを見守っていた。
新学期まで、残り一週間。
陽だまりに包まれた日々は、どこか気だるくて、時間はまるで温かいお茶のように、ゆっくりと冷めていく。だけど私は、ある人の存在のおかげで――この冬が、いつもより少しだけ温かく感じていた。
私にとって、この冬休みの空気は、もう以前とどこか違っていた。
星奈と付き合い始めてから、私たちはある小さな習慣を始めた――毎日の「おはよう」と「おやすみ」のメッセージ交換。
一見すると、教科書に載っているようなありふれた恋人のやり取り。でも、なぜだろう、それだけで日常がほんのり甘く揺らぎ始めたのだった。
あの日の朝、私はまだ布団の中でぐずぐずしていた。スマホの画面がぱっと光った瞬間、心臓が何かに撃たれたようにドキンと跳ね上がった。
「おはよう、遥。今日も夢で会えた?」
そんなメッセージのあとに、両腕を広げたクマのスタンプが一緒に送られていた。
私は唇をかみしめながら何度も読み返したけれど、指先はなかなか返信ボタンを押せなかった。
――ただの「おはよう」だよ。落ち着け、佐藤遥。
心の中でそう呟きながらも、顔はすでに茹でたエビみたいに熱くなっていた。
「お、おはよう。夢では会ってないけど……メッセージは見たよ」
送信ボタンを押した瞬間、スマホを毛布の中に放り投げてしまいたくなった。けれど、数秒後にはまた通知の振動が走る。
「えぇぇ~? ひど~い!」
「今日も夢で会えなかったら、夜、夢の中に電話してやるからね~」
彼女の口調はいつも自然で甘えた感じで、ふと投げかけた一言がまるで砂糖みたいに甘くて、でも不思議としつこくない。
私は小さく笑いながら、口元がふわりと緩んでいくのを止められなかった。
あの日から、朝目覚めて最初にすることは、彼女のメッセージを確認することになった。
たとえただの「おはよう」でも、何度も何度も読み返してしまう。まるで、自分に問いかけているようだった――私たち、本当に恋人になったんだよねって。
時間は、手のひらで温められたミルクのように、少しずつゆっくりと流れていく。新学期まで、あと三日。
カレンダーに丸をつけたその日付を見つめながら、少しの不安と、言葉にできない期待が、胸の奥にそっと灯っていた。
***
夕暮れが近づき、私はひとりで帰り道を歩いていた。
空は淡い橙色に染まり、街灯はまだ点いていない。冬の終わりと春の訪れが混ざり合ったような、少し冷たい風が頬を撫でていく。
ポケットの中でスマホが震えた瞬間、心臓も一緒に跳ねた。
「今日もお疲れさま〜おうちに帰ったら、ちゃんと手と足をあっためてね」
「おやすみ。夢でも、ちゃんと会おうね?」
足が止まった。私は、角にある古本屋の前で立ち尽くしたまま、そのメッセージを見つめる。
――夢でも、ちゃんと会おうね?
ただの言葉。なのに、耳元で彼女が囁いてくれるような、そんな不思議な優しさに包まれる。
「……誰が夢なんか見るもんか」
そう小さく呟きながら、スマホをぎゅっと握りしめる。でも心の中では、そっと願ってしまっていた。
――本当に、夢で会えたらいいのに。
***
その夜、私は何度も寝返りを打っていた。
布団の中はぽかぽかなのに、心臓だけがずっと熱くて、落ち着いて眠れなかった。
彼女のスタンプ、声の調子、そしてあの一言が、何度も頭の中で繰り返される。
「夢でも、ちゃんと会おうね?」
私はそっと身体を横に向けて、枕に顔を埋めながら、聞き取れるかどうかの小さな声でつぶやいた。
「……じゃあ、ちゃんと出てきてよね」
「恋人」っていう肩書きに、まだ慣れていない。恋をするって、どういうことかも、よくわかっていない。
だけど――毎朝の「おはよう」と、毎晩の「おやすみ」があるだけで、朝を待つことが嬉しくなった。夜が少し、愛おしくなった。
心のリズムをそっと揺らす「君」は、もうこんなにも自然に、私の毎日に住み着いている。




