第1話 告白のあと、私は
帰り道、私はずっと、足元が雲の上にあるみたいな感覚だった。どこかふわふわしていて、現実味がなかった。電車の中でふたり並んでゆらゆら揺れながら、私は窓にもたれ、頬の熱は冷めないまま、胸の鼓動も落ち着こうとしなかった。
「好きだよ」
あの言葉は、私の口から出た。……やだ、私……一体なにやってるの……。
私はずっと、自分は人との会話に慣れてると思ってた。相手が誰でも、どれだけ正式な場でも、落ち着いて受け答えができると。けれど、あの薄暗い観覧車のゴンドラの中──彼女がすぐ隣にいるだけで、息の仕方を忘れそうになるほど緊張して、指先が震えて、声まで震えていた。
彼女が数秒黙ったとき、私の心は少しずつ沈んでいった。もしかして……また、大切な人を遠ざけてしまったんじゃないかって。けれど彼女は、そっと小さくうなずいて、目にきらきら光を宿したまま、優しい声で返してくれた。
「……うん、私も好きだよ」
その瞬間、私の世界がぱっと明るくなった気がした。
これが、恋なんだ。
完璧な演出でも、格好いい告白でもない。ただ、言葉に詰まり、彼女の沈黙に怯え、それでも抑えきれず溢れてしまう感情の嵐。
でも私は、その嵐に飲み込まれてしまってもいいって、心から思った。
***
家に帰ると、両親はまだ帰っていなくて、玲奈は部屋で自習していた。家の中はしんと静まり返っていて、台所の明かりだけがぽつんと灯っていた。それは、まだ消えきらない余韻のようだった。
私は着替えて、水を一杯注いだまま、流し台の前でしばらくぼーっと立ち尽くしていた。水面が小さく揺れていて、それがまるで今の私の気持ちみたいで、静かなのに止まらない震えがあった。
グラスをそっと置いて、自分の部屋に戻る。ドアを閉めた瞬間、空気がひときわ静かになった気がした。背中をドアに預け、深く息を吸って、私は小さな声で自分に言った。
「……本当に、できたんだ」
まるで、奇跡が本当に起きたことを確かめるみたいに。私は本当に……彼女と付き合うことになったんだ。
今、彼女は私の恋人。
脳裏に浮かぶのは、赤く染まった彼女の顔、手を繋いだあの瞬間……まるで映画のワンシーンみたいに、何度も巻き戻されて再生されていく。
今、彼女も私と同じように、自分の部屋でごろごろしながら、顔を真っ赤にしてたりするのかな?
そう思ったら、思わず声が漏れた。私はそのままベッドに倒れ込み、枕を抱きしめて、布団の中に顔をうずめながら肩を震わせて笑った。
「佐藤遥……私の恋人」
その言葉が、何度も心の中を巡っていく。まるで風鈴の音みたいに、柔らかく鳴り響いていた。
私の恋人。
この文字が、あまりにも甘すぎて、泣きたくなるくらいだった。
私は枕を抱えたまま、ベッドの上を何度も転がった。心臓はまだ、ずっと跳ね続けている。
ふと、ひとつの想いが頭をよぎった──彼女、もう家に着いたかな?
私はぱっと起き上がり、スマホを手に取った。指先が緊張と期待で震えながら、メッセージアプリを開く。数秒ほど迷ったけど、勇気を出して、先に一通送ってみた。
「もう家着いた?」
画面に浮かぶ短い言葉。それだけで、まるで心臓の鼓動ごと送り出したみたいにドキドキしていた。……うぅ、しつこいって思われたらどうしよう。でも、どうしても今の彼女の様子が気になる。ちゃんと無事に帰れたか知りたいし、私がずっと彼女のことを考えてるって、伝えたい。
数秒後、画面がぱっと光った。
「今ついたところ。そっちは?」
その返事を見た瞬間、私はベッドの上で思わず三回くらい転がってしまった。返してくれた!しかも、私のことも気にしてくれてる!
