第5話 夜市の人混みに包まれたハグ
夜市の賑わいはまだ収まっていなかった。人波が徐々に増していく屋台の間を、私たちはゆっくり歩いていた。手には、最後の一杯となったほかほかの甘酒があり、その甘い香りが冷たい風に乗ってふわりと漂っていた。
気づけば、人はさらに増えていた。前方では子どもたちが走り回って笑い声を上げ、後ろからは急ぎ足の男子高校生が肩をかすめて通り過ぎる。通路はどんどん狭くなっていった。私は立ち止まり、道を譲ろうとしたそのとき、急に振り返った通行人の買い物袋が私にぶつかりそうになった。一瞬驚いて足がふらついた——その瞬間、誰かの手がぎゅっと私の手を握った。
「……気をつけて」
彼女が言った。風のように優しい声だったけれど、その手は温かくて、私の全身に電流が走ったような気がした。
見下ろすと、私たちの指がしっかりと絡んでいた。彼女の掌は力強く、でも荒れてはいなくて、まるで最初から私を守るためにあるみたいだった。
「人が多いから、はぐれるといけないし」
彼女は続けた。顔を横に向けて前を見つめながら、声だけは不自然に小さく聞こえた。
私は小さくうなずき、そっと言った。
「……ありがとう」
彼女は最初、軽く私の手を握っていただけだった。でも数秒後——その指先が、ほんの少しだけ強く握り返してきた。私は一瞬戸惑って、彼女の顔をちらりと見上げる。彼女の視線が私の顔をかすめて、すぐに逸らされた。
もしかして……今、見てた?
思わず笑いそうになってしまった。私も小さく握り返してみる。そっと、そっと、伝えるように。
「……ここの甘酒、美味しいね」
私は急に話しかけた。少し早口になってしまったのは、さっきの無意識の反応を誤魔化すためだった。
「うん、甘くて……遙みたい」
彼女は即座に返してきた。そして、いたずらっぽく笑った。
耳まで真っ赤になった。
私たちは人混みの中をそのままゆっくりと歩き続けた。すると突然、大学生くらいの男の人がぶつかってきた。動きが速すぎて、私は反応すらできなかった。次の瞬間——星奈の手がぐっと力を込め、私をそのまま彼女の胸元に引き寄せた。
私は彼女の胸に抱きしめられたまま、はっきりと彼女の心音が耳に響いた。彼女はもう片方の手でしっかりと私を守り、そのままその男を冷たい目でにらみつけた。
「……ごめんなさい」
男は慌てて謝り、そのまま去っていった。
それでも、私たちはしばらくそのままの体勢だった。彼女の手はまだ離れていない。彼女の息遣いが、ほとんど額に届きそうなほど近くに感じられた。
「大丈夫?」
彼女が顔を覗き込むように聞いた。
「……うん」
私は頷いた。でも、彼女の目を見ることはできなかった。彼女に抱きしめられるのは初めてじゃない、でも、人混みの中で、こんなに自然に彼女に守られたのは初めてだった。私は、てっきり恥ずかしくて動けなくなるかと思っていた。拒絶したり、戸惑ったりするんじゃないかって——でも、何もしなかった。ただ静かに彼女の胸に寄り添って、雷のように響く心音を聞いていた。二人で、しばらく何も言わずに。
そして彼女は、ゆっくりと手をほどいた。その動きはどこか、名残惜しそうだった。
私たちはそのまま、夜市の出口に向かって歩いていった。手をつないだまま、何も言葉を交わさずに。ただ、さっきからずっと感じていた、私たちの距離は、静かに、でも確かに縮まっていた。
夜市を離れるころには、堤防沿いの風が少しだけ冷たくなっていた。人混みは徐々に引いていき、屋台の灯りも一つまた一つと消えてゆく。夜の帳が、まるでベルベットのように静かに街を包み込んでいく。
私たちは、屋台で買った甘酒を手に、家に向かう橋の上をゆっくり歩いていた。紙コップの中の甘酒はまだほんのりと温かくて、その熱が指先にじんわりと染み込んでくる。まるで、さっきの笑い声や高鳴る鼓動を封じ込めた、今夜だけのぬくもり。
川面には遠くの灯りと星の光が映り、風が水面をかすめて、ひんやりとした空気を運んでくる。
「遥、未来の約束って……考えたこと、ある?」
その声はとても優しくて、今この静けさを壊さないようにそっと置かれたようだった。
私は彼女の方を振り向いた。橋の灯りと夜の闇が交差する光の中で、彼女の横顔は浮かび上がる。長い睫毛が瞼に柔らかな影を落としていて、その輪郭があまりに綺麗で、息を呑んでしまった。
「……もし、できるなら……来年も一緒に初詣、行きたいな」
少しだけ迷いながら、私はその言葉を口にした。それはまるで、何かをそっと探るような、慎重な気持ちだった。
彼女は一瞬だけ驚いたように瞬きをしてから、ふわりと笑った。その笑顔は、いつもの自信に満ちたものでも、いたずらっぽい表情でもなくて、夕日のように優しくて、どこか少しだけ切なくて、それでもとてもあたたかかった。
「じゃあ、約束だよ」
そう言って、彼女は子供みたいに小指を差し出してきた。
私は少し照れながらも、自分の小指を伸ばして、そっと彼女の指に絡めた。
たったそれだけの、小さな指切り――だけど、それは私たちふたりだけの、特別な秘密の誓いだった。
新しい年。
この先、何が起こるかはまだ分からない。私はちゃんとした恋人になれるか自信がないし、きっと不安も、迷いも、そして失うことへの怖さも、この先ずっとあると思う。
でも――それでもいい。
彼女が手をつないでくれる限り、私は一歩ずつでも進んでいける。この旅路はもう、私ひとりのものじゃないから。
これは、私たちふたりが踏み出した最初の一年の物語。そしてきっと、果てしない未来へ続く、最初のページだ。