慌てて返信を打つ。
「私も〜」
それだけじゃ足りなくて、ついもう一言追加してしまう。
「なんだか今夜は、眠れそうにないかも」
送信ボタンを押した瞬間、私は顔を枕にうずめて、布団の中で全身が熱くなるのを感じた。
眠れないよ。だって、心臓が落ち着こうとしないんだから。
***
私はずっと思ってた──もう誰かを、心から好きになることなんてないって。だって、深く好きになればなるほど、傷つくのはいつも自分だから。だから私は、たくさんの感情を隠すことに慣れてしまった。「好きになってもらえる自分」だけを見せるようになった。距離を保ち、人を近づけず、失望もさせず、傷つくこともないように。
だけど、彼女の前では、そんなふうにしなくてもよかった。完璧でいる必要なんてなかったし、いつもみたいに仮面をつけて、誰かの期待に応える必要もなかった。
彼女は教えてくれた──私が不完全でも、弱くても、怖くても、自分を信じられないときがあっても……それでも、彼女は迷うことなく私の手を取って、「好きだよ」って言ってくれるんだって。
彼女は、私をボロボロにした過去の誰かとは違う。彼女は私に教えてくれた。たとえ、かつて愛を疑って、感情から目を背けていたとしても……私は、誰かに好きになってもらっていい、大切にされていい、誰かの心の中で「たったひとり」になっていいってことを。
ようやく気づいたんだ──彼女を好きになったことで、私はやわらかくなれた。そして、強くもなれた。
今……本当に、会いたい。笑いながら私の名前を呼んでほしい。手を繋いで、一緒に下校したい。晴れの日も、雨の日も、どんな天気の日でも、彼女と一緒に歩いていたい。
伝えたいんだ──私は頑張るよ。あなたが「好きになってよかった」と思えるような人になれるように。
「……おやすみ、遥」
私はそっと彼女の名前を口にする。それはまるで祈りであり、告白のようだった。そして、ゆっくりと枕元の灯りを消す。
やっぱり、今夜は甘すぎて眠れそうにない。布団の中にひとり分の心音が響いていて、それはまるで明日を待つ音。彼女にまた会える、その瞬間を待つ音だった。
数日間、私たちは会えなかった。朝と夜にメッセージを送り合って、今日あったちょっとした出来事を報告しあうだけ。「お昼は何を食べた」とか、「シャンプー倒してこぼしちゃった」とか。平凡で、何気ない会話。それでも相手が彼女だから、特別で、愛おしくてたまらなかった。
たぶん、数日会ってないせいだと思う。私はふとしたときに、彼女のことを思い出してしまう。話すときの声のトーン、振り向いたときの目元のやさしいカーブ──
彼女も、私と同じように感じてくれてるのかな?メッセージを打つ前に長く悩んで、スタンプを付けるかどうか、どんな言い回しにするか、自然に見えるか、気にしすぎじゃないか……そんなふうに迷ったりしてるのかな?
明日は、お正月。私たちが「恋人」として迎える初めての新しい年。そう思うだけで、胸が高鳴って止まらない。
私はスマホを手に取り、朝からずっと迷っていたメッセージを、ようやく打ち込んだ。
「遥、明日一緒に初詣行かない?」
一分も経たないうちに、返信が届いた。
「うん、明日ね」
その短い返事が、まるで冬の午後に差し込む、いちばんやさしい陽だまりみたいに、私の心のいちばん柔らかい場所にふんわり届いた。
私はスマホを胸にぎゅっと抱きしめて、布団の中にくるまりながら、思わず笑ってしまった。まるでバカみたいに笑って、耳まで熱くなってしまう。
明日、彼女に会えるんだ。私の恋人。私の彼女。そのことを考えるだけで、胸が蜜に包まれたみたいに甘くて、とろけてしまいそう。
明日が早く来ればいいのに。彼女に会いたくてたまらなかった夜が、ひとつひとつ、全部叶いますように。